生牡蠣
【生牡蠣】
よくかんがえれば描線はひとつの視線ではとらえられない。それは分離をしるす境界の内在線だ。つまり境界を主体に置けば、線もまた実体化ではなく消去の痕跡ということになる。それはつるみ入り、境界を性的にふるわせ、しかもそれ自身から遅れることでひとつのおのれをひとつにはしない。これがいくたびもよみがえる。たとえば輪郭も視点により刻々と移るが、そのことにすでに自他のセックスがあって、しかもそのまじわりすらまなざしにきえかかっている。むき身の貝はそうしてやわらかにひかる。線描は対象のひかりを決定的に悔いながら、それへの参与だけがぼんやりのこることで、そのものの味を先どりするような、混乱の時制をつくりあげている。「あったものはある」のではなくて「あるものはあった」。もともと境界がふくんでいたものとはそうした過去なのだ、と、ある日は口中の生牡蠣をうれいつくす。