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井口奈己・ニシノユキヒコの恋と冒険 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

井口奈己・ニシノユキヒコの恋と冒険のページです。

井口奈己・ニシノユキヒコの恋と冒険

 
 
【井口奈己監督・脚本・編集『ニシノユキヒコの恋と冒険』】


『犬猫』『人のセックスを笑うな』、そして新作『ニシノユキヒコの恋と冒険』と、井口奈己の脚本・監督作品を観てゆくと、ひとつの視界への収斂が起こるような気になる。すべてが恋愛劇なのだが、(モテ)男の「うすさ=稀薄さ」への異議申立がまずある。ところがそのうすさから語義矛盾だが、極薄=アンフラマンス(→デュシャン)な世界の「奥行」がひろがるのだ。そうして「世界」への肯定的な郷愁感覚といったものが出現してくる。

そうなると井口映画では、恋愛をえがくことと、空間をえがくこととが同義となる。空間を前提としない恋愛などありえないという信念がつらぬかれているといってもいい。それが恋愛描写に具体性、リアルをともす。くわえて8ミリ作品から出発した井口にとっては「話法」がサイレント映画的な推進をみせる局面もある。そこでは「空気」も召喚されている。

井口映画の技術は撮影と整音の双方に力量を発揮する鈴木昭彦に多くを負っていて、撮影はだれもが指摘するようにフィックス(固定撮影)が中心だ。このフィックスがフレーム内に「みえるもの」「みえないもの」の分離をつくりあげ、同時に「みえないフレーム外」を宙吊りにする。それら「みえないところ」への興味をめぐって「語り」が駆動する。こうしたことが井口作品特有のやわらかな質感をもたらし、鑑賞が「やめられなくなる」。

今回の『ニシノユキヒコの恋と冒険』の内容をまずひとことで要約するなら、女性の恋情をその徴候から詳細に読めるモテ男の、それでもほろにがかった恋愛遍歴だ。ところがモテ男は自分から積極的に相手にアプローチすることなく、立居振舞には端正な「待機」のうつくしさがある。そんな理想的な美男がなぜか生涯、相手から「振られ」つづけたというのだ。

映画は彼が振られる瞬間を描出しない。観客は「描写の外部」からモテ男の運命的な転換点と属性を想像しなければならなくなる。描写「内/外」のふしぎな均衡。ともあれ彼が恋愛対象を特化せず「世界」を等分にあつかうことが女からの不信(不審)をまねくのだと予想が立つが、問題の本質は彼の存在の感触が、おもたい事物が重畳している世界にあって、すがすがしいほど「うすい」点にこそあるのではないか。くりかえすが、その「うすさ」は非難対象なのではなく、郷愁の対象なのだった。

原作は川上弘美の同題小説(未読)。美男の恋愛が遍歴形になること、また恋愛対象に母-娘への架橋が暗示されること、最後には当人を死がつつむこと、これらによって川上の小説が紫式部『源氏物語』の現在的な翻案だとは容易につかめる。ひとつだけ違和を申し述べておくと、『真鶴』にしても『どこから行っても遠い町』にしても川上小説には地誌的に綿密な設計図が裏打ちされる系譜があるのだが、映画『ニシノユキヒコの恋と冒険』では撮影される土地が景観重視なので「つながっていない」。江ノ電車中のシーンがあって車内アナウンスに「次は七里ヶ浜」とながれるのだが、江ノ電に親炙したひとなら車窓風景が七里ヶ浜を過ぎて鎌倉高校前にむかっていることがすぐわかる。こうした鎌倉の設定に、さらにお茶の水の聖橋付近、横浜・馬車道までが混在してきて、だれの住居がどこにあるのか不確かになってしまう。それにしては人物たちの往き来が近すぎるのだ。

むろん上記はちいさな瑕疵だ。フィックスショットがもちうる「みえないもの」の意味化、それが「語り」をしずかに、抑制的に駆動させてゆく機微にこそ、極上の味のある美点はうごかない。

例でいえばタイトル表示(それ以前のアヴァンタイトルでは海辺の軽食ハウスのなかでのニシノユキヒコ=竹野内豊、夏美=麻生久美子、その娘・みなみ=子役のやりとりがつづられる――そこでニシノとみなみが食べつつもみなみじしんは注文していない「バナナパフェ」が重要な小道具となる。それから時間を置き、ニシノの交通事故の暗示が後続する)のあと、ニシノが画面に再出現する呼吸だ。まずは前提なしに、帰宅した女子高生の室内での日常が描かれてゆく。中身なし、白飯だけのデカい三角おにぎり(二合くらいありそうだ)を彼女が食べきれるか否かといった些末な興味。

ここに一匹の室内犬(テリア)がからむ。フィックスの引き画面が厨房でのセーラー服姿の女子高生の腰から上を捉えていたとおもう。床をカシャカシャ爪音を立ててひくくうごく犬は、椅子にのぼって上体を起こしたり、床から跳びあがったりしなければ画面に映ることができない。ほとんどが画面内の「爪音」である「気配」の犬が、予測不能の間歇性をもってチラチラ画面にからだの「部分」を出現させるのだった。これを犬であると同時に、犬の姿をした「徴候」とはいえないだろうか。井口映画では徴候はすべてうごきをともなっている。この点にこそ映画性が確保されているともいえる。

すべてフィックスカットの連続のなか、娘は庭に出て、植物に水をやる。画面外扇風機が使用されているのだろう、庭の草木がゆれてくる。なにかアニミニスティックな妖気が画面を領してきて、そのタイミングでリバースに切り返されると、室内に白を基調にパナマ帽までかぶった、リゾート・シック、冒頭とおなじ恰好のニシノ=竹野内がいる。おもいかえせばそれまでアヴァンタイトル部分、竹野内を襲った事故の予想がながく宙吊りされていたのだった。おまけに、そのまえの麻生とのシーンでは「自分が死んだら幽霊となって会いにゆく」と、彼は秋成『菊花の約』につうじるようなことをいっていたと記憶がよみがえってくる。

「判明」は竹野内の語りにより、ゆるやかに訪れる。なるほど竹野内は交通事故で死んでいまは幽霊で、女子高生は往年の童女「みなみ」の長じた姿だった。しかも彼女の実母・「夏美」=麻生久美子は現在、娘と離れている。そのあと娘がどこに逃げても竹野内がその眼前や脇に位置することができるという神出鬼没性が描出され、付帯的に邸内の空間が召喚されてゆくことにもなるが、美男子の井口映画的な要件=「うすさ」が、竹野内が幽霊となったこの初期段階で完璧な「うすさ」と縫合されてしまっていたのだと、のち気づかされることになる。こういった遅延の出し入れが井口奈己の「語り」の巧者ぶりなのだった。

洋館でもよおされる竹野内の葬式に、幽霊・竹野内とともに女子高生「みなみ」がおもむくことになる。竹野内の「ゆかり」の女たちが蝟集していて、そこに実母・麻生久美子も現れるのではないかと娘「みなみ」は期待するのだが、画面はそうしたドラマ導線どおりにはうごかない。なぜか魅入られたように画面は、庭で弔問客を迎える楽団演奏に固定されるのだった。音楽は黒沢清作品などのゲイリー芦屋(ついでにいうとエンディング曲は七尾旅人)が担当しているが、楽団演奏はゲイリー芦屋の作曲中、意表をつくものだ。オフノート系の古軍楽、あるいはチンドン系で、エンディングに出てくるスタッフクレジットで中尾勘二などがはいっているとわかった。それにしても小さな改造ギターでチマい、不協和音的なオブリガートを弾きつづけるサングラスの男は誰だったのだろう。最初は大友良英ではないかとおもったのだが、クレジットをみて、ちがうとわかった。

弔問客のなかに料理学校でニシノと知り合ったという「ササキサユリ」=阿川佐和子がいて、彼女が「みなみ」と出会い、その回想を契機に、ニシノの女性遍歴が画面展開をはじめる。時制が複雑になる。以下、一気にニシノの「相手」となる女性を紹介すればこうなる。

○「マナミ」=尾野真千子。ニシノの勤務先の上司で、逡巡の末にニシノへの愛着を顕わにする。びっくり時計のなかの蛙になりたいという述懐が彼女の生のポジションを表明しているだろう。

○「カノコ」=本田翼。コケティッシュで積極的、可愛さを鼻にかける無邪気(迷惑)キャラ。ニシノと別れたのちもニシノの至近に出没し(幽霊のニシノを端緒に、この作品では神出鬼没性がリレーされる――彼女ののちは、ニシノのマンション居宅の隣室の猫がその役柄を担うようになる)、ニシノとは温泉旅行(伊香保)におもむくことになる。井口演出は本田を「お子ちゃま」演技のまま放置させ、その素材性を前面化させている。

○「昴」=成海璃子、「タマ」=木村文乃。ふたりはニシノの隣室居住者で、猫がベランダ伝いにニシノの部屋へ迷い込んだことから知遇を得る。ふたりのルームシェアにはレスビアンの匂いがあるが、両刀づかいの積極性をもって意図的にも無意識的にもニシノへコケティッシュな「隙」をみせる成海にたいし、木村には当初「硬い」という描写分けがなされる。このふたりはそれぞれの画面出入りがおもしろく、やはり画面進展に「徴候」をつくりあげる。

尾野真千子の演技が圧巻だ。TVドラマでもずっと見聞してきた竹野内の演技がいわば90年代の美男子記号の域を離れないのにたいし、尾野はゼロ年代以降の演技革新者だ。竹野内と尾野との恋仲のなったタイミングで、同僚のいない昼休み前、ふたりがいちゃつくシーンがある。竹野内がキャスター付の回転椅子に坐ったまま尾野の隣へきて、そこでキスを迫り、尾野のお尻が冷たいなどとからかうのだが、恋愛適齢期を徒過しかかっている尾野が、竹野内の一挙一動に焦り、存在しない衆目に気を払いながら、もたげてゆく内心の淫蕩に自笑的に照れ、その照れによって拒絶と承認のあいだをゆれうごく逆説的なコケットリーを、こまかいリアルな密度で「展開」してゆく。笑いがとまらなかった。

気づいたのだが、尾野の演技的な祖型のひとつは藤山直美かもしれない。その藤山に上乗せされているのが尾野特有の可笑的なエロ気で、「自分のエロ気を自分のエロ気が笑う」そのメタ的な自己再帰性こそが、ネタとベタの見分けがつかない今日性なのだった。尾野は自分の素材性を一種の羊皮紙にして、そこに上書きを素早く重ねてゆく。変換力におどろく。目鼻口、手足の連関がこれほど面白く、表情と内心を要約不能にする女優は稀だ。記号性に終始してしまう竹野内にたいし、尾野は生成にひらかれて自らを複雑に類型化する。記号とはちがう実在性をも画面に刻印する。この尾野を起点にするなら、相手役もゼロ年代以降の、おなじ生成性をもつ男優にすべきだったかもしれない。たとえば綾野剛。むろんこの映画の配役は「研音」枠だった。

原作小説でどうなっているか確認できていないが、この映画では男女の相愛成立に法則のようなものがにじんでいる。女が手にあまるほど大量だったり重かったりする何かをはこぶことをしいられて、その「何か=荷物」から付属物がこぼれ落ち、傍観できなくなった親切なニシノ=竹野内がそれらを拾ううち、自然と「同道」が組織されるというのがそれだ。尾野と竹野内が社内で相互を意識しながら相愛に踏み切れない状態を「決壊」させたのも、会議前に大量の資料をはこぶことを強いられた尾野を、竹野内が手助けしたからだった。

井口演出では、恋愛に陥る人間が引きおこす「突発的な動作」を注視することで、人間性を突発性の域へ回復させるユーモアが眼目となる。ベランダを伝う猫の出没によってマンションの隣室同士に障壁がなくなってしまったような空間的な奇蹟が生じ、ニシノの隣室者のうち、むっちりして肌の露出が多く、振舞そのものにも挑発性があって、ニシノの至近に猫とともに身を横たえるようになる成海璃子が、ニシノとズブズブの恋仲になりそうな気色となる。ところがある晩、成海が泥酔して前後不覚になり、その「運搬」が迎えに出た木村文乃の手にあまっているところをニシノ=竹野内が支え、とりこぼすいろいろなものを拾い、成海を運び入れるうちに、竹野内と木村に性的な緊張が生じてしまう。そこで触媒・竹野内の刺戟を受けて、木村文乃がこれまでの演技歴では予想もできない「意外」を演じてしまうのだ。これもまた井口演出の功徳だろう。

寝室のベッドに成海を寝かしつけたあと、居間のソファー、向かって左に竹野内、右に木村がしどけなく坐り、一息つくというよりもすでに無聊にもどかしくなって並んでいる。そうなるのは、隣人関係では何事にも前面に出ていた成海にたいし、終始慎ましい影の位置にいた木村が「硬いコンサバ」にみえて正体を明かしていないためだ。男性を許容しないレスビアンなのではないかという予感もあり、ふたりの間合いに妙な緊張がある。やがてふたりのくちびるが相互に接近しようとする。ところが躊躇がそれをひき放す。この恋愛動作の齟齬が二回かさなったあと、木村がくちびるを向けてきた竹野内に、自ら積極的に接吻する。齟齬(遅延)が前提され、それが決壊することで木村の存在が一挙に切ないほど恋愛色に染まるのだ。

木村は竹野内を「押し倒し」、ふたりの頭部はフィックスフレームの外側にアウトする。あとは猫の全身を収めるフィックスショット。毛づくろいをする猫のすがたのフレーム外に、ふたりの生々しい接吻音、愛撫音がながくつづく。このフィックスショットの持続の長さ、その外側に実像がみえないまま「意味」が生成されるのが井口演出の真骨頂だし、ショットの持続的長さそのものが衝撃となるのが井口演出の新しさだ。つまり井口のあたらしさとは、描かれる俳優動作の定着とともに、フィックスショットのつなぎまでもが生気を帯びて「演技をおこなう」点にある。

某氏のポストでこの映画ではいちゃつきがつづきフィックスショットがただ逼塞を結果している、監督が影響源としている清水宏へのとんでもない誤解があるといった妄言があった。某氏は「うすさ」「ゆらめき」「持続」「人物」「世界」が分離不能になる井口演出の魔法に一切気づいていない。「世界の徴候」がどんな想定外を築くかを思慮する能力がもともとないのだ。

この映画では遍歴の相手として「列挙」される麻生久美子、(阿川佐和子)、尾野真千子、本田翼、成海璃子、木村文乃にたいし、(阿川からニシノの遍歴を聴かされる)女子高生「みなみ」がひとり系列外にいる。彼女だけがニシノの恋愛圏の外側に、恋愛者の熱っぽい「はかなさ」とはちがう冷ややかな「はかなさ」で身を置いているのだ。演じた新人・中村ゆりかは顔をおぼえにくい細身の美少女といえるだろうが、ニシノの行動類型にある「うすさ」、あるいは幽霊化したあとの存在のほんとうの「うすさ」を、不作為中心の起居からあらかじめ起ちあがらせ、それを世界化させている。「黙って聞いている」「黙ってみている」「黙って同道している」彼女が、「恋愛」に右往左往する女たちよりも、形容矛盾だが「実在性にとんだうすさ」を体現していて、それが今日的存在の実質をつたえてくる。

完璧なニシノがなぜ相手を手中にしながら「振られ」つづけるのか、具体的に展開されない映画の外部を想像しているうち、映画の終了間際、その「外部」が土台になったように、「みなみ」=中村ゆりかを見事に捉えるシーンがうまれる。この映画では竹野内が事故に遭うまえ女に呼ばれて呼び声の場所に向かうさい一回だけ手持ちパンショットがあって、あとはすべて長短、遠近のフィックスショットで展開が固定されてきた。この禁を破ったのが、中村へのショットだった。

海辺の堤防のうえを、回転も交えて画面向かって左へとあるく中村を移動ショット(レールによるトラベリング)で追い、そこでこそ清水宏映画の符牒=「非中枢的な移動」が鮮やかに画面へ生起したのだ。この鮮やかさは何に貢献しているのか。「恋愛圏外」にこそ本質的にある「世界のうすさ」のかがやきだろう。彼女の画面上の「移動」はニシノ=竹野内の「遍歴」と同質的でありながらそれを凌駕した。「ことば」なし、画面変転の「呼吸」だけで映画的な意味を生成する井口演出は、ここでも見事というほかない。

映画は最後に冒頭回帰する。テラスつき、海辺の瀟洒な軽食ハウス。「三人いる――もしくはふたりいる」。幽霊の竹野内、その葬式帰りで竹野内の幽霊がみえない麻生久美子、それがみえる中村ゆりかが成員だ。この場面、中村が幼女時代から竹野内の「圏外」にいたことが、中村-竹野内の会話からわかる細部が見事だった。「バナナパフェは好きじゃなかったの」「そうだろうとおもった」。三人芝居では、竹野内に対峙している椅子に誰が坐っているかで演出=空間のフェイクがあった。円卓の三方をオーシャンヴューするように椅子が囲んでいるのだが、つなぎでは三つの椅子のうちふたつが一致して、麻生もしくは中村がおなじ場所から竹野内に語りかけるよう目論まれるのだ。

そこでおもう――「三人いる――もしくはふたりいる」。あ、と気づく。この作品が描いた関係のうち「竹野内―本田翼―尾野真千子」(本田は竹野内と尾野のいる空間に何度も不躾に闖入した)、あるいは「竹野内―成海璃子―木村文乃」にも「三人いる――もしくはふたりいる」が適用できるのだった。この算えにまつわる不確かな感覚が、どうやらこの作品の「はかなさ」を高度化している。これは『源氏物語』から採取される感覚を変型したものではないか。

「はかなさ」といえば、この作品には食事用の空間が多くでてくるのだが、そこではパフェとアイスクリーム(「しろくまくん」)いがい口にされるのはすべて飲料(コーヒー、紅茶、牛乳)だという鉄則がある。固形物がないのだ。しかもコーヒーの注文が紅茶にすりかわったりする。これらも「はかなさ」の醸成に貢献しているのではないか。あるいは竹野内の葬式に現れた木村文乃のパートナーが、成海璃子とはちがう別人にすりかわっているのも。

井口奈己にはフィルモグラフィ上の自己言及性と自己展開がある。「うすい男」というテーマについては前言した。『人のセックスを笑うな』で多用されたロングフィックスは、立脚がさらにメジャーになった今作ではその使用が選択的になった。8ミリ-35ミリ版セルフリメイクという経緯をたどった『犬猫』では「犬猫より劣る」と、女子ふたりを憤慨させた(これも「三人いる――もしくはふたりいる」という映画だった――あるいは『人のセックスを笑うな』でも松山ケンイチ、永作博美、蒼井優の関係などがそうだった)忍成修吾がいるだけで、「犬猫」が具体画面的には存在しなかったのに、この『ニシノユキヒコの恋と冒険』では「犬」「猫」が見事な実在感で画面に存在している。

残念な自己言及性がひとつある。竹野内が書店にいる場面で、山田宏一の名著『映画 果てしなきベスト・テン』が手にとられていることがそれだ。むろんそこには8ミリ版『犬猫』を絶賛した山田宏一の文章が収録されている。これはしかし狭隘な「自画自賛」や傲りしか印象させないだろう。映画そのものはもっとおおきなものへひらかれている。

――シネマフロンティア札幌にて二月十九日、鑑賞。
 
 

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2014年02月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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