からだの眼
【からだの眼】
からだの眼があって、じっさいの眼よりもさきに視ているのは、気体的なもの、面であってもそこにわずかにきざしているずれ、さらには聴覚がそれじたいのなかにくわだてている視の芽といったものだろう。想起するということはすでにみとめていることだが、そのばあいにからだの内側が外からとりこんだもののさらなる内側を知り、そこからからだの眼がかたちづくられるといってもいい。内外のあるものでは内外の反転こそが視られ、それがからだそのものに作用する。さくらがあってひそかに放電しているさい、どこまでがさくらで、どこまでがわたしなのだろうか。女性が横に添い息をしているみぎり、どこまでがおんなで、どこまでがむかしなのだろうか。からだの眼はそれら問をふるいわけ、ねじれにみちた空間につつませ瞑目させるが、なにごとをも視ることなしに視ているのは、もはやからだですらなく問の眼でもある。在ることはゆれるが、ゆれることが在るままなのは、からだの眼がめぐりをさだめずに彼我や因果をともにうけながすためだ。