稲生+高橋・映画の生体解剖
【稲生平太郎+高橋洋『映画の生体解剖』書評】
眼もくらみ、脳髄が撹拌され、しかも官能によって統御までうしなってしまう映画本の大著を読んだ。ゴシック小説の研究家にして小説家の稲生平太郎と、ホラーとビザール映画の脚本家・映画監督として鳴る高橋洋との対談本、『映画の生体解剖』(洋泉社、二〇一四年四月刊)がそれだ。言及される映画作品はじつに八百本、それが四百頁超の二段組(詳細な註頁は三段組)のうえ凝縮した相互の語りにびっしりと息づいていて、蜂の巣の中身のように「こまかいもの特有の不気味さ」までかんじる。テーマごとにふたりが綿密な準備をしたこともあるだろうが、いったい彼らは映画(の〔ヤバい〕細部)をどこまで記憶し血肉化しているのだろうと恐怖すらわく。異様に映像特性をもつこの両者にはそれじたい「人外」のあやしさがあるのだった。
けっして個人名をだして揶揄するわけではないが、稲生が疑義をなげつけているのは中心化された映画史学における主題系設定にたいしてだろう(たとえばそこにはフォードのエプロン、ホークスの発明や男女倒錯、ウェルズの球といった既視感ある話題が徹底的に排除される――『ミスティック・リバー』後のイーストウッドも否定される)。かわりに冒頭三章で連打されるのが「手術台」「放電」「沼」という意表をつく主題系。これにより、雑多でぶあつい「映画集合」の影の奥行が蜘蛛の巣のようにつながって「量」が脅威をなす感覚がたちあがってくる。稲生の博覧強記ぶりは無辺際。サイレント古典、50年代フィルムノワール、70年代ホラーなどいちおうの多発帯はかんじられるものの、60年代テレフィーチャー作品から脱力的駄作、あるいはインド映画、ハリウッドの現在など、映画へのまなざしを脱中心性にむけてするどく鍛えあげている。映画への期待は映画がいわばズルっと自走して予期できない映画性を露呈してしまうことだから、C級-Z級映画を排除しない立脚も必然化されているのだ。
稲生の教養は正しすぎてときに転覆的に作用する。たとえば『ある日どこかで』(80)の基層に未公開作『Berkeley Square』(33)があることを示唆したあと、20世紀前半当時のイギリスに時間論的な表現が沸騰していたとつげる。ヘンリー・ジェームスの未完の戯曲『過去の感覚』、ベストセラー『奇談』と『時間の実験』。それら相互影響の果てに『Berkeley Square』があり、しかもラヴクラフトがこの映画に魅せられて何度も劇場にかよったという。それで『超時間の影』ができあがったのではという推論が蠱惑的だが、よくかんがえると通例的な作家論が、間テキスト主義によって自壊されてゆく瞬間をもえがきだしている。「作家はいない」――この信念は稲生のほか、稲生とツインズというほどの同調性をもつ高橋洋にもむろん共有されている。
それでもこれらのながれにかかわってまったくぼくの知らない中篇小説『ヴィクトリア朝の寝椅子』の概要が註で以下のようにしめされると動悸がとまらなくなる。《結核の快復期にあるメラニーが、骨董屋で買ったヴィクトリア朝の寝椅子でうとうとと眠ったところ、目覚めたのは九十年前の別の女の体の中だった。ミリーというその女は結核の末期で瀕死である。メラニーは何とか「目覚めよう」と必死になるが…》。アングロサクソン特有の悪趣味な想像形式だと驚嘆する。いわばタイムトラベルものにポーの「ヴァルドマール氏の病症」「早すぎた埋葬」的なものが錯綜しているのだ。ふたつの身体の老若関係はどうなっているのだろう。註記の後段にあるような「水の腐敗」感覚は、すでにこの簡勁な梗概に伏在している。
想像における畸想の本質性、集団表現の憑依的な自走性、編集された映像と音にかかわる本源的な恐怖(たとえば明視性そのものの不可視性)と超言語性…稲生と高橋の嗜好はこれらの点で響きわたっているが、「光」を恍惚と見、その超言語性に傾斜してゆく稲生の官能にたいし、それを「恐怖」とみる高橋の、読者の首根っこをつかむような元も子もなさが微妙な偏差をえがく。まずは稲生の圧倒的な語りを引こう。《〇・一パーセントくらい、フィルムという媒体の中に、何らかのものが引き込まれる瞬間というものが存在すると思う。〔…〕何か、あってはならない、ありえないものが、かすかに痕跡を残しうると。僕を恍惚とさせる映画というのは、いわば、動く心霊写真、心霊動画みたいなもんだよね》。
それにしても映画の実作経験がかさねられるにしたがい、「映画王」時代&学生映画時代から萌芽していた映画にたいする高橋の「恐怖原理論」にはますます深遠感覚がやどってきた。名著『映画の魔』のなににも似ていない(ゆいいつ大和屋竺『悪魔にゆだねよ』とは係累関係の)「反教養性がそのまま教養として作用形成する」「反世界」的な映画論に魅了されたひとにとっては、この『映画の生体解剖』は高橋理論が稲生に触発されて異様な精度で各論化し、稲生のことばとともに読者の記憶容量を超える「聖なる逸脱」とまでなるだろう。高橋洋は怪物だ。それは嗜好性と哲学性が共存したがゆえのレクター的怪物性で、それが断言を繰り返すから(これが大和屋的ともいえるもの)、次第に稲生までもが高橋の憑依的な存在性に襟をあらためて正す気配にまでなってゆく。
高橋洋の金言は、「箴言」集化できる。以下はその一部を抜粋――
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《僕は〔サミュエル・〕フラーの発想が分かるんです。一緒に仕事をした森﨑東監督にフラーにとても近いものを感じるんで。まず実際にあった生ネタを見つけるんです。UFO体験と同じで、どこまでが本当かという厳密さより、頭で考えたフィクションからは出てこない、ある歪さこそが重要で、この歪さがリアリティであって、フラーにとってのグッド・ストーリーなんですよ》
《あの世があるかもしれないと唯一思わせるのは霊媒が、その辺に立っているらしい幽霊とじゃなくて、ヴェール一枚距てた向こうの世界とコンタクトを取っている時。それ以外に霊的な意味での二重性を表現する手立てはないんじゃないか》
《霊界と通信していて「あの世はない」ってメッセージが来たら怖いだろうなあ》
《神話とは、物語そのものの現前というあり得ないことが起こっている感覚です》
《したたかに酔っ払っている三人組をよく見たら、真ん中の一人は死体だったという、ニューヨークの地下鉄ならではの都市伝説があるんです》
《姉妹の特徴のひとつが、同一性が不安定だというのは確か。ここがまさに映画の根源に関わるところで、映画は、映っているものが本当は何なのか不安定なメディアなんですね》
《監視カメラとか映画内映画とか、こういう類のものを見ると、映画は自分の正体を自分の中に取り込もうとしている、と感じる》
《頭のおかしい人たちがどこかに隔離されている〔…〕。で、彼らは映画を撮ったり撮られたりしているんだけど、自分たちが何をやっているか分かっていない。彼らにストーリーとか宣伝とかも分かるわけないんで、時々映画会社の人がやって来て、フィルムを回収して、何とか意味が通るように編集して商品にする。もちろん、A級の映画とかは初めからちゃんとした人たちが撮ってるんですよ。でも落ち目になったスターとかは、「撮られてこいや」って隔離された群れの中に突き落とされる……。そう考えると映画の謎の多くに説明がつくんじゃないか》
《恐ろしいことに、風景のショットでもフィクションだってバレる》
《映画の中に時間って流れていると思います? 映画の中の時間というのは、カットでバンバン飛ばされるので、僕たちは現実の時間を体感しようがないはずだと思うんですよ。映画の中の“時間”と僕たちの時間体験は全然同調しない。トータルで見たら、二時間の映画を見ましたとは言えるけど、それはあくまでもランニングタイムの話で、で、僕はそもそもひと続きのショットの中にも時間は流れていないと思うんですよ》
《ハリウッドの40年代くらいの映画――八十分九十分で効率よく物語を語ってしまう、そういう名人芸みたいな映画は、時間が流れていないショットによって構成されていた。これが僕の本来の映画の感覚なんです》
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最後のふたつの「箴言」の、「きもち悪さ」と「衝撃性」はなにに由来しているのだろうか。作成物に本源的にある「催眠的な無時間性」が、「催眠的な無時間性」をもって再帰的に語られている同一律のおそろしさが、まずここにある。しかもあなたが愛着をもって抱いていたのは死体だという告発もひそんでいる。これを敷衍できるか。できるとしたらドゥルーズの「時間イメージ」すら吹っ飛んでしまう。すべては不自然さのなかにあり、その不自然さこそが魅惑をおこなうとするこうした世界観では、すでに「回帰」もなく、同質性の無限併置がたわむれに物語などを錯覚させるだけと秘言されているのだ。そのばあい、物語と映像とはともに区別されることなく「亀裂」となるしかない。
本書には稲生、高橋による意外な角度から読者に突き刺さってくる映画レビューがそれぞれ五つずつ頁の余白を消すように併載されているが、高橋洋が霊的に視てしまう映画表面の「亀裂」は、たとえばクルーゾーの体調悪化と主演男優の降板により中断してしまった未公開・未完成映画『L’Enfer』(そのフッテージを高橋はドキュメンタリーで観た)にまつわる以下のディテールから了解できる。《舞台となる観光名所の巨大な鉄橋(ガラビ橋)から響く汽笛が、夫の猜疑心を呼び覚まし、ハッと突き放した妻〔=ロミー・シュナイダー〕の顔に、顔貌の凹凸が作り出す影が目まぐるしく動き出す〔…〕。顔の皮一枚の下に潜む何ものかがうごめき浮上したような、まさに“デアボリック”〔クルーゾー『悪魔のような女』の原題〕が達成されている》。
映画のもつ本質的な恐怖に思考が向かうひとにはまさに必携の書物。うなされながらも睡眠のあいまの18時間ぐらいで、危険さに惹かれ、ぶっ通しに読みふけってしまった。