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黒沢清、 遅/速の攪乱者 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

黒沢清、 遅/速の攪乱者のページです。

黒沢清、 遅/速の攪乱者

 
 
昨日は北大でひらかれた日中の映画研究者による「映画における速さと遅さ」の考究会で、発表をおこなった。事前にいうべきことの最大値をしるした講義メモのようなものをつくり、それを院生の張驍暁さんが中国語に全訳してくれた。これらふたつを日本人・中国人に配布した。ただししるしたことの半分ていどしか、はなしていない。講義草稿を準備するときのつねだ(パワーポイントでパンクチュアルな講演をすることができないのだ)。内容をその場その場で割愛・補足しながら、来場者の顔をみてかんがえをつたえた。わかりやすい、喋りがうまいと一応は好評だった。流暢で素早い通訳をしてくれた張驍暁さんに感謝します。

春休みで帰省している中国人学生や、バイト等で行けずに残念がっていた学部生のためにも、配布プリントを以下にアップしておく。なお昨日段階のものに若干の加筆訂正をおこなった。
 

 
 
 
 
 
黒沢清、 遅/速の攪乱者


●データ
『カリスマ』(2000)
スタッフ
監督/脚本=黒沢清、撮影=林淳一郎、美術=丸尾知行、音楽=ゲイリー芦屋、録音=井家眞紀夫
キャスト
薮池五郎=役所広司、桐山直人=池内博之、神保美津子=風吹ジュン、神保千鶴=洞口依子、中曽根敏=大杉漣、猫島=松重豊、坪井=大鷹明良、上司=塩野谷正幸

『LOFT』(2006)
スタッフ
監督/脚本=黒沢清、撮影=芦澤明子、美術=松本知恵、音楽=ゲイリー芦屋、録音=深田晃、照明=長田達也、編集=大永昌弘
キャスト
春名礼子=中谷美紀、吉岡誠=豊川悦司、木島幸一=西島秀俊、亜矢=安達祐実、野々村めぐみ=鈴木砂羽、村上=加藤晴彦
 
 
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・ある映画を「速い」「遅い」と判断できる基準とはなにか。
→俳優動作、カッティング、物語の進展、俳優の発語、背景の進展など
・「ジャンル」が関わる。→アクション映画、コメディなどが速く、文学作品を映画化した文芸映画、ミニマルに日常をとらえた低予算映画などが遅い
・香港映画(たとえばジャッキー・チェンの『プロジェクトA』シリーズ、『ポリス・ストーリー』シリーズ)では香港の細い路地が作品舞台に活用されることで映画=背景移動のスピードが加速されている。→ 一般に、密度の高い都市を舞台にすると映画は速くなる
・突出した速さをもつコメディのジャンルがスクリュー・ボール・コメディ(セックス・ウォー・コメディ)。代表作がハワード・ホークスによる『ヒズ・ガール・フライデー』(40)で、新聞記者のスクープ合戦を題材にした舞台劇「フロント・ページ」の映画化。第一回目の映画化=ルイス・マイルストン『犯罪都市』(31)は男性記者たちの活躍を描く社会派コメディだったが、それをホークスは男女記者(ケーリー・グラント/ロザリンド・ラッセル)のスクープ合戦にし、当事者同士の「いがみあい」「発情」が高速で交錯するスクリュー・ボール・コメディへ仕立て直した。スクリュー・ボールは野球用語で「くせ球」とかんがえればいい
・ヘイズ・コードの検閲を逃れるためベッドサイド・シーンなどがとうぜん描かれなかったが、悪辣なほどのセックス・ギャグ(口頭によるもの)が逆に満載されている。ところが早口=速射砲のやりとりを消化できず観客はただ茫然と笑うがままになる(ヘイズ・コード下なのに不道徳性が逆に高い)
・この作品はそののちまた原作舞台どおり男同士の好敵手関係に差し戻されて『フロント・ページ』(74)として再々映画化された(ジャック・レモン/ウォルター・マッソー主演によるビリー・ワイルダー監督作品)〔→※バート・レイノルズ、キャスリーン・ターナー主演によるテッド・コッチェフ監督作品『スイッチング・チャンネル』(88)が四度目の映画化で、これは『ヒズ・ガール・フライデー』のほうを典拠にしている〕
・歴史的傑作の『ヒズ・ガール・フライデー』だが、日本公開は86年まで見送られた。漫才のやりとりをおもわせる発語の速さを字幕処理できなかったからという噂もある。ただしこの作品の速さはそれだけではない。元来の男の役に「女」が混入したこと、さらには社会派的な正義追求と艶笑譚的不道徳の「キメラ合体」そのものが速さを呼んでいる(どっちつかずの振り子運動)。となると速さの要件をさらに「混合」と訂正しなければならなくなる

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・バスター・キートン的な速さは、速い俳優動作を追うショットやカッティングそのものが高速運動化される複合性をもつ。この着眼を成熟させたのがジル・ドゥルーズ『シネマ1』における「運動イメージ」にまつわる思考
・ところがドゥルーズ=ガタリは「遅速」にたいして「混合」的な見解を『千のプラトー』で展開している。「少女になること」の項がそれで、そこでは少女性が「速さによって遅れる」と規定されている(逆の「遅さによって速まる」でも構わないだろう)
・「混合」は映画組成の本質。だから観客を雰囲気(それはゆっくりさを基盤にしている)によって魅了する恋愛映画にさえも速さの導入が起こる。女優演技でそれをなしたのがたとえば成瀬巳喜男『浮雲』(55)でのヒロイン高峰秀子の視線演技だった(圧巻は本土で再会した高峰と森雅之が「待合旅館」に行き、ひさしぶりのキスを交わすシーン=拙著『成瀬巳喜男』参照)
・恋愛映画のカッティングが高速化する事例が最近は目立つ。→テレンス・マリック『トゥ・ザ・ワンダー』(13)、ロウ・イエ『パリ、ただよう花』(11)

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●『カリスマ』0:00-5:04再生
みられるもの→・学生映画的な限定性による描写効率(・警察内の長椅子を左右の壁を挟んで奥行に臨む/・警察官たちの段取りめいた動き/・銃発砲とカッティングとその位置関係ではドラマ的な高揚と予測可能性を奪う(役所広司が部屋から退場した直後にアングルが横にずれ、発砲が窓越しのロングショットでしめされる)/・唐突さ+無方向性+何重もの「段取り」(「計画」を盛り込むことは通常は唐突さを解除するよう向かうのだが、黒沢映画ではそうならない)+・一種の失調+・「寓意的な突出」(犯人が手渡すメモ「世界の法則を回復せよ」)+・無表情
・速さが一方向へのドラマ的加算だとすると、バラバラの要素を盛り込まれたこの冒頭シーンでは「一方向性」が瓦解していて、それゆえに「遅速」の判断が不可能となる
・これを「混合」の結果ともいえる。※混合されているもの → 基本は「フィルム・ノワール」起源の刑事ドラマ+寓意映画。フィルム・ノワールは破産にみちびかれる「真実の探求」、寓意は描かれている「そのもの」から信憑を奪うこと。このふたつが「混合」すると、真実を計測する目盛そのものが失効して、それが付帯的に「速度」の判断を不可能にしてゆく。あるのは遅さと速さとの脱臼的な「混合」。このことが画面の推移ひとつひとつに真の驚愕をあたえることになる
・作品全体の説明:やがて役所はフィルム・ノワールの要件「都市」から放逐され、森林に活躍の舞台を移されることになり、「カリスマ」と名づけられた一本の樹木をめぐっての利権競争に「巻き込まれる」。全森林を枯死させる「カリスマ」一本を擁護するのか、「カリスマ」を破滅させ全森林を守るのか。このとき冒頭の代議士と犯人双方を活かそうとして失敗した役所は、「カリスマと全森林との共存」こそを「世界の法則の回復」と確信するようになる。高度に抽象的な思考テーマで、じつはそれはフィルム・ノワールのもつテーマ系とは離反する。それなのに画面には終始濃厚なフィルム・ノワールの雰囲気が保たれている

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・通常はフィルム・ノワールの舞台として選択されない「森」(「都市」にあるような「不可視性」「謎」「奥行」が「森」では表現できない)→黒沢清はそれを突然の倒木やキノコ、「トラップ」(とらばさみ)、さらには「カリスマ」擁護派⇔除去派の利権闘争のなかでの「カリスマ」規定の錯綜によって表現する
●『カリスマ』1:05:52-1:10:22再生
・対立組織の錯綜は、人物の出入り+その方向の交錯と素早い転換によって表される。シーン転換と時間の「跳ばしかた」も「速く」、めまぐるしい。ところがその速度は空洞的な印象をあたえる。人物のうごきが儀式的・段取り的・寓喩的で、あらかじめすべてが決められている感触もあり、結果、作り手の「決定説的な」手許に思慮が向かうことで、アクションがその場で生成してくる印象をあたえない
・流れを整理するとこうなる。・「カリスマ」擁護派(役所広司+池内博之)が「カリスマ」売却のために「カリスマ」生息地を占拠した部隊(リーダーが松重豊)を急襲するが、樹木引き抜き阻止に失敗する→・部隊は引き抜きを完了させ、「カリスマ」をトラックに積載した。ところがトラックごと池内・役所が強奪する。→再度、植樹をしようとしたところで「カリスマ」撲滅推進派の洞口依子が池内を殴打→抜かれた「カリスマ」を奪い、その焼却に姉・風吹ジュンとともに成功する(洞口と風吹の焼却シーン自体はえがかれていない)→「カリスマ」を炎上させたが、役所は中空に「カリスマ」が繁りだすのを幻視する(CGアニメによる合成で、宮崎駿『となりのトトロ』のイメージが借用されている)
・出入りと時間省略と場所の変転がはっきりしているのに「停滞」している(速さによって遅さがつくられている)ようにかんじられるのはなぜか。→・人物にたいする感情描写がなく、うごきに人間性=高揚感が奪われ、寓喩的な儀式性(→カフカ)が前面化されている
・音にも注意。洞口による殴打シーンはぶっきらぼうな全景で捉えられ、音が不気味に鈍い(のち『カリスマ』では部隊内処刑もある――うつ伏せに寝かせた隊員の後頭部を大槌で打って撲殺する真の恐怖シーン)。前提(フォロースルーなど)もなく、唐突(黒沢清の暴力シーンはうごきの「渦中」を丸ごと捉えながら、うごきそのものを宙吊りにする→ cf北野武の暴力描写の「事前」「事後」のつなぎと唐突さはおなじだが、描写される暴力時間の質が虚/実で異なる)。役所の発砲による拳銃音も軽い(ただしそれは、実際はリアリズムによっている――「ズキューン…!」とオノマトペされる発砲音は現実には存在しない)。映画的な暴力は通常、速さを志向するが、黒沢映画にあっては、「速さ」「遅さ」が、「重さ」「軽さ」と同様に弁別できない
 
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・『カリスマ』はその後、意味をひとつには確定できない(内部にズレを孕んだ)「物語」を展開する。あたえられている物語が、べつの物語を内包しているこの二重の感触が寓喩的といえる。役所広司は「唐突に」巨大な切株状の枯れ木を「第二のカリスマ」と確信し、その処分権をめぐり「商売派=軍隊組織」「擁護派」「壊滅推進派」の攻防がおなじように起こり、権利売却金「一千万円」をめぐって洞口依子の「裏切り」(彼女は池内に日本刀で胴体を貫かれて死ぬ――その極め付きの暴力シーンをミスマッチのような「静謐」が支配しているのに注意)、池内博之の「裏切り」を呼び込んでゆく。恋仲のようにも見受けられる役所と植物学者(「カリスマ」撲滅推進派)の風吹ジュン。役所は第二のカリスマの爆薬による粉砕に「なぜか」協力し、しかもそこに芽吹いている「ひこばえ」こそが得られた次代の「カリスマ」だという信憑がドラマ上、成立してゆく。観客は混乱するしかない。この攻防で、役所は松重を撃ち彼を車椅子に載せて運ぶようになるが、そのまえ「カリスマ」の「ひこばえ」の処遇については風吹に一任、森を出る決意をする。物語の動静では「解決」の感触があるものの、物語そのものを吟味すれば「なにが解決されたのかわからない」解決だけがあったと結論づけられることになる。終わりちかくで「なぜか皆が森を抜け出せない」ブニュエル『皆殺しの天使』(62)的な寓喩がからむ
●『カリスマ』1:39:53-1:41:58再生
エンディング・ロールまでの映像伸展。夜の森から遠方を臨むと麓(町とおぼしい――しかしどこに「町」があったのか)がロマンチックに炎上している。夜空の雲の速い流れは微速度撮影。高速ヘリが通過してゆく。そこに役所の車椅子を支える役所の後姿が「合成」され、さらにハリウッド・エンディング特有のロマンチックな音楽(ゲイリー芦屋によるオーケストラ・ワルツ)が加算される。加算されるもの同士に実際は「連関」がないこのシーンに、「ゆるやかさ」が不気味にあふれている。つまり速度の面からいうと『カリスマ』は「遅速の弁別不能」→「内実を欠き現象としてのみ現れた遅さ」という経路をみずから辿ったことになる。この「狂った」作劇(それでも謎めいた感触が魅了してやまない)の土台になっているものとはなにか。ひとつは「寓喩」そのもののもつ多重性だろう。この多重性と、『カリスマ』が「映画ジャンル」の「記憶」を多重的にもっている点とが相即している。西部劇、フィルム・ノワール、アクション映画、怪獣映画、恋愛映画、議論映画、コーエン兄弟『ミラーズ・クロッシング』(90)etc.

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・黒沢清は「ひとつ多いこと」「通常予定される布置にさらに別要素をミスマッチに繰り込むこと」が自分の脚本づくりの秘法だと語ったことがある。意味の閉域に葛藤を繰り込み、意味の内部性が強化される――これも寓喩の流儀だ。『カリスマ』では「ひとつ目のカリスマ」に、「ふたつ目の(さらに素性のあやしい)カリスマ」が物語上、接ぎ木されたことがそれだった。同様の問題はホラーに分類される『LOFT』にもいえる。「木乃伊」(肉体はのこっていても魂のないもの)と「幽霊」(魂はのこっていても肉体のないもの)という、「共存不能なもの同士のドラマ的な同在」がそれにあたる。この幽霊と木乃伊の同在は、青山真治『Helpless』(96)のラストに先例がある


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・これら同在をつかさどるのは、ヒロイン中谷美紀にしつらえられる「複合」の作用だ。発見された「木乃伊」はとある有機的な泥によってその屍が腐敗することなく屍蝋化したという科学的な根拠が語られ、古代の女もまた不滅の肉体を得るため、その泥を服用までしたという逸話がさらに伝承される。その泥を「なぜか」中谷が嘔吐することで彼女はまず木乃伊と同位化される。同時に芥川賞作家の中谷は編集者・西島秀俊の斡旋により恋愛小説執筆用の一軒家を田舎に借りる。そこには前住者・安達祐実の幽霊が出没していると徐々に理解されてくるのだが、中谷・安達がともに小説執筆に携わる者であるほか、中谷の完全な背後から安達が出現することから、中谷は幽霊ともかさねられる
・「複合」はこの作品の人物関係を蝶番のようにむすびつける。曇りガラスのむこうに置かれた中谷の手に、こちら側から木乃伊学者・豊川悦司の手がかさねられる(豊川は中谷のいる居宅の向こう側の研究棟に出没する――とうぜん作品はヒッチコック『裏窓』〔54〕の空間を模倣している)。その豊川は、やがて殺人者と判明してゆく西島と背格好がとても似ていて、それもあり、安達の殺人が、西島の手になるものか豊川の手になるものかが不分明となる

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・作品では「木乃伊にまつわる昭和初期くらいの古いフィルム」が「引用」される。映画の現在時に、べつの時代・べつの次元の映像が嵌りこんでくるというのは、『CURE』(97)いらい黒沢ホラーの定番となっている
●『LOFT』19:26-21:37再生
・微速度撮影(コマ落とし)で撮られた定点観察映像は、加藤晴彦の説明によると一日の撮影分を30秒ていどにまとめあげたもの、ということになるのだが、観察結果は何の異変もつたえない。なにも動かないのだ。それでもわずかな露光時間でとらえられたノイズのような人影が幽霊のように画面内を何度か跳梁するし、古いフィルムの質感をつたえるためのノイズ・ギミックも周到に施されている。まずはこの資料映像がコマ落としという点では速いのに、なにもうごきがないという点では遅く、結果、「遅速」の弁別ができない事態に注意がむかう。黒沢的恐怖の真髄とはこんな無時間性なのではないか。捉えられているのは、台座のうえに置かれた「布にくるまれた何か」で、それが木乃伊だろうと予想がつく。むろんここから、うごかない木乃伊が、禁則を破って作品内の実景として「うごきだす」瞬間が待望されてゆくことになる
●『LOFT』51:20-54:58再生
・安達祐実の幽霊(顔色を中心に「黒」が過剰使用されている)が前言したように中谷の真後ろに同位的に現れ、やがてはその幻影の出没場所がそのまま中谷を導く展開となり、中谷は沼の畔から突堤や埠頭のように突き出た先にある、用途不明、浚渫機械のような空間へ注意を促される。用途不明という点にカフカの「処刑機械」からの参照があるだろう。霧の中、安達の姿は、蚕食されてからだに空白部分がふえてゆく。からだそのものが空虚をかかえる枠組のようになり、それで突堤の浚渫機械の形状と同位化されてゆく。このとき「形状の減少」を徐々にしるしてゆく時間は速いのか遅いのか。あるいは浚渫機械そのものが意志をもったように、消えてしまった安達の先で沼の水に直面して茫然とする中谷の後頭部を、殴打して気絶に導くとき、その機械のうごきは速いのか遅いのか。いずれも人知を超えたそれらの超常的なうごきは、「速くもあり遅くもある」――つまりはドゥルーズ=ガタリのいう少女性のように「速さによって遅れている」。遅速の攪乱をえがくには寓話と同等に恐怖劇も有効だとこの点でわかるが、むろん安達は死体のある場所を指さしており、それがこの作品の皮肉で恐ろしい結末にやがてつながることになる。『LOFT』で気づくべきはすべての時間が意志化された予兆だという点だ

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●『LOFT』1:14:43-1:23:22再生
・「時間の不安」、それは時間が個別的に所有できなくなる点とつうじている。いま再生したくだりは「生きている安達」が写し撮られることで回想シーンが無媒介に開始された事後理解を生ずるが、西島による安達の殺害、それを遠目に傍観していた豊川という関係式が崩れて、西島の殺人時間に豊川が「参与」させられてしまう魔法が駆使される。→作品全体の白眉。通常の鉛直軸が水平軸になった視界が挟み込まれる芦澤明子の撮影が不安で見事だ(照明では「点滅」も活用される)。西島による殺人までは段取りと省略にとんで西島-安達の葛藤と殺人が図式的にしるされ、西島が死体を詰める袋を物色する不在の「合間」を、危険に魅入られたように豊川が忍び込んでくる。夢幻性の感覚がつよい。救出者にみえていた豊川のまえで安達が息を吹き返しても一件が落着しない。安達はとつぜん木乃伊学者・豊川にとっての木乃伊に同位化され、対峙に緊張がたかまる。引き金になるのは「きみは誰だ?」という、『CURE』にもかたどられていた発語。やがてついに発せられた豊川の一言、「死人が口を利くんじゃない」によって、なんと安達は呪文が解けたように「ふたたび死んでしまう」。それが先の死とぴったりおなじ場所においてなのだった。このタイミングで西島が戻ってきて、安達の死体を袋詰めしはじめる(豊川は隠れている)。安達はだれによって死んだのか。ここではひとりの回想に別人が侵入して実現される「時間の他者性」がある。そこでは速さと遅さに弁別が消えるように、死をもたらした下手人の弁別すら無効になってしまう
・いずれにせよ、回想として作品にもうけられたこの袋状の時間のなかで、生きていた者―やがて幽霊となる者―木乃伊の三層に「重複」が起こる。とりわけ幽霊と木乃伊の重複が戦慄的な認知をもたらすだろう。これら「魂があって肉体のないもの」「肉体があって魂のないもの」が重複して生ずる事態とはなにか。魂と肉体の弁別不能性が第一。つぎに、「あらゆる死は決定できない」という主題だろう。これはじつはダニエル・シュミットの怪奇映画『ラ・パロマ』(74)の主題でもあった。結婚した歌姫イングリット・チューリンの心を得ることなく死なせてしまった大富豪ペーター・カーン。カーフェンは死後三年経過したら自分の墓を暴けと遺言をのこす。約束どおり暴くと、そこには瑞々しいほどに「生きている死体」があった…
●『LOFT』1:26:00-1:28:26再生
・ともあれ西島の記憶に混入してしまった豊川にとって、しかと視ていた西島による安達の埋葬が、じつは自分自身がおこなったものではないかという不安を取り去ることができない。それで豊川の再生に向け、恋仲になった中谷がその埋葬場所を(『ラ・パロマ』のように)掘り返してみようと励起する。結果、この時点では「死体は存在しなかった」。扇風機による大嵐、夜、豊川の哄笑、最後には歓喜にみちた豊川と中谷の接吻・抱擁。とうぜんこの「高揚感」は『ラ・パロマ』での相互得恋の瞬間(のようにみえた)、カーフェンとカーンによる伝説的な「山上のオペラ」に通底している
・むろん映画のなかに映画の引用が入れ子状態で伏在しているときにはべつの時間体系の支配が起こっていて、そこでも遅/速を弁別することができない。このことだけを強調して、『LOFT』の結末には具体的にふれないでおく
 
 

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2014年03月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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