枠 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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【枠】


まだこれからの作業だが、今週水曜までに書かなければならない「文學界」扉詩、その最大枠が、二十七字×二十五行に設定されているのが重い。設定にすでに改行詩創作の使嗾があるためだ。このごろは改行による呼吸の明示をきらい、呼吸を散文のなかに填めこんでいる。また雪中の鴉にならい、雪を詩作の糧にするのもやめている。こんなときあらためて改行詩をつくるなら自分のからだがはだかになるような気さえするのだ。できるだろうか。ともあれ余白をつくるべく一行を十五字前後にならべたいが、二十五行の幅だけはまもってみよう――そうかんがえてとつぜん枠の処女性のもんだいにも突きあたる。

短歌や俳句の定型とはことなり、自由詩では一回性の枠がその都度できる。みがきぬかれた定型ではないのだから、自由詩では枠そのものが呼吸しない。内側から呼吸させるのみだ。たしかにいきおいにまかせて書けば一回ごとに完成がみちびかれるが、ことは依頼詩稿で、それゆえ設定枠のもつ外延や潜勢を想像、そこに自由と拘束を暗闘させなければならない。自分はどこに立つか。たとえばそれで枠のかすませる林立性への距離と縮率をきめ、どのていど葉をしげらせるかが算段されることになる。音の像はうかぶのか。とうぜん依頼詩稿に字数枠組のあることの是非までもが創作の減退要因にもなってゆくだろう。

突破できる方法があるとすれば、それこそが枠内を歩行してゆく身体性だろうとおもう。処女性へはいってゆく不埒なからだがひつようなのだ。枠がおのれをゆらめかせてみせるもの聴かせるものが、そのまま換喩的なずれをつくりだすまで、ことばのなかに歩行がきえなければならない。ほんとうの事物のように音のように、「在ること」が遅れてあらわれなければならない。このずれが「ないもの」、たとえば蒼鶸を樹にやどらせ、事物をそれじたいにさせない線もうまれてゆく。しなること、もえること。最終的にはその線は書き手じしんへ適用され不明が放縦と豊饒にかわるのだ。遅れるために速さをつかって、きえとあらわれにも均衡ができるのだろうが、はじめから虚無であるものになんの橋渡しがあるのか。きょうの潜勢度ならゼロにすぎない。どこにも徴候のない心内にたちすくみ、ぼんやりとした内部ができているだけだ。もしかしてこれが枠なのだろうか。脳が脈打つ。
 
 

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2014年02月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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