吉田恵輔・銀の匙
【吉田恵輔監督『銀の匙』】
冒頭、ホームルームの開始時間に間に合うよう校舎内の廊下や階段を右往左往するとりどりのすがたの高校一年生たちの躍動が、すばやい編集でつながれる。その最初のホームルーム(担任は中村獅童、蝦夷農業高校の畜産科一年次クラス)で、無媒介に新入生徒たちの自己紹介がはじまる。三番目が眼鏡をかけたSexy Zoneの中島健人。彼の一瞬の放心に、彼の出自=過去=設定がフラッシュバックされてゆく。札幌在住のエリートの父親、吹越満が、進学校に行っても学業が伸びず、全寮制生活で親から離れる逃避だけの進学を決意した中島(役名は「八軒勇吾」)を、苛立ちながら見捨てたと、のちさらにはっきりする局面が挿入されるのだ。自己紹介の結果この時点でわかるのは、彼がエリート中学からの落伍者であることと、はいった学校に目標=希望をもっていないことだ。
すでに「速度」が装填されている。農業・牧畜とは無縁だった、しかもモチベーションのないモヤシっ子のような高校男児が、次第に農牧業の実際に習熟し、ひ弱なからだに芯を入れ、現実のくるしさと将来展望に覚醒してゆくビルドゥングス・ロマンの構造には、「速度」の芯がはいらなければならないというマニフェストがすでにひびいているのだ。そののち、中島=八軒の自己形成は、めまぐるしい展開でつづいてゆく。中心となる級友の個別化とともに、朝に弱い彼が早朝の牧舎での餌やりに精を出し、可愛い級友・広瀬アリス(役名「御影アキ」)に乞われるまま馬術部にはいり、しかも夏休みには彼女の家業の牧畜を手伝って逞しさと自覚を獲得してゆく姿がえがかれてゆく。
たとえば厳寒の季節に撮影がおこなわれながら少しも画面が寒くなかった『抱きしめたい』に較べ、この作品で設定された早朝には早朝の空気が見事にあふれている。帯広畜産大学が農業高校のロケーションにつかわれているが、そこでは空間の厖大さが実感されるよう撮影と編集が組織されている。北海道的な景勝もまた、観光映画的にオホーツクを召喚した『抱きしめたい』とちがい、ほとんどつかわれていない。体育マラソンなどで草原に起伏をかたどってのびる北海道的な直線状の一本道がわずかに強調されるだけだ。それでも相米慎二『風花』のように「なにもないこと」が虚無的に謳われるわけでもない。「あるものはある」――それで広漠な牧場があり、広漠な学校用地があり、草原がある。ない人情や、ない華やかさまでもちだそうとする、地方自治体協賛映画とは、空間の実在感というこの点で、おおきな径庭がしめされている。
農牧では小規模経営者の離脱が北海道でも連続している。大規模化による農牧地の集約、近隣農牧業者間の共同経営化、農業と牧畜の連関により自然堆肥を確保しつつ、農産物のほかベーコン、ハムやチーズといった加工品を生産、産地直送ネットワークをつくるなど経営逼迫の打開法はとくに北海道ではTPP問題の不安にゆれながらもしめされている。
『銀の匙』の原作は「少年サンデー」の、現在もつづく長丁場連載のコミックだが、映画では中島健人のコンピュータ並みの暗算能力が繰りかえし描写されていて、彼はもしかすると原作マンガでも未来型の農牧経営に活路をひらく逸材となるのかもしれない。原作の若い巻までを読んだ中国人留学生の話では、原作マンガは若年層読者にむけたエロギャグも満載されているらしいが、この映画ではトーンがずっと真摯だともいう。しかもその真摯さが方向づけられている。
アポロキャップ、サングラス、黒スパッツというスポーティだかSだかわからないセクシィな姿に身をかためた教師、吹石一恵によるブタの飼育実習がある。母ブタの複乳に出の良いものとそうでないものがあり、うまれたきょうだいたちは生命力により出の良い乳首から授乳できる順番=ヒエラルキーを決定されてしまう、と吹石は冷酷に宣言する。競争社会に負けかかっている中島健人には耳の痛いご託宣だが、彼はいちばん弱い子豚に愛着してしまう。即座に名前をつけようとするが、名前をつけると屠畜がつらくなるという級友たちの意見を容れ、屠畜をも含意した中間的な「豚丼」を命名する。幸い「豚丼」はその後順調な成長をたどり、「結果」、屠畜される運命にいたる。広瀬アリス=御影の実家でのバイト料を得ていた中島は「買い上げる」という。吹石が激怒する。「どこで飼うというのか。今後のエサ代はどうするんだ」。成長した中島の答はちがった。なんと「精肉した「豚丼」の肉」をすべて買い上げると宣言したのだった。
この映画では牛や鶏もふくめ家畜はすべて「愛玩動物」と区別する意味で「経済動物」と呼びならわされている。きちっとした設定とエンドクレジットでの註釈つきで、差別問題に配慮しながら、敢然とブタの屠畜シーン(生徒たちの実習見学によるもの)も省略的ながら導入される。経済動物は、あるいは競走馬も廃馬になれば食肉となる――それが畜産業者の第一の「自覚」だった。その「自覚」のために、中島健人は愛着するブタ「豚丼」を、加工食品科の先輩学生の指導のもと、みずから不眠不休でベーコンなどにして周囲に振る舞ったのだ。校庭の一隅に生徒や教員が蝟集する。ベーコンをまず燻製ままの状態で旨い旨いとみなが食したのちは、ベーコンをつかった炒め物やチャーハンなどが次々に手伝いの学生たちのもとでつくられてゆく。これがつまり作品のしめす「方向」なのだった。
かんがえられるのは、キリスト教の理念「愛餐=アガペー」だ。この語は敬虔な信徒たちが食卓を囲むことを一般に意味しているが、奥がふかい。イエスが「これはわが肉」と十二使徒へパンを差しだし、「これはわが血」と葡萄酒を差しだしたゲッセマネの夜=最後の晩餐に淵源をもつからだ。食べることは殺生戒をふくんでいて、それでも殺して食べることが人間の条件だからこそ、そこに生存への愛がたちあげられるのだ。この信念があるから作品がドキュメンタリー『ある精肉店のはなし』同様、差別問題からも毅然としていて、しかも北海道にふかく根づくアイヌからキリスト教への風土すら土台にできる。経済動物の飼育が生理的な困難をともなう点にはほかの描写もある。糞便のつまった馬の肛門へ拳を入れかきだすディテールまで動員されたのだから、描写の峻厳性は徹底している。
ヒロインとなった「御影アキ」役、広瀬アリスが良い。昨今の若手女優にしてはやや太めだが、そこから「大地に立つ少女」の安定感が生まれている。中島健人は彼女の豊満な胸の谷間などに魅せられ、それで馬術部にはいることも、彼女の実家での夏休みの手伝い(ヘルニアを患った父・竹内力の欠員を埋めるため)も承諾するのだが、西部劇以来の映画が期待することは、美少女が、巨大でながい馬の顔を撫で、少女-馬のやさしく夢幻的な配合が生じることだろう。それを映画は見事にやってのける。広瀬アリスの実家ではいずれは十勝「ばんえい競馬」用の出走が期待される「キング」がやってきていて、その世話をする彼女には、ひそかに「ばんえい」の騎手になりたい夢もあったのだった。
その他、眼を引く若手俳優には、最初、牧場の息子として、根無し草の中島と価値対立的になり、のちには広瀬アリスをめぐって恋敵の様相も呈する市川知宏(役名「駒場」)がいる。市川の実家は父親が欠損して母親・西田尚美が女手で切り盛りする、北海道にしては小規模牧場で、しかも乳の出のわるい牛を食用に回さない温情もたたって、ついに離農を余儀なくされる。広瀬の牧場から隣(しかし北海道だから10キロも離れている)の西田の牧場に中島が野菜の搬入を頼まれる巧みな誘導があって、市川知宏の家族が紹介されるのだが、市川の幼いきょうだいとして童女の双子が登場するのが素晴らしい。だいたい「映画の双子」はそのものが蠱惑なのだが、ダイアン・アーバスや牛腸茂雄の写真をもおもわせるその神秘的な双子は、そこからの反照作用によって北海道の風土を豊饒にさせる機能まで負う。これは監督・吉田恵輔の演出なのか、原作コミックからの設定なのか。
市川の一家の離農、そしてその一家にカネを貸していた広瀬の一家の経営悪化(代償が「キング」の売却となる)――そのつらい現実に主人公・中島健人は覚醒する。周囲の級友たちの「どうにもならない」「どうしようもない」という見解(これは中国語の「没法子」とおなじだ)にたいし、中島だけが困難に立ち向かうすがたを寓意としてみせることで現実突破力を獲得しようとしだす。それで蝦夷農の学園祭にばんえい競馬を小規模にした輓馬(ばんば=ひきうま)レースのコースをつくり、そこで女性騎手を目指す馬術部のホープ広瀬アリスと、彼女の中学時代からのライバル(競走馬の飼育をしている点でもライバル)、高ピーのお嬢さま・黒木華との競馬対決(むろん他の出走馬もいる)を目論む。
現実スケジュール的には馬場の敷設など不可能という常識を覆したのは、それまであらゆる局面で中島の周囲にシニカルかつやさしく存在していた(とりわけベーコンの饗応で借りをあたえた)仲間たちだった。彼らが「援軍」として決定的な困難の局面で西部劇の地平線からのように登場するありさまから、この作品の祖形がハワード・ホークスやマキノ正博(雅弘)的系譜だとわかる。むろんばんえい競走馬の操馬技術は、叔父・哀川翔から広瀬アリスに伝授されるのだから、そこにはばんえい競馬を題材にした先行作『雪に願うこと』(根岸吉太郎監督)への崇敬もある(出演者では吹石一恵が共通している)。しかもVシネ二大スターの竹内力と哀川翔が、牧場主とばんえい厩務員同士、親族同士として2ショットに収まりながら、急坂の第二障害直前、いつ鞭入れをさせるかでふたり口論させる粋な遊びもある。
ついに校舎裏に輓馬(ひきうま)馬場が完成し、広瀬アリス用の橇もミスマッチに化粧された。はじまった輓馬レースが圧巻だ。この作品では速さが組織されていると最初のほうでしるした。しかもそれはエピソードのフラッシュつなぎによる等重量配分ではなく、主人公中島健人の成長と、農牧業的な苦渋がそれぞれクレッシェンド状に織り合わされていた。
学内の輓馬レース開催はひとつの「寓意」だが、その寓意と連絡しているのは、「銀の匙をもって生まれた子には喰いっぱぐれがない」という校長・上島竜兵がしめす神話で、それを「農家の子は銀の匙をもっている」と中島はうつくしく曲解する(むろんこの作品の寓意の本質は、「希望することはすでに希望そのものの内部性だ。だから希望の外部にいることも希望の内部性だ」という点に極まっている――中村獅童と上島竜兵のこの「謎かけ」に応えるのが、中島健人や広瀬アリスなどの具体的な身体なのがすばらしい)。
そんな寓意性のうえのまぼろしとして学園祭での輓馬レースがある点に注意しよう(この見事な脚本は監督・吉田恵輔と高田亮の共作)。しかもクライマックスの競馬シーンでは「速さの質」が変わる。いわば説話論的な速さ(ハリウッド黄金期の理知につうじるもの)が、「交響楽的な構成」の速さ(一種の「時間イメージ」)へと有機的に変成するのだ。
通常、ばんえい競馬の実況はカメラが馬場にはいれないから、馬場にたいし横からのショットだけで撮影され、そこで位置と遠近、固定と移動さまざまな要素をつうじて複合構成がなされる。ところが学園祭の輓馬レースには公式性がないから、カメラはなんと馬場にじかに入り、①馬の間近から後退移動をしたり、②騎手の間近から横移動をしたりするのだ。この立脚の踏み越えが、主人公中島が望む「希望への踏み越え」と相似する。しかも荷重と騎手を乗せた橇をのっそりと輓くキングと、橇上の広瀬アリスのうごき③に伴って、中島が観客席を並行的に移動してゆく④。ここでも当然、応援と必死の競技のあいだでの切り返しが生じる。その移動規模はふと出征兵士の行進を田中絹代が追っていった木下恵介『陸軍』のラストをもおもわせる。
ともあれこの①②③④が交響楽的に織り込まれて、レースの描写は感涙必至の音楽状態となるのだった(編集は李英美)。広瀬アリスを挑発する乗馬服姿の黒木華の可笑しさもあって(黒木はいつも広瀬を「デブ差別」していて、電話の広瀬に、「あんた、声も肥ったね」というのも笑えた)、この白熱する長い一連に笑い泣きしない観客などいないだろう。しかもレースには中島健人のたっての望みで、離農が決定し退学してしまった市川知宏が招待されていて、「彼も客席に駆け込むか」という期待をはらみながら、彼の牧場が牛を手放してゆくやりとりが、さらに平行モンタージュとして上乗せされてもいたのだった。
この映画の速さは描写効率だけによらない。じつは何者かから連絡を受けた中島健人の父・吹越満は妻とこの学園祭での輓馬レースを見に来ていた。そこで彼はたしかに息子が困難な環境に打ち解け、しかも仲間から称賛されている晴れ姿をみたのだった。しかし父子和解の芝居が挿入されない。あるいはラストタイムミニッツ・レスキュー的に級友・市川知宏が学園祭に飛び込んでくることもない。東宝感動路線的な時限サスペンスは躱されるし、予定調和も躱され、それら割愛によってこそ速度が峻厳につくられていたのだった。ともあれ『さんかく』『麦子さんと』など吉田監督の旧作も観なくてはならない。
はなしをもどすと、このクライマックスシーンのあと、後日譚的なラストシチュエーションとなる。そこでタイトル副題「シルヴァー・スプーン」が感動的に登場するのだが、そこでも上述の割愛美学が頑固に貫徹されていた。凄いと唸った。東宝配給の製作委員会方式映画にある「発想のリスクヘッジ」が物の見事に消去され、感動の実質――つまり「うごきと空間と実在」だけが画面にみちていたのだった。主演ふたりのキスを拒んだラストからは続篇も期待されるだろう。
週日夕方前の上映には、中島健人くん目当てか女子高生がたくさんつめかけていた。札幌シネマフロンティアにて三月一八日鑑賞。