深田晃司・ほとりの朔子 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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深田晃司・ほとりの朔子

 
 
【深田晃司脚本・監督・編集『ほとりの朔子』】


夏のひかりのあかるみにうるむように電車のなかで眠る少女。田舎を走っている気配の電車。「着いたよ」の声で就眠がとかれる。年齢差から母娘のようにみえるふたりは田舎の暑い坂道を、木蔭をえらぶように、キャスターのついた旅行鞄をそれぞれひきながらのぼってゆく。八月ももう終わろうという日付。いかにもヴァカンス映画のはじまりのようにみえながら、やがてさまざまな「異調」が仕込まれているとわかってくる。

ヒロインのなまえは一日生まれなのだろう、伝統的な命名で「朔子」。すこし肥ったとおもわせる二階堂ふみが演じている。開放的なリゾート着。やがてたどりついた一軒家で、母親にみえた鶴田真由と、その妹の渡辺真起子の、肉親ならではの親密なやりとりがはじまる。朔子=二階堂ふみはその空気から疎外されているようにみえる。

二階堂ふみを基軸に、やがてわかってくることをつづってみよう。鶴田真由と渡辺真起子は叔母と伯母。二階堂とは血がつながっていない。映画に現れてこない二階堂の母、そのさらなる母親をAとしてみよう。鶴田と渡辺の父をB。AとBはともに連れ合いと離れて再婚し、その連れ子どうしも同居をはじめたことになる。複雑な布置は二階堂の母と鶴田が同齢で、ともに名前が「ミキエ」の同音だった点。鶴田の「ミキエ」は「海希江」という用字で、級友から二階堂の母とくべつされるため「海子」とよばれ、その反動で二階堂の母が「山子」とよばれた往年のエピソードがさらにくわわる。記号のたわむれがまず仕込まれるのだ。

つぎが不安定性。二階堂と鶴田がたどりついた渡辺の独居だが、渡辺じしんはヴァカンスの海外旅行でふたりの到着と入れ替えに家を離れる。その空位期に、二階堂・鶴田が住みこむという了解だった。ふくざつに仕込まれた「入れ替え」。二階堂は「ガリ勉」だったが滑り止めをふくめすべての大学受験に失敗、いまは受験勉強を放棄する浪人生で、リフレッシュがもとめられている。鶴田はインドネシア文学者で、落ち着ける(しかしそこは自分の育った実家ではない)妹・渡辺の家(それが海にほどちかいとやがてわかる)で、インドネシア小説の翻訳を完了させようとしている。その地に幼少時代の二階堂は来た記憶があるが、それもおぼろげでしかない。ともあれ、二階堂を基軸にすると「なぜその場所に」「なぜその者といる」のか、動機が稀薄な滞在といえるだろう。その家は家主すら不在、そこにいることは二階堂にとって何重もの「仮寓」なのだ。

設定ばかりを説明して恐縮なのだが、それがふくざつだからしかたがない。もうひとつ、迷彩がくわわる。「ウキチ」(劇場プログラムをみてそれが「兎吉」という用字なのにおどろいたが、「禹吉」の誤りでは?)という名の軽薄そうな中年男を古舘寛治が演じていて、それが長年「アッシー」として渡辺真起子に仕えているらしい。彼は渡辺が紛失したパスポートを見つけだし、海外旅行にむかう彼女をクルマで駅まで送ってゆく献身ぶりを発揮する。ということはふたりの「仲」もうたがわれるのだが、やがて「恋仲関係」がずれる。つまり往年、古舘と結婚寸前までちかづいたのは姉の鶴田のほうで、しかもインテリ女とヤクザ男というように均衡を欠いたふたりが結婚を成就できなかった理由が、できた子供の処理をめぐっての意見相違からだったとほかの人物から語られる。

語ったのは古舘の甥で、「北」からその地にながれてきた高校生。いまは登校拒否におちいり、叔父・古舘が支配人となるホテルのしごとを手伝っている。演じているのが太賀、この映画でもっとも素晴らしい存在感をもつ(といってもそれは意思伝達が曖昧であるゆえの茫洋たる哀しみの存在感なのだが)。つまり親子でない叔母-姪の鶴田-二階堂の斜行関係が、古舘―太賀の叔父―甥の斜行関係と対になっていることになる。その「対」構造に、さらに古舘の実娘・辰子を演じる杉野希妃(この映画のプロデューサーでもある)と、鶴田の現在の恋人らしく、この地の女子大の夏期講習に講師としておもむいた美術史学者・西田(大竹直・扮)がからんでくるのだが、そこでのおもしろい関係の交錯については後述しよう。

二階堂と鶴田が曇りながらも熱気をはらんだ海浜を同道するシーンがある(この映画では二人物の同道を後退や前進で追うショットが基本になっていて、成瀬巳喜男的なのだが、物侘びた海浜地方の地形連続、外延性が人物の移動にともなってその背後や周囲に、確実に画面定着されてゆく――しかもそれらが無名性・無指標性を手放さないで茫洋さを湛えきるのが驚異なのだった)。そこで二階堂が自分の小学校時代を回想してみせる。なまえのたわむれという点では、自分の「朔子〔サクコ〕」は級友から音の配列を転倒されて「クサコ」とよばれていた。「臭い子」の含意がある。いまからおもうとあれはイジメだったとおもうが、当時の自分は「バカ」でおっとりしていて悪意をかんじず、「クサコ」と呼ばれれば「ハーイ」とあかるく返事をしていた――と。

配列の転倒、あるいは対構造の転倒が反復されることによる記号性の点滅。この点でもさらにいくつもの設定が仕込まれている。たとえば古舘寛治は地元のチンピラだったが、娘・杉野希妃がうまれ妻が死んで、ヤクザ社会の伝手から古ホテルの支配人の座に収まった。そのホテルは一般ホテルだが内実はラブホテルとして運営されている。一般ホテルとラブホテルのあいだの記号点滅。そこの上客が地元の議員・志賀廣太郎で、彼はさまざまな女を買い、ホテルで年齢不相応の性愛を愉しんでいる。

彼には注文がある。ビートとひねりのきいた50年代風のとあるジャズ曲(曲名を特定できなかった)を「特攻伴奏曲」として屋内放送してほしいというのだ。とあるCDの四曲目のリピート再生が彼にサーヴィスされる。これものち転倒する。太賀がデートにおもむくつもりであるいているとき公園で学友にいじめられている地元女子高生をみる。詳細はわからないが納金を強要されているらしい。金策にせまられたその少女が志賀の相手となる。そのことをホテルで知って義憤に駆られた太賀は、予定された「特攻伴奏曲」を梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」に差し替えてしまう。裸身の志賀と裸身の少女のいる部屋にながれる「無意味」と「転覆可能性」。少女は自分たちの関係のもつ滑稽にわらいだしてしまう。ここでも記号性の転倒がある。

太賀はのち、福島からの原発事故難民だとわかる。ところが彼は事故前の福島の原発依存=貧困地帯を憎悪していた。だから彼は事故を機に解放されて「この地」にきていたのだ(だけどそれは「どこ」なのか――福島が「北」と呼ばれるのならそこは「南」だが、南北の直行関係のある太平洋岸沿いなら茨城か千葉かどちらかとなる――ところが画面から指標がたくみに隠されて、そこがどこかをほとんどのひとが確定できない)。ともあれこの太賀の「移動」には「転倒」の要素が仕組まれている。あるいは二階堂の「受験勉強」→「受験失敗」→「浪人(リゾート地への流謫)」も、「転倒」の色彩を加味された「移動」とよべないか。

一般ホテルとラブホテルとに機能的に点滅しても、そのホテルの実在は変わらない。それは福島在住時と現在の太賀にも、高校時代と浪人の現在の二階堂にもおなじだろう。あるときから別のときへむけ「転倒」をしるされたものが、実在的にはおなじ実質を維持されつづけるのだ。図式をつくってみる。【転倒+同一性維持→実質的な同定性の攪乱】。じつはこの映画の人物たちはすべて「同定性の攪乱」のなかに位置づけられていて、存在の輪郭が曖昧、そのことによって茫洋たる風景と存在感が中和しているのだ。見事に現実的・今日的な存在把握といえないだろうか。このときに二階堂ふみのやや肥ったすがた(とりわけ水着姿)、その腰つきのもどかしさが、画面に存在性の実質として拡散してくる。

力点の置かれない、日常会話・日常動作の連続とみえながら、監督・脚本・編集を担当した深田晃司の作劇はじつは周到をきわめている。たとえば太賀にほのみえた「移動」の主題。それは鶴田と二階堂のあいだで生じる海外渡航の話柄と対になる。インドネシアはおろかオランダにも留学した経験がある、と鶴田はいう。最初、二階堂はその意味がわからない。文献探索のため植民地ではなく宗主国にもゆく必要があったと鶴田は説明した。この話柄は作品の終わりのほうにも出てくる。海外渡航しても当地のひとにはなれないのじゃないか、と二階堂はいう(リゾート地でおぼえた二階堂の身体の違和感が反射されているのではないか)。鶴田の返答はこうだ――当人には自分自身がわからない、だからその地のひとを逆に確定するため他者がその地に赴く意義が生じる、と。この鶴田の答は、二階堂と太賀がひと晩の冒険ではじきだした結論、「どこにいってもおなじ」と離反する。カフカはつづった。《絶望する者は移動する》。稲川方人は書いた。《ひとはただ移動する》。

鶴田によるインドネシア小説の翻訳からこんなエピソードがでてくる。とある短篇に、弟が死んだあと、家に弟が夜ごと幽霊として出て、家の庭の花を食べるくだりがある。原典は花喰い人と幽霊とが化合した〔点滅した〕うつくしいはなしなのだろうが、鶴田はそのとき食用にされた花、節黒仙翁の花の実質をしらない。ところが地元民のスケッチ絵画から、その花がちかくの川の「ほとり」に自生していると知る。それで鶴田と二階堂が実地検分しようとリゾート散歩がてら目的地におもむく。

途中で、ともに自転車に乗った古舘―太賀の叔父―甥にゆきあう(このときが二階堂と太賀の初対面)。ふたりはそれぞれ自転車の後部に鶴田・二階堂をのせた。やがて岐路があって、どちらが捷径かで古舘・太賀の議論になる。それで目的地により早く着く競争となって、古舘・鶴田の自転車と、太賀・二階堂の自転車がべつべつの選択肢をとることになる。後者の自転車はあっさりと水辺のほとりについた。前者の自転車は大幅に遅れる。その理由としてのちに見事に短篇小説的な落ちがつくが、それはしるさない。

鶴田・古舘がそのほとりに現れてから、二階堂は確認していた節黒仙翁の自生地を指示する。しゃがみこんでその開花をスマホ写真に収めようとする鶴田に、二階堂が疑義の声をかける。「食べないの?」。たぶん小説を翻訳することは原典を「そのまま生きること」で、そこにこそ翻訳者という存在の変容が予定されている。だから二階堂は原典小説のディテールどおり鶴田が節黒仙翁を食べることを信じて疑わなかったのだ。その論理的飛躍に、鶴田が当惑するさまが一瞬みえた。

前言したように、「存在」は時間経過によって転倒を仕込まれる。ところが存在の同一性が「なぜか」維持される。このことはよくかんがえれば存在の同定性がもともと攪乱的だという事実しかあかさないだろう。じつはそれを端的にしめすディテールがこの一連にあった。太賀とともに二階堂が水辺にゆくと、二階堂は奇妙にあかるい緑色をはなつ水の空間連続そのものに魅せられたようだ。くろい上着を樹の枝にかけ(このことにものちに落ちがつく)、素足をほとりから水の奥へと踏み入れてゆく。

このときひかりの驚異=脅威が出現する。波紋がゆるやかにひろがるのだが、見た目、水面はみたこともないような緑光のあかるさで、しかも鏡面特有の肌理の稠密性を湛えているのだ。まちがいなく実景撮影だろうが、複雑なCG操作によって高度な実現にいたった画面のようにみえる。その効果は聖性と異教性との同時実現ではないか。画面はキリスト教的でもあり、仏教的でもあり、「ほとり」という境界域のもつ動悸性もそこに刻印される(このときの画面がこの映画のメイン・ヴィジュアルにつかわれている)。ところでこのほとりの波紋のひろがりこそが、「形状の転倒」と「水そのものの同一性」が同時的にあることで、水の同定性が攪乱されていると気づかされるディテールなのだった。しかも一旦の水紋はふたたび静穏へと復帰するだろう。

相互関係の攪乱という役割を一手にひきうけるのが、その涼しげなルックがいつも画面に際立つ杉野希妃だろう。地元女子大にかよい、喫茶店でバイトし、詩集を自費出版している挑発的な少女という設定。母親を死にいたらしめた父親・古舘寛治には恨みの筋がはいってもいいのだが、せめて娘だけには教養をと奮励する父の刻苦もあって、不思議と彼と相性の良い点もすでに攪乱的だ。その彼女が反撥と挑発を顕わにしながらも、女子大の夏期講習におもむいた「西田」=大竹直を誘惑する。大竹のがんらいもつ「好色」を自分のからだを贄にして浮上させる手管には老練という形容すら似合う。大竹の運転するクルマから杉野が「送られていった」先は「ふたりだけ」をわかちあう場所、父親が支配人をするホテルとはべつのホテルだった。しかも彼女はすでに大竹と鶴田のただならぬ関係を見抜いている。

作品中いちばんの笑劇が展開されるのはこうした前段があってのことだ。鶴田とのふたりだけの時間を切望していた大竹が、誕生日をむかえる古舘の祝いへの同席をしぶしぶ承認させられる。そこに杉野もいる。つまり鶴田を軸にしては大竹・古舘という新旧の恋人が呉越同舟し(しかもその事実は表面上あきらかになっていない)、そこに大竹が古舘の娘・杉野とすでに寝ているという事実の斜行線がはいるのだった。好きな女のタイプという凡庸な話柄で、肚のさぐりあいと建前復帰が交錯してゆくその場面は、杉野の卓抜な視線演技もあって、異様に可笑的だった。むろん似た達成は内田伸輝監督『ふゆの獣』などにある(そういえば杉野は、その内田監督の『おだやかな日常』をプロデュースし、その主演も果たしている)。

この光景を退屈そうに、ならべられた料理の「周縁」部分を頬ばりながら、二階堂ふみが傍観している。ときたま笑う。勘の良い彼女も、年長者たちのからまった恋愛模様を察知しているはずだ。察知している者が傍観を尽くす――その明察のようすからはいわば天使性といったものまで付帯されてくる。

劇場プログラムで大久保清朗さんが書くように、その彼女の位置はたしかにエリック・ロメールのヴァカンス映画『海辺のポーリーヌ』でのアマンダ・ラングレに似ている。ところがロメール映画の妙は、交わされる会話の現実的な緻密さによって、世界の混沌のなかに間接的にナラティヴの伸展をしるしづけることだ。けれども上述したすべてのことがらから、深田晃司監督『ほとりの朔子』がロメール映画とは微妙な偏差をえがいていると理解されるだろう。彼が描こうとしているのは、記号が転倒しつづける世界構造のなかで、「それでも」存在の同定性が攪乱的に維持され――それが茫洋なひかりを放ちつづけることなのだ。したがってナラティヴが一元的に信頼されるロメールの古典性にたいし、深田はナラティヴを加工可能な侵入領域として指向対象的に定位している。

福島からかたちとしては流謫してきた太賀と、都会から田舎のリゾート地に浪人生という根無し草の身でたどりついた二階堂とに、相同性があるかどうかが作品判断の軸となる。なるほど、自分の故郷をただ「北」と表現し、アルバイト内容についても、客が愛のいとなみによって乱雑にしたホテルの部屋をリセットする賤業性をあきらかにしない太賀の、伏在的な存在感を、二階堂は慎みぶかいと愛着しているように見受けられる。転落そのものを中間化するその身の置きかたに相同性をかんじているのではないだろうか。しかも節黒仙翁を見にいったくだりで、たまたま太賀の自転車の後部座席に腰をおろしてしまった偶有性をも珍重している。なぜなら同定性が攪乱性のまま維持される世界では、偶有的であることだけが価値となるからだ。

登校拒否をするまえのわずかなクラスメイトだった女子生徒「知佳」が太賀にさかんにモーションをかけてくる。その接近の一部始終を二階堂は見聞して、同級生同士のつきあいの微笑ましさを尊重、「デート」する自分の座を「知佳」に明け渡したりもするのだが、やがてその知佳の接近が、福島から避難してきた太賀の身の上の、「負の符牒」だけが目当てだったと判明してくる。

もともと原発反対集会開催のチラシを、杉野と二階堂のいる喫茶店にもちよったボランティアの起居が溌剌すぎて気味わるいという前提がしるされたあと。デートと誤解した太賀が、「知佳」の息のかかる原発反対集会にたどりつき、しかもその壇上で「悲劇経験者」として所感を語らされる羽目になる。通り一篇のことをいえば済むはずを、太賀は故郷の原発依存、故郷の貧困からの嬉しい離脱などを、「笑っているのか泣いているのかわからない」(のちの二階堂の言)混淆的な表情で訥々もしくは滅裂に語ってしまい、いたたまれなさに会場から逃走、ホテルへもどることになる(このホテルで前言した使用曲を「こんにちは赤ちゃん」へすりかえる「事件」が起こり、叔父・古舘から「正義を意識したからには仕事卒業」と暖かな馘首を言い渡される)。

集会での太賀のようすをネット中継で二階堂はみていた。ホテルからでてきた太賀を二階堂はつかまえようとする。太賀が懸命に逃げ、二階堂が懸命に追う。原発事故というとんでもない介在物はあるが、一挙に作品の感触が青春映画に似てくる。「ここではない場所anywhere out of the worldへと移りたい」気運が、やがて疲れて同道するようになったふたりに生じる。コーナーにたかく置かれた交通用の鏡面内が映る。それから画面が鉄路へと展かれる。この作品ではじつは人物の歩行をとらえるときガラス面での反射映像が転換に先だってとらえられる撮影作法が目立たないが連続していた(撮影は根岸憲一)。

ふたりは鉄路をあゆみだす。それで「映画みたい」という太賀の述懐がひきだされる。二階堂が先立つ。それは子供たちが死体を探しにゆく映画ではないか、と。ベン・E・キングの名曲の冒頭のベースランをくちずさみはじめる。スティーヴン・キング原作、ロブ・ライナー監督の『スタンド・バイ・ミー』だ。少年四人が鉄路をあるくシーンも印象的だった。

ちがう、モノクロ日本映画で、幼い子供ふたりが「ここからべつのところにゆこう」とちいさな冒険をしるす映画で、題名もこまかいディテールもわからないと太賀はいう。上述の大久保清朗さんの長論は該当する映画を成瀬巳喜男『秋立ちぬ』と推測しているが、あの映画には鉄路のシーンはなかった。むしろ正体を訊ねてもわからない、ということがこの映画での眼目ではないか。なぜなら土地の具体性の指標がたくみに隠され、茫洋とした哀しみの身体を茫洋とした夏がつつんでいることと、そこにいる人びとの記憶の質もが、同調しなければならないためだ。

ふたりの放浪は夜をむかえる。相当歩いて入った奇妙な飲食店では仮装パントマイムが来客の耳目をうばっている。やがてはどことも名指せない「夜そのもの」のなかでふたりは野宿する。かたわらに眠る二階堂のくちびるを奪おうとして断念してしまう太賀のすがたなど、ここにも青春映画的なディテールが組み込まれる。このひと晩の冒険が「どこへいってもおなじ」と最終的にふたりに総括されるのだが、「どこへもゆけない」ことが刻印されたのではない。むしろ「同一性のなかに偶有性が反響する」彷徨のゆたかさのほうが伝わってくる(このふたりの突然の行方不明のため、行方さがし-待機の行動をともにとった鶴田と古舘とが、ひさしぶりにひと晩をともにすごすことになる――ここでもこのふたりは、二階堂・太賀と「相同に」、片方がただ寝て、片方が無聊のまま覚醒している相互性をえがきだすことになる――世界は他者間でも変わりのなさとして基本的に分有される)。

このちいさなドラマの波が収束したあと、二階堂に母親から電話がかかる。この母親には、前述したように、同居することになった同齢・同音、鶴田真由の「ミキエ」のうつくしさと才媛ぶりにたいするコンプレックスがあったと説明がなされているから、だれが演じるのだろうと興味が湧くが、ついに画面には出現してこない。受話器のむこうの声すら割愛されている。地上連絡性の位置にあった二階堂の母親が画面から消去される構えは継続されたのだ。予備校講習の加入手続きをしたから帰ってきなさいという電話内容だとはわかる。二階堂は承諾し、以後は作品そのものが辞去へ向かうモードとなる。律義にテロップされてきた日付ももう九月の初旬に移行している。茫洋とした身体が茫洋とした季節(夏)、場所(リゾート地)に入って、ひかりや闇のなかにその身体をうつくしく延長させながら、さてなにが実質化されたのかというと心もとない。むろんそれが映画そのものの意図したことなのだった。

ところが二階堂がその地を離れるとき車中の杉野が、浜辺で撮られた一枚の集合写真をあげるという。自分と自分の親族と、近所に住む鶴田と渡辺真起子が映っていながら、だれだか判別しない童女がそこに混在している写真。その子がだれだかはあなたと会ってわかった――写っているのは幼いころのあなただ、と杉野が語る。その写真が二階堂の手許に渡ったときが、この映画の「解決」だとおもう。つまり茫洋とひろがる光景は、振り返られるときその茫洋さのなかにもかけがえのない具体性を刻印しているのだ。その写真には幼いころの「孝史」(のちの太賀)も映っていた。それが「世界は(当地の他者になるために)どこへでもゆける」ことの傍証だったのではないか。

監督・深田晃司は映画美学校の出身ながら、現在は平田オリザの主宰する「劇団青年団」の演出部に身を置いている。あきらかに汲みとれる意図がある。平田演劇=演出のナノ単位的なリアルの目盛を映画へと奪還しようとしているのだ。それで古舘寛治、志賀廣太郎など「青年団」ゆかりの俳優が出演している。平田オリザのドキュメンタリーを撮った想田和弘も端役で出演している。その「青年団」からの起用俳優でとても驚いたのが美術史講義の夏期講師「西田」役の大竹直と、節黒仙翁のスケッチを鶴田にみせにくる近所の「絵画おばさん」役の松田弘子だった。どちらも、既存の映画俳優とはまったく異質の、リアリティの目盛をもっている。「素人かな?」と感覚を脱臼させるような類型学がそこに実現されていたのだ。

三月二八日、札幌蠍座にて鑑賞。
 
 

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2014年03月28日 日記 トラックバック(0) コメント(2)

先日DVDで見て、登場人物の整理もしたかったのでレビューを検索しました。
阿部様の記事は、単なるレビューではなく学術的な様子で、少し読みくたびれましたが、心地よい疲労です。
記事内容に不満は無いのですが、気付いた点を2つばかり。
・公園で学友にいじめられ、納金を強要されていた、志賀の相手の少女は、〔女子高生〕ではなく、太賀が「中学生」と古舘寛治に言います。
・太賀がやって来ている「この地」は明らかではなかったですが、車のナンバープレートは〔湘南〕ナンバーでした。

全体に、ぼんやりとした事実が多かったのが特徴でしたが特に、鶴田が古舘に「産んだんだから」と言うのは、(私が古舘の子を産んだ=杉野希妃)ときこえた点。加えて、「どうして『ほとりの』なんだ?」と言う点についてレビューを確認したかったのでした。
題名については、登場人物や事象の〔ほとり〕にいつもいるからかな。とは思いました。ここについては、『海辺のポーリーヌ』をご紹介して頂いたのは有難かったです。

2015年11月11日 かながわまるこう URL 編集

迂闊に書いてしまった細部(記憶)を是正していただだき、感謝しています。機会があれば作品を観直してみます

2015年11月12日 阿部嘉昭 URL 編集












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