松本秀文の犬
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いずれ詳細が決定し、やりとりが進みだしたら
この日記欄にもしるすことになるとおもうが、
森川雅美さん、久谷雉くんらと画策した
ネット上の「連詩大興行」で、
僕はこれまで誌面上の名でしか知らなかった詩人歌人と
いま次々に(メール上の)交友を開始している。
そのなかのひとり、松本秀文さんについては
僕が悪戯で「詩手帖」に拙詩を投稿し掲載されたとき
同じ投稿欄に彼の詩も選ばれていて、
そのラディカルな作風を意識していた。
その松本さんが詩集を送ってくれた。
『鶴町』(思潮社刊/06年11月)。
不勉強な僕は、松本さんが投稿を続けているものだから
まだ詩集を出していないものとばかり錯覚していたのだが
何とこれがすでに第二詩集だった。
すごく面白く読んだ。
以下はその感想。メモ書き的になるかもしれないけど。
詩集全体は、前半が比較的短い詩篇が並び、
後半は丸々、長詩「鶴町」が一挙に掲載されるという二部構成。
「鶴町」と綴ると
朔太郎「猫町」を反射的に想起する読者がいるかもしれないが、
さてどんな町か――。
把握に手っ取り早い詩行を57頁からもってきてしまおう。
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魔女たちの笑いから 混沌が生まれ
混沌は「自分」というものを 吐き出すために
ひとつの世界像を建築する
そこに浮かび上がる 巨大な影
呪われた影は 一羽の「鶴」をどろりと吐き出して
一羽の「鶴」を中心に 髑髏のような町が誕生する
不可能の「川」が 迷宮のように流れ始める
都市は 淫らな液体の緩やかなカーブを曲がって
境界が喪失した世界
鶴町
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最後の二行は
あとの「鶴町」が巨大なQ数の明朝体に「成長」し、
その直前、「境界が・・」は逆に小さく縮小されていて、
しかも行間が詰められている。
そう、前の行は後ろの行の「ルビ」という
従属状態を強いられているのだが、
「境界が喪失した世界」と「鶴町」の同格関係は不変だ。
「境界が喪失した」とはどういうことか。
浸透膜的境界が多孔質状を極め、
結果、「あらぬもの」「亡霊」が脈絡をはっきりさせぬまま
続々と「ここ」に現れては消えてゆく――
そんな「空間」が詩の時空に召喚されたとみていいだろう。
「出現」と「消滅」、離反する二つの運動の出入りが
松本さんの詩に繰り返される幻惑的眺めなのだった。
松本さんはランボー「酩酊船」を参照系として自ら記している。
なるほど、永遠の川を下る船の視界が
そこでは映画のように過ぎ去る幻像として次々に繰り出された。
ただ、僕がおもったのは
『追憶のハイウェイ61』や『ブロンド・オン・ブロンド』の頃の
ボブ・ディランの詩法だった、
「〇〇でAは――する/片や××でBは・・する」といった。
絵巻物に見られる、時間軸をも取り込んだ俯瞰視線が
気散じ・せっかちを感じさせる視線運動で世界を移動してゆく。
イメージは確かに瞬間的に浮かび上がるが
むしろその消滅が加算されてゆく「廃墟」の印象と
唄い手の焦燥自体のほうがよりつよく印象されてゆく。
この時代の(天才的)ディランの、
詩が創造されるときの必然的な「若さ」と同じものを
ずっと松本秀文の詩も分泌しつづける。
松本さんは79年生まれだが、
若いからその詩も若い、といいたいのではない。
真に詩が創造され、詩史が更新される媒質となる詩篇は
単に「属性上」、若いというだけだ。
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ともあれ、そうして境界が消滅したか多孔質になったから
松本さんの詩にはいろんなもの(動物)が続々登場する。
猿、牛、朔太郎由来か「青猫」・・
この状態は長詩「鶴町」のみならず、
前半の比較的短い個々の詩篇でも同様。
で、登場動物のなか僕がまず素晴らしいとおもったのが犬だった。
《最良の犬は憂鬱な顔をしている》――
メランコロジスト、武村知子さんの教えによると
これはG・K・チェスタートンの綴った言葉だそうです。
ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』には
これのより複雑なかたちでの発展的引用もある。
この言葉で読者は押井守の犬をおもうかもしれない。
犬は超感覚をもつ。未来への透視力ももつ。
だから混在として世界のありようを標す個々の犬のなかへ
さらに入れ子状に世界が「記載」されてゆく。
匂い、光、音、諦念、凶兆、瑞兆、愛、倦怠、不可避的集団性、
縄張り意識のマーキングによって
過分に/無駄におこなわれる世界の「内部分割」「結界化」・・
ところが犬は犬語のみのなかに通常いて、
彼らの観察記録、記載記録が世界の秘密の様相へ留まってしまう。
むろん世界の危機をほぼ犬は親密になった人間に積極的に告げない。
ということでいえば犬の受動性こそが諦念と冷笑の産物なのだが
かといって犬はそのことで優位に立てぬ「足りなさ」をも
自らに哀しくまとっている。犬は賢者であり、同時にバカなのだ。
こうした犬への把握によって、僕自身も「自分が犬だ」とおもう(笑)。
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松本さんの「犬」はみなこの僕の犬把握と同じ刻印を受けている。
犬に顕著な動物性の哀しさを自身に転用してこそ愛犬家であり、
それは「犬とともに」自らを世界認識に導く営みのはずなのだが、
犬をペットとして愛玩する多くはその犬自体への認識しかもたない。
犬の「四足の哀れ」が自身の哀れと同心円上にあると気づかない。
いっぽう松本さんの犬は、無駄な傍観者・記載者の哀れに満ち、
しかも動物観察の精確さも伴うから見事に存在が「足りない」のだ。
とりわけ彼の詩には「子犬たち」が
(間歇を伴うこともあるが)頻繁に登場してくる。
これは松本さんの世代全般の「子供時代」の喩であり、
同時に、「大人になりきれぬ」現在の姿の喩でもある――
そのように捉えられることを松本さん自身も厭っていないとおもう。
以下、松本秀文『鶴町』における「犬」の姿を頁表示なしに
できるだけ書き抜く(一応は登場順で)。
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僕のような犬は
静かな睡眠さえ供給されれば
それで一生は阿呆でもよいと思う
〔※この居直りに
「世代的不透明」「世代的物質感」が表明されているとおもう〕
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(手紙)
芝生犬のおじいさん
あなたは
地球犬そっくりの
宇宙犬だったから
この星で唯一
詩が書けたのでしょう
[※原文ではこの詩行には帯状の濃いアミ点がかかる]
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地下 下水管を流れる季節犬
亀(歴史)の上で胡坐をかき
「アカルイミライ」と呟きながら……
蟻の群衆を俯瞰する真空管の犬
ウマレルヨ ウマレルネ
卵とは「存在」の耐えられない爆弾
幸せな 吠える犬は くたびれて ぼんやり
ホテル『ランボー詩集』で 陶酔の銃を舐め
風がない世界で 変化がなければ 悪に散る
「姿なき革命」を追う奴隷犬たちは
何も入っていないバケツを模倣して
地下には何百万ものバケツが転がる
〔※僕も犬には「無駄な形象(おもに自然物)」にたいする
無駄な「模倣動作」を感じる。
水たまりになろうとしている犬とか。
それと僕は犬が風のなかで「散る」予感も覚えるのだが
それを「風がない世界で」と限定し、かつ
「散る」先を「悪」と限定した松本さんの詩想に完全KOされた〕
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[…]子犬たちは 時間の流れない平面に埋没したまま/青空に浮かぶイシの島に向かって 汚れた紙飛行機を(無限の深淵に届くように)飛ばす
[※「青空に浮かぶイシの島」は「天空の城ラピュタ」でいいのか?
ともあれ犬の「無為」がまた定着された]
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[…]子犬たちは TVゲームで(半分ほど死んでいる)ケモノを退治することに熱中している
[※こういう詩句により松本さんがサブカル世代と呼ばれる]
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老犬αは
「THE MATALLIC STATION」で
永遠に来ない友達を
ただひたすら待っている
〔※原文は尻揃えで全体が枠線に囲まれている
――犬の無為は生まれたときから死ぬまで続く〕
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「ここ以外には何もない」
老犬αはそう呟きながら
見えない川を歩行している
[※一頭の犬は結局、消滅しないかぎり世界のなかで
一定の場所を常に占めるしかない――
それが世界にいるということならば
この真実はとうぜん他の存在すべてにも援用されるのだが、
松本さんはそれが犬的な存在論だといっていないか?
――とすれば、犬が世界をおもわすだけではなく、
世界が犬をおもわしめているのかもしれない]
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子犬たちは笑いながら
几帳面な柔軟さを保ったうるおいを
地面の裏側で焦がしている
(あらゆる孤独は楽園を目指す)
〔※抽象的に詩句にみえるかもしれないが
僕は腹這いになる犬の姿がここに「見えてしまう」〕
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モノクロームの撮影者の蠅
モノクロームの被写体の蠅
黒眼鏡依存症の子犬たちは
映像の主体性について考えている
[※「阿部嘉昭による自画像」かとおもった(笑)――
言及されている映画には大和屋竺の影を感じた]
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かつて「繁栄」と呼ばれた空き地だけが
危機まみれの子犬たちの遊び場だ
爆弾を「運命」のように蹴り合うゲームが
路上で繰り広げられる
[※松本さんによる世代自画像か?]
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緑色の砂埃が複製機械の領土拡大を 空気中に呼びかけ
応答しない全ての「存在」の回路に ノイズを走らせ
子犬たちは 惑星の模型ばかりを愛し
好きな図形をした土地を ふわふわと舐め尽くす
〔※引用一行目「複製」のベンヤミン語により、
「惑星」もメランコリーの土星をイメージしてしまう――
メランコリーと「蒐集」の相関性が語られている気はしないか?
ちなみに犬は無駄な「蒐集家」だ――
彼らは骨を地面のなかに蒐め、やがてその事実も忘れてしまう〕
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草原の中に立ち現れる城は
孤独の結晶のように
英雄の似顔絵を描こうとする子犬たちの
薄い魂を吸収しながら
薄いスクリーンの中で肥大してゆく
〔※映画好き=客席の犬たちの反射物としてのエクラン
――そのエクランの肥大は犬たちの欲望によるのに
犬たちはその肥大にたいし無為無策なのだった
――そうして犬特有の「哀しみ」が点じられる〕
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ロケットに搭載された犬たちが
爆発しながら宇宙に唾を吐く
(あらゆる「存在」は
「運命」に最後まであらがうために生まれた)
〔※死んでも宇宙空間を回りつづけるとおもわせることで
巷間の紅涙を絞ったあのライカ犬のイメージが浮かぶ。
ただし詩の像はそこから確実に逸脱している。
とすれば、「一匹の犬としての僕の人生」と題されたあの映画に
松本秀文は敵意を燃やし、故意に像を歪ませたのではないか〕
※この項、次の日記に続きます(もう充分、長くなったので)