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三浦大輔・愛の渦 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

三浦大輔・愛の渦のページです。

三浦大輔・愛の渦

 
 
【三浦大輔原作・脚本・監督『愛の渦』】


セックスを商売にするさいの鉄則は、客の性欲を資本として肯定することだ。しかもそれが生成的な資本流動を迎えるためには、性交する者どうしに無名性の確保されることが条件となる。そのばあいの性交は欲望の発散が第一義だから、自己目的化のはてにスポーツ化の局面まで迎えようとする。あるいは売春婦などが想定されるばあいは、性器が特権化・局所化されることで、精神が温存され、たとえば客との接吻をみずから回避する心中立てなどもおこなわれてゆく。それでも性交へといたる表向きの口実は、例の「瞬間恋愛」だ。「瞬間恋愛」こそが精神を担保しながら性的なからだを前面化する。精神はからだによって隠され神秘化する。しかしこれをさらに逆にいえば、からだによって(からだとともに)精神がかき捨てられる自己疎外が性交者どうしに共有されるということでもある。

むろん売春やセックスにまつわる商売をえがく映画では、上記の売春鉄則、それが劇的に亀裂するすがたへせまるのが眼目となる。無名の他人どうしとしてセックスが開始され、その無名性が崩壊してゆく苦悩は、たとえばベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』でえがかれた。性器の特権化はポルノグラフィ特有の疎外性をよぶ。正規の俳優を起用する映画では俳優はむろんその性器の所持性から保護されなければならない。やはり顔や仕種が映されるべきなのだ。ただし接吻は現在の経済的性愛に心中立てと離反せずに蔓延するようになった。AVを謁見すればわかる。それでピンク映画の七福神世代でも田尻裕司監督のように、性交時での精度のたかい接吻描写に、ドラマ性が組み込まれ、役柄のキャラクタライズにさらに貢献するようになった。ついでにいえば、性行為の純粋身体化に離反する「精神化」なら、変態性、特有の状況選択〔≒コスプレ〕などにその間口を連続させている。

演劇ユニット「ポツドール」の脚本家・演出家の三浦大輔が、演劇畑から越境してきた映画界の「ホット・スポット」なのはいうまでもない。「バカ」や「自己チュー」を多様に類型化しながら、その姑息な裏切りを、驚異のドラマ変転力で可笑性にかえていった『恋の渦』は、『モテキ』の大根仁監督が見事な精度の映画に仕立て上げた。渋谷ユーロスペースでの延長興行では女子高生世代が鈴なりで、複雑に変転するドラマに乗り遅れず、しかも俳優のごまかしの表情のしたに透けている浅はかな本心を見抜いて笑い、世界連続性をもつ類型学にも爆発的な自笑を繰り返していた。三浦大輔的なドラマは、観客を覚醒させ、同時に、変転を生きぬくための理知をもわかちあたえる。しかもそれらは結果として複雑すぎて要約できず、最後には情動の痕跡だけが抽象的にのこる仕掛けで、これが現在的な表現の理想形をかたどっている。

六本木の大通りから脇道にはいったところにあるマンション、その四階が入口で、五階もブチ抜きというかメゾネット式につかわれている乱交クラブ「ガンダーラ」。参加者が道に迷ったとのちに述懐し、また店長田中哲司が参加希望者にいうように、「乱交パーティ」とネット検索しなければ「ガンダーラ」の連絡先にゆきつかないことから、そこには伝統的なポルノグラフィ特有の「舞台の秘境性」が確保されている。導入部、前髪が眼を覆いそうで、おどおどしたその喋り方から暗い印象を受ける「ニート」池松壮亮が、親からの仕送り(蒲団購入費)をあてて参加、「ガンダーラ」への行き方を電話で訊く(10:00)。眼鏡をかけ、おかっぱ髪、しかも眼鏡の下には淫蕩そうな眼がひかり、性器に似た肉感のあるくちびるから参加への逡巡が述べられながらそれに離反する溜め息まで伝わってくるような「女子大生」門脇麦も描写される(11:00)。映画のえがく乱交参加者は基本的に男四人、女四人なのだが(原作舞台より男女それぞれひとりずつ少ないようだ)、池松と門脇麦はその前置性と弱さによって主役の位置へと単純に特権化される。

戯曲的な構成力とは、すべての時間を芝居に、さらには登場人物間に「配分」することだ。そこでは混在があっても整序的で、混在に通常ともなう錯綜と、運動の無方向性が回避される。舞台にかかわる者はだれでも現実とはちがい、「順番」を遵守しなければならない。とくに性交相手の交換劇であるはずの本作では、掟が最初から言明される必要がある。

店長田中哲司が託宣する。ここに蝟集した客はスケベゆえ来ているのだから限られた時間を愉しむためには遠慮が不要であること。それでも相互の安全と清潔が保たれなければならない。まず性交前(ちがう相手に乗り換える局面もふくむ)とトイレ使用後にはシャワーを励行すること。またコンドームも絶対使用すること。それには巨根用の黒いコンドームと、そうでない者用の白いコンドームとがあるが、自尊心を捨ててまずは白の装着を試してみること、などなど。

類型の境界線、虚実の境界線を、集団性のなかに複雑に内化してゆく「三浦ワールド」というべきものは、以上の前提からはじまる。あつまった男四人女四人を素描しておこう。役名(登場人物の本名にあたるもの)はこの時点ではいっさい存在しないし、男たちはバスローブを腰に、女たちは胴体に巻いて社会的な符牒もきえている。だからまず彼らの属性は外見だけから計測されるしかない。

前述した池松壮亮、門脇麦を措くなら、短髪(茶髪)で場馴れしたフランクさを装っている、それでもチンピラ風の自信家・新井浩文。見た目にもサラリーマン風、参加者のなかでは最も知性の高そうな(それゆえに計算高さも予想される)滝藤賢一(ドラマ『半沢直樹』の、あの「近藤」、彼はエレベータ内ですでに池松とゆきあっている)。相撲取りのような肥満体、知性もひくそうで反面、朴訥さが保証されているような駒木根隆介。プリティ・ルックス、プリティ・トークにそれなりに個性を包みながら、年増ブリっ子の不気味さも底知れず秘めている三津谷葉子。清楚でクールなルックスに勝気も窺えてその自尊心が取扱い注意とおもわせる中村映里子。眉、小鼻などにピアスをして自傷系・依存系の雰囲気を漂わす「危ない」痩身の赤澤セリ(彼女は即座にパーティの「常連」ぶりを、店員・窪塚洋介とのやりとりで厭味に披瀝する)。

窪塚が去り、バスローブを裸身にまとったままソファースペース(ゴージャスな居間風のつくりで側面にバーカウンターがある――また片側の上階への階段がシャワールームに、もう片側の階段が性交スペースにつうじている)に置き去りされた彼らは、凡庸にも職業上のアイデンティティをつうじおずおずと相互に自己紹介をはじめる。そこでは語りに積極的な者が相手の選択に積極的な者という法則が生まれる。

新井はフリーターで、しかもその職種がティッシュ配りという下流層。滝藤は食料品関係の営業サラリーマンで六本木界隈をテリトリーとしているらしい。駒木根は蒲田のケータイの製造工員。三津谷は美容関係の営業だが派遣社員だから安定性がない。中村は保育士(往年の言い方でいう保母)で、のちに保母はほとんどがスケベと、参加者の安心を買うような尾鰭をつける。赤澤の正体は常連客という以外に明かされず、布陣のいちばん奥にそれぞれ消極的にいるようにみえる池松、門脇にはその自己紹介から「ニート」「女子学生」という情報だけがあたえられる。

「値踏み」「品定め」が参加者のみならずこの映画の観客にも「反射的に」起こるだろう。観客も性愛資本主義の直中にいるためだ。駒木根と赤澤はまず選ばれない。女性陣ではルックスがいちばん整っている中村への興味が湧くかもしれないが、いったん主役位置に定位されながら画面の奥の伏在的な気配となっている門脇麦にこそ興味がむかうだろう。彼女の居場所の伏在感と、彼女が眼鏡の下に隠しもつ淫蕩さが二重化されているためだ。

『愛の渦』には社会学的なアプローチが見え隠れする。つまりここに蝟集した者たちは滝藤を除くとほぼ社会の下層に属していて、本来ならハイソが愉しむ乱交=秘密クラブ(これにはステイタス・カップルのスワッピングが付随する)に馴染まない。作品の前提としてこのパーティの参加費が明示されている。「男2万円、女千円、カップル5千円」。この廉価性は、危険性と境を接している。しかもハイソ特有の性的な欲望形式が下層に「模倣」されている現代的な早上がりもしめされているだろう。

言い落していたが、この映画の監督は、同題脚本を演出した三浦大輔自身だ。演劇的=配分的な整序性をもつ彼の個性はポルノグラフィとは無縁だし、実際にその世界に親炙していないようにもおもえる。えがかれるのはまずは役柄たちの計算と本音の小出しにすぎない。予想どおり新井-三津谷のカップルがまず成立し、つぎに滝藤と中村のカップルが成立する。それぞれが階上へゆき、やがて女の歓喜の声がのこされた者たちの耳に響く「順番」が遵守される。形骸化したポルノグラフィの本質もこの「順番」化にあるが、ポルノグラフィよりもこの局面の始末がわるいのは、劣情を組織しないことだ。もとが舞台劇だった余映もはっきりしている。女たちのよがり声は一定的な大声が継続されて含羞や波動がなく、これまた音声上の形骸的な「性」記号しかもたらさない。

三番目の成立カップルが駒木根と赤澤で、伏臥した赤澤を駒木根が後背位で突きつづけるそのありさまは性交描写としても声の発動としても意図的な低位に置かれている(書き忘れたが、階上の性交スペースではベッドが2×2の整序的な配置でならべられて、しかものちの品定めのため参加者は他人の性交を見学できる/見学されうる)。

けれども最後にのこった池松と門脇が性交におよぶと(ここではじめて女優の乳房が露呈される)、参加者の予想に反し池松の精力と門脇の歓喜とが他を圧していて、それでようやく、熱気が空間全体へ伝導するようになる。第二ラウンドの開始。新井-三津谷/滝藤-中村にキアスムが起こり、性の相性の良さを確認した池松と門脇が相手をかえずにふたたび交歓に挑み、はぐれた駒木根-赤澤がまた相互応答性のない後背位性交にふける。それらすべてが対象を移動させながら俯瞰する回転カメラでとらえられてゆく。むろん俳優たちは果敢だ。現象的には大橋仁の圧倒的な写真集、『そこにすわろうとおもう』の参加者に似ている。

監督三浦大輔にポルノグラフィの素養が(幸運にも?)ないというのは、乱交という場に整序的な分割線が引かれつづけるありさまをみてのことだ。フェリーニやパゾリーニの歴史描写を口実にした乱交ディテールの参照もない。だからフーリエ的なユートピアへの希求もない。端的にいえば――乱交は相互性の沸騰であり、そこでは「だれでもなくなること」と「何者かになること」とが等価だという倒錯が準備されるのだ。だから仮面も活用される。「だれでもなくなること」は性交上の一対一の関係を解かれることでとうぜん加速する。関係のリゾームが発生するのだ。

池松壮亮と門脇麦の熱の籠った身体的相愛にうたれたのなら、彼らの性交に参加し、彼らの圏域にはいり、自分たちの立脚を陶酔的にけしながら、さらに池松と門脇をたかめる利他性が発露されるべきだった。乱交の無方向性とはこのことのはずだが、それを演劇的な整序性が凌駕してしまっている。

だからこの作品は全員の性交を回転俯瞰カメラでとらえつづける局面になっても、じつは清潔にも劣情を喚起しないし、それでR18の条件下、アラサーで本質的にはコンサバ、興味本位ながら安全圏にいる女性二人客を多く呼び込むのみとなる。人間の浅ましさに大笑いしていた『恋の渦』の女子高生たちのほうがずっと過激だった(彼女たちはR18の条件下、『愛の渦』の客席から表面上は排除されている)。

このように書いてきて、説明したくだりまでにおぼえた筆者の不完全燃焼感もつたわっているかもしれない。ところがここから作品は、性愛ではなく「心情」に観察点を移し、芯がはいってゆくことになる。「三浦ワールド」らしい悪意ある真相の暴露。まずは駒木根の単調で様式的なセックスが相手の赤澤から非難され、駒木根の「童貞」が判明する(しかも彼はまちがえていつもアナルに挿入してしまっているというダメ押しがともなう――むろんこれは赤澤の身体のもつだらしなさにも直結していて寒気をさそう)。彼の本質的な「場違い」を、そんなに社会的な階層のちがいわない新井が悪しざまにいいそれで巨根自慢の彼は優位性を固めようとする。

その場でいちばんの女は誰かという暗闘の兆していた中村-三津谷では、三津谷の性器の悪臭が話題になり、いわば性的な選良として新井―滝藤―中村のトリアーデが成立しようとする。しょせん姑息な権力争いにすぎない。しかし余勢を駆った新井がのこる可能性の門脇を第三ラウンドの相手と宣言し、彼女を階上に連れてゆこうとしたときそれまでの相手だった池松からの諌止を食らう。

時間経過。新井と田中哲司・窪塚洋介が揉めている。店側がなした施策は、新たに飛び入りしてきた男女カップルによって選択肢をふやすことでしかなかった。ところがそれは選択できない選択肢だった。3:00。男のほうの柄本時生(彼の悪相が大好きだ)は下層、バカ、異常の三拍子が揃い、その連れ合いの信江勇は肥満体低能で、これまたまったく「そそらない」(「ブス」を微妙な可笑対象にするのも「三浦ワールド」)。

その柄本が積極的で三津谷を指名、三津谷が悪臭を気にしてシャワーをふたたび浴びるあいだに相手の信江が池松を指名、池松は門脇への執着を参加者から確定づけられないためその要求を呑むしかなかった。しかも柄本が三津谷不在のあいだに、門脇を階上に持ち去ってしまう。そこで信江-池松の悲惨な性交(信江は騎乗位で鯨のようなよがり声をあげる)、柄本による門脇への痛ましい前戯が「対」となる。そんな局面でも相互をつい見つめ合ってしまう池松と門脇――その「瞬間恋愛」ではない「継続恋愛の感触」のほうに観客の注意が向かうだろう。

その注意を突き破るように柄本の怒声が階下に響く。デブの信江は、スワッピングにより自分たちカップルの愛が真実のステージに入る、と相手の池松に誇らしく語っていたのだが、案に相違して、柄本は隣の信江にたいし「本気になってんじゃねーよ」と怒鳴りつけたのだった。のこりの参加者が階上にゆく。そこからが柄本の怪演の独壇場だ。「お前を試しただけ」「本気になったからには別れる」と激高の様子だが、すぐバカ特有に論理が腰砕けとなり、果てには自分のことばを担保にされていつの間にか信江を許す逸脱まで起こる。むろん『恋の渦』の「コウジ」と共通する造型だ。

怒涛のように押し寄せたこのバカップルはやがて引き波となって一瞬にして消え失せ、あとにのこった池松-門脇が、三度めの同一カップルの性交にいたる。ここで待望されていたことが起こる。性交渦中の接吻がそれで、このことによりふたりの情熱的な身体性交が心情化の局面までついに迎えたようにみえる。これが作品内唯一の接吻描写だった。

狂的な笑いの要素として柄本時生・信江勇の闖入があり、池松-門脇の純愛の兆しを観客のだれもがかんじただろうこの前後にはもうひとつ余禄がある。他の相手がえらべない不自由をかこった駒木根-赤澤のカップルにも逆転が生じていたのだ。赤澤の嬌声にそれまでの投げやりさとはちがった女性性と切なさとあかるさと強大化が灯って、おどろいたのこりの者が階上へようすをみにゆくと、童貞性を克服し性愛のコツをつかんだ駒木根が持前の怪力を活かし、座位で赤澤の腰からうえをはげしく上下させて彼女を法悦へと高めつくしていたのだった。

俳優につぎつぎに生じてくる役柄の見返り。のこりの参加者たちも真心をとりもどしたというか一晩の体験共有を意識したからというか、相互の言い過ぎを陳謝する。さらにのちに判明することもくわえれば、赤澤がだれなのかは窪塚から参加者に、店長・田中との逸話込みでかたられる。しかもその信憑性を混ぜ返す彼の口ぶりが良い。クールでなおかつ見事なやる気のなさをみせていたその窪塚のケータイ電話には、その画面から地上接続性が現れる。

なによりも監督・三浦のやさしさは、時限の午前五時が到来したとき居間のカーテンがあけられ、朝の清潔なひかりが差し込み、しかもTVがつけられてニュースがながれ、ひと晩の性的な狂奔に支配されたこのサークルに、地上連続性がふたたび灯されたときの措置でわかる。60年代欧米映画でなら、乱交の終わり=朝の到来は、参加者の肌の蒼褪めた不健康と荒廃をあかすだろう。ところがその朝のひかりのなかでこそ、バスローブにつつまれた彼らの裸身がいわば敬虔にかがやいていたのだった。

やがて参加者全員の着衣が完了する。それで裸身状態ではわからなかった彼らの存在の階層性、つまり具体性がさらに明瞭になってゆく。ストーカー対策のため、女性参加者に先に退場してもらい、時間を置いて男性参加者に帰ってもらう、と田中が託宣する。

このときあまりにも秀抜な設定が付加される。帰り仕度を整える門脇が、ケータイがない、と困惑していたのだった。ちかくのテーブルに置いてあるケータイをみつけた窪塚がいう、「それじゃないの?」。池松「ぼくのです」。窪塚は有無をいわさず、そのケータイをとりあげて、門脇から彼女のケータイ番号を聴き(ただしその音声は観客、つまり他の参加者には聴きとれない)、電話をかける。すると門脇の鞄の奥からくぐもったコール音がひびいた。その後、女性客全員が帰る。観客は動悸しているはずだ。「継続恋愛の予感」のある池松のケータイに、まさに門脇の番号がのこっている――。

このあとラストにいたる数分がどうなるのかは、ネタばれになるので書かない。逆転が連続するとだけ書いておこう。性愛にかかわるこの映画の結論なら抽象的に書けるかもしれない。「瞬間恋愛は持続恋愛とひとしく尊い」「たえず確認が連続する持続恋愛にたいし、その場ごとにきえる瞬間恋愛のほうが事後のなつかしさを喚起する点で関係性に純粋さがたもたれる」「そこから世界のなつかしさがひろがる」。最後の数分にある画面の基調(撮影・早坂伸)は悲哀のとけこんだ「なつかしさ」といえるだろう。ふとつげ義春「夏の想いで」のラストをおもいだした。ともあれ『愛の渦』は最後の20~30分で見事な逆転を果たしたのだった。

この映画の過激な「売り」は、《〔俳優の〕着衣時間は〔上映時間〕123分中18分半》というものだが、バスローブをまとっている場面はともかく、性交場面でも俳優の裸体感はさほどないとおもう。逆説的ないいかたになるが、裸体感とは裸体そのものにではなく心情にこそあらわれるのだ。池松壮亮と門脇麦が最後に一緒にいる場面(むろんふたりは着衣体)には逆説的な裸体感が濃厚にただよっていた。それが世界のひろがりへと接続されていったのだ。だから結論もこうなる――《世界は裸体だ》。これこそがすばらしい。

三月二〇日、ユナイテッドシネマ札幌にて鑑賞。
 
 

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2014年03月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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