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車椅子という主題 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

車椅子という主題のページです。

車椅子という主題

 
 
【車椅子という主題】


むかし、「陽光燦々たる日中に、日傘をさしてあるく女」という、吉田喜重作品の映像主題を、《家のなかにいることを外部にもちあるいている》、すなわち《内部性と外部性の撹拌がそこに出現している》と分析したことがあった。この伝でいうと、車椅子に乗る何者かが語る、あるいはなにかを視るその姿にも、今日的な「撹拌」の主題があらわれているととらえることができるかもしれない。

車椅子での外界の移動もまた「家のなかにいることを外部にもちあるいている」(とりわけ電動式)。それは座位が歩行してゆく二重性をもち、身体的な不如意がそれゆえ世界にたいする明察へとみちびかれてゆく潜勢をもしめしている。いわば生きてあることがそのまま潜勢性と同時化されるようにみえ、だから車椅子使用者は、映像内の特異点である以上に至高点であるかのように認識されるのではないか。この身体論的な主題は今後、映画やドラマでいよいよ活用されてゆくだろう。

1月クールドラマの白眉は橋部敦子脚本の『僕のいた時間』だった。三浦春馬が社会人一年目に指定難病のALS(筋委縮性側索硬化症=からだの筋肉が徐々におとろえ最後には嚥下や呼吸にともなう筋肉までうごかなくなる――治療法はまだみつかっていない)を発症する。そんな難病患者が、生や愛にかかわる葛藤をどう生きるのか――あるいはどんなに催涙的にこの世との別れを迎えるのかが「難病もの」ドラマの通例だろう。ところがこのドラマはそうした単純な興味からはおおきく離反していた。

清冽な映像展開のなかで、人物造形が最初から撹拌的だった。つまり対他性こそが即自性に変貌でき、そうした美徳を生きる人間には錯綜的な美が生ずる――そんな哲学性が一貫していたのだった。ヒロインとなる多部未華子が、やがてALSとなる三浦春馬になぜ好意をもったのか。それはおなじ大学・学部にかよいながら面識のなかったふたりが、たまたま入社試験の場を共有したとき、電源を切っていなかった多部のケータイが受信音を放ち、それを三浦が自分のミスと代理的に謝罪したからだった。ここでまず対他が即自に変転する主題系が露呈している。

彼らは氷河期にいて、就職もままならない。おなじ状態だった三浦の(さほど親しくない)学友もまたその状態に不安を昂進させ自死した。三浦が家具販社の試験に合格したのは、その衝撃を、そのまま入社試験の面接で語ってしまったためだった。受かった理由を採用担当者はのちにいう。「だれもが面接マニュアルに忠実な受け答えをするだけで自分がみえない。そのなかできみだけ、きみの自分がみえた。だから一緒に働いてみたいとおもった」。これも対他性から即自性が逆算された例といえるだろう。

清潔感とあかるさをもって付き合っていた三浦と多部だったが(たとえば多部の、セックスの翌朝の肩脱ぎの姿など、身体的な親密性が清潔でうつくしい)、三浦はALSの進行が加速してきたと自覚する(即自)。それで信じられないほど冷たいことばで、一方通告的に多部にたいし関係の終わりを宣言する。そこにはむろん自分の発症で迷惑をかけ多部の人生を犠牲にしない対他性が隠されていた。

孤独のきわみに立たされた多部は、三浦の先輩・斎藤工からの求愛をうべなう。斎藤は三浦のALS発症を知っていたが、そのことを三浦のもとめのまま多部に隠して、眼をつけていた「後輩の彼女」を頂戴した恰好で、道義的非難性があるだろう。多部はやがて介護の仕事に天職を見出すようになる。それで偶然、自分が介護するALS患者のもとめに応じて行った公立体育館で、車椅子サッカーに懸命な三浦の選手姿に出会ってしまう。それまでは一切連絡不通だった。三浦が徹底的な対他性で多部の人生を庇護してきたのだった。多部がいう。「会っちゃったね」。そうして流涕する。それはふたりが付き合っていた段階で、「出会うべきものはかならず出会う」と語っていた三浦のことばと反響していた。メロドラマ的な催涙性がまずこの段階で極まった。

橋部脚本はよく吟味すると過激な割愛をおこなっている。三浦・多部のあいだの「別れの真相」が露呈したとき斎藤工への非難がドラマ内人物のだれからもでないのだ。まるですべての「非難」をドラマが封じているかのように。

三浦と再会して斎藤との婚約を破棄した多部にたいし、三浦は「きみは同情や介護上の献身を愛情と勘違いしている」といった意味のことをいう。多部はいう、「ただ拓人〔三浦の役名〕のそばにいたいの」。それまで三浦-多部の相互親密性に、斎藤-多部の仲の窮屈な儀式性が対比されていたから、視聴者はこの多部の決意を体感的に納得するだろうが、ここにも割愛がある。「献身=愛」という図式を三浦は認めていない。ところが「献身=対他=即自=愛」という媒介項を組み入れた撹拌的な世界認識を多部は、あらためて三浦をまえに獲得したはずなのだった。これが明示的な科白ではかたられない。橋部脚本は峻厳だった。

呼吸にともなう筋肉が萎縮しつくせば即座の死を意味する。それを防ぐには人工呼吸器をつけなければならない。ところがそうなると発語機能の消滅という代償を支払わなければならない。それでも瞼やたとえば頬の筋肉などからだのどこかがうごけば、現在ではセンサーによって信号を感知、接続したパソコンの発話機能によって「意志」をつたえることができる。問題はそれだけではない。ついにからだすべての筋肉機能が消滅して意志を外部化できなくなっても、生命という「内部」が残存、いわば肉体の塊として人工呼吸器装填者は強制的な生命存続をしいられてしまう。それで生きているといえるのか。

ALSが進行する過程で「生きること」も「死ぬこと」もこわいというダブルバインドに発症者が陥ることになる。それで「人間らしく死にたい」希いをもった三浦のALS仲間(多部が介護していた)は人工呼吸器装着を拒み、「意志を明瞭に外化できる状態」のまま死んでいった。三浦はふかい葛藤に直面することになる。そう、ここでもこのドラマの葛藤は、対他性と即自性――つまり外部と内部とのそれなのだった。

息を呑むのは、車椅子をはじめとして書記補助器など、機械に介在されたALS発症者の身体空間と動作がいわばアフォーダンス的な分解性をもって映像に詳述される点だろう。医療ドキュメンタリーのようだ。三浦春馬も神業的な発症再現力を披露する。徐々に頬あたりの筋肉をよわめてゆき、患者の通例どおり、ほんとうに顔の縦幅が長くなってゆくようにみえたのだった。すべては難病の実際についての真摯な伝達精神によっている。対他性の発現だ。ところが演出や演技への満足という点ではやはり即自性と受けとられることになる。

先週放映された最終回はほんとうに見事だった。人工呼吸器を装着するか否かにつき三浦の「内部」が秘匿されたサスペンスフルな状態で、三浦のかつての家庭教師の教え子のもとめに応じ、その教え子の中学校で「講演」をおこなうのだった。車椅子の彼を壇上へはこぶのはとうぜん多部未華子。多部も三浦が生涯初めての講演で何を語るのか事前に知らず、三浦の一語一語を気にかけている。会場には三浦の家族、多部の母・浅田美代子、友人、そして斎藤工の姿もみえる。20分弱はあろうかというこの三浦の講演シーンが、「泣ける」だけではなく、テレビドラマ史上の達成だった。「外部(対他)/内部(即自)」という問題系のなかで、「外部性が外部性のまま内部化する」ひとのありようこそがみつめられたからだ。

三浦の講演はそれまでのドラマのながれを追う。「キャラ」を演じるだけで自分の追求をやりすごしていた学生時代。ALSの発症でからだの自由が順番にうしなわれてゆく絶望体験。それでも他人の愛情や介護精神につつまれて、やがては自分にのこっている意志発現の機能をかけがえのないものと思いいたったこと。それらが最終回らしく、ドラマのハイライトシーンの召喚をともなってゆく。三浦のことばを対他性として、ドラマが即自的にみずからを回想するかのようだ。三浦が人工呼吸器を装着するか否かの判断は講演のほぼ最終部分でしめされる。聴きとった内容を以下に起こしてみよう。

じゃあ、生きているだけの状態で、ぼくがぼくでありつづけるにはどうしたらいいんだろうか? そうなったときに、ぼくを支えてくれるのはそれまで生きた時間――「僕のいた時間」なんじゃないか。ぼくは覚悟を決めました。生きる覚悟です。〔…〕

発語の不自由を負って訥々と語られつつも、その初講演は成功した。感動を知己同士が祝ったのち、後日譚的に「三年後」のテロップが出、三浦-多部の「現状」が描写される。三浦は死んでいない。しかもそこで間接的に彼をとりまく環境変化がわかってゆく。たとえば室内に飾られた写真などで。ここでは映像「内部」が「外部」性を放散しているのだが、逆にいうと視聴者の内部性が映像の外部性を吸着できるという信念が、演出につらぬかれている。

人工呼吸器をつけた三浦にはもう発語能力がないが、顔にのこされたわずかな筋力により、センサー→パソコンの経路で多部と意思伝達ができている。やりとりはあかるい。三浦には講演依頼が舞い込んでいる。写真立ての画柄は三浦と多部の結婚の事実などを告げている。それらがひとつひとつわかることがふたりの生を応援してきた視聴者にとってはそのまま感涙にむすびつく。しかも難病もの的な期待もあっただろうこのドラマで、ついに主人公の死がえがかれずに終わると判明してゆくことで、あらためて感銘がきわまるのだ。それにしてもその三年後のラストシーンで、三浦の顔がリアルにALS発症者の顔貌変化をかたどっていて、息を呑む。

三浦の講演に接する感動は、身体的には車椅子に乗る者が語る姿にともなう、「内部/外部」の遠近法に起因しているとおもわれる。外部が語っているとおもわれる姿が同時に内部的なのだ。このことが話される内容の「内部/外部の遠近法」をも肉づけしているから、視聴者はただならない撹拌性の場に置かれる。むろんそこで最大に価値化されるのは、三浦春馬の「即自性」だろう。しかしそれは俳優のものなのか役柄のものなのか、あるいはALS発症者に普遍のものなのか。

1月クールドラマではもうひとつ、安定的な出来を誇った作品があった。『福家警部補の挨拶』、倒叙法による刑事ミステリーだ。論理進展が速くて緻密、演技アンサンブル全体の良さ(とくに柄本時生)からファンも多かったのではないか。黄色いコートをまとい、両腕を硬直させて戯画的な演技を披露する眼鏡着用の福家=檀れいの演技もいつしか自然化されていった。

その最終回でもまた「車椅子」が活用された。今週オンエアされたばかりだし、ミステリーでもあるのでまだネタバレをあるていど慎まなければならないが、車椅子姿をとおす容疑者役の八千草薫が画期的な演技を披露している。明察者特有の視線をもつというのが第一。第二は、執拗な推理力を発現してくる檀れいをまえに、八千草がスリルと歓喜とを「性的に」おぼえて、その視線が上気するのが見事だという点だ。こんなにエロチックな八千草薫にいまも出会えるとは。

爆弾をつかって銀行強盗を敢行した犯人たちを爆弾で死にいたらしめたのはだれかがミステリーの骨子になるのだが、このとき八千草が彼らの犯行計画をなぜ特定できたのかがポイントとなる。福家=檀は八千草の爆弾製造能力のみならず読唇能力をも見抜く。そのクライマックスシーン、夫・山本學とともにクルマのなかにいる八千草に、現場に駆けつけた檀れいが、可聴距離を超えた場所から必死に語りかける。読唇能力のある八千草に、自分の唇のうごきを懸命に読ませようとしているのだ。むろん音声は映像に刻印されない。

ともあれ八千草・山本の第二の犯行は未然に阻止された。ふたりの家に檀と、その上司・稲垣吾郎がやってくる。八千草は観念し(しかし表情の余裕は保たれている)、犯行の証拠物となるのに、壇の語りかけた「内容」をみずから語ってしまう。それも逼迫性において泪をさそう内容だった。《信じています――わたしは、信じています》。それは八千草の声=外部性によって語られていながら、視聴者は内部化により檀の必死の声と聴き換えたはずだ。ミステリーの結末にふれたようだが、謎解きの基本となるのは指紋なので、この書き方でもネタバレの禁則をぎりぎり犯していないだろう。

車椅子使用者は内部性を外部化させているようにみえる――遠近法をもつ「内/外」構図の至高点を、その身体から映像内につくりあげる――と書いた。ここでの八千草はこの問題にさらにあらたな視点をつけくわえる。「内/外」の折り合わさる場にある身体は、そこから何をみても視線が明視性へとみちびかれる、ということだ。もともと「よわい身体」と「つよい車椅子」が複合されて強弱が撹拌されているからこそ、視点が複合的になり、健常者には捉えられない世界の奥行が、その視界に舞い込むのだ。この問題は八千草の読唇能力によってドラマ上具体化されているが、もともと車椅子使用者の視界全体へも敷衍できるのではないだろうか。その傍証をおこなっているのが『僕のいた時間』の三浦春馬だった。
 
 

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2014年03月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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