小保方さん会見 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

小保方さん会見のページです。

小保方さん会見

 
 
【小保方さん会見】


夕方まで小保方晴子さんの記者会見にずっと釘づけになっていた。おんなの涙によわい、といわれるかもしれないが、真摯で緊張感のある会見だった。緊張感というのは、「ネイチャー」誌掲載論文の捏造・改竄を結論づけた理研にたいし、彼女が研究基盤としてこれからもそこへの所属を望んでいるがゆえの慎重さがあったためだ。つまり組織論のきしみのなかで、すべての発言がおこなわれていた。明言が避けられたいくつかの解答にはすべてそうした重圧が裏打ちされていた。ともあれ弁護士が会見に伴ったのは得策で、それで「怒らないひと」小保方さんが貫徹された。謝罪と悲嘆、それと「ゆるされるなら希望を」としか彼女がいわなかった点は注意されていいだろう。

STAP細胞の作成には200回以上成功している、それをインディペンデントの研究者も代理的に実現している、という彼女の事実吐露は、胸を打った。STAP現象の実現には「ちょっとしたコツ」「レシピ」がなるほどあるが、「ネイチャー」誌論文は現象報告であって、詳細な作成手順の公開は次段階に予定していたという。つまり理研が拙速で論文作成を彼女に命じ、彼女の整理能力がパンクしてしまいながら、あの晴れ晴れしい発表がおこなわれた裏事情がすけてみえてくる。性急さは罪だ、と箴言につづったカフカをおもう。

理研が抑圧組織であるのはまちがいない。もんだいは、もし実際にSTAP現象にたどりついたインディペンデントの研究者が彼女の証言どおりほかにいるとして、そのひとたちの証言能力までもが何かの圧力で現状、封殺されてしまっている点だろう。自己防衛から、要注意案件には再加入しないなどという個人的な判断がなされたのだろうか。年若くして世界的な窮地に陥った女性研究者にたいし、「侠気」が徹底的に欠落しているとかんじる。

そういう証言可能者がもし出なかったとしたら、つぎのような結論しかだせない。1)「証言はもともと不能で、証言の場所すらもともと不在である」。2)「小保方さんは妄想系である」。この2にかんして会見視聴者は読解能力を試されることになった。たとえば隠されている真実があるとして、それをひとの(身体)表情がかならずつたえるかどうか。これは人間観のもんだいであり、映画鑑賞の意義ともつうじる自己確認だろう。証言者が出てきて小保方さんを擁護すればむろんそれがひとつの「解決」にあたるが、証言者が今後おおやけになるか否かよりも、「証言の場」が論理的に存在するかどうかのほうが現在的な興味をかたちづくる。

ふりかえってみれば、小保方さんは特異性と「フロイライン」性の融合だった。マスコミもいちどは彼女の割烹着姿やトーベ・ヤンソン好きを「物語」にしてみせた(ヤンソンそのものがひとつの特異性だった)。ただし世界中のSTAP再現がともなわない時点で、論文の「マナー」のまずさがあきらかになると、彼女の「特異性+フロイライン」の「場所」がミソジニー的に蹂躙されてゆくことになった。現在的な魔女狩りのようにみえるが、天使性が「場所」をしめるような特異空間を、既存性維持をもとめる心性が容認しなかったようにもみえる。魔女なんてもういないのだ。その「場所」の特質に、「そこでは証言が不可能になる」という付帯条件がさらにくわわる。だからことは、掌を返すようにマスコミが陥っていったシニシズムだけに終始するのではない。ある性質(天使性)をおびた場所の承認のほうが重要なのだ。

小保方さんには「神の手」をもつ者を主演にするアニメ的なストーリーがたしかに適用できる。しかしそのアニメは現実的な暗転をしいられるのがただしい。かつて東北地方で旧石器をつぎつぎに「発掘」していった「ゴッドハンド」考古学者も、発掘捏造が発覚してからは精神を変調させていった。ただし自分の論文の「マナー」には謝罪をくりかえしたが、STAP細胞という「マター」にかんしては一回も謝罪をしていない小保方さんには注意をすべきだろう(その点で例の「現代のベートーベン」はゴーストライター使用と自分の虚言を最初から謝罪していた)。小保方さんは「嘘つき」なのか。どうもそうとはおもえない。

それでのこるのは「妄想系か否か」だけということになる。しかしたとえそうだとしても、それはただの病気なのだから、糾弾可能性とはならない。今後マスコミはそういった責任の緩衝地帯を注意ぶかく対象にしてゆくことになる。どうするのだろう。

小保方さんは会見場に蝟集する記者のなかからかならず質問者を確認していた。それで質問を聴く場面で、視線が不安定に泳ぐことにもなった。あれはなにを意味しているのだろうか。「相手を視認できなければ応えられない」といういわば原始状態の貫徹。それともうひとつ気になったことがある。彼女は質問を聴いているあいだに、くちびるを無言のままちいさくうごかすことがあった。自分の解答をシミュレートしていたのだろうか。ただしそれは金魚の酸欠状態のようにもみえた。

ふっとおぼえた予感は、今後の彼女を救うのが海外かもしれないということ。弱酸性溶液を媒介させるだけで細胞初期化が起こるというのは、魔女といわれた老女が薬草を村はずれから調達してきた叡智に似ている。そういう女性的な知性を「狩ってしまった」ことに西欧はみずから戦慄した。この戦慄がいまだに西欧精神の最深部のひとつを規定している。共同研究者であるハーバード大学のバカンティ教授の存在がその意味で気になる。理研もそうだろう。こうした布置もまた、全体で選択肢の緩衝帯をつくりなしている。

「女」は、通常、「男」と同様に凡庸だ。ところが性差を超えることで、「特異性の領域に天使が存在しだす」。マスコミも一般人も、小保方さんに「女」を見て、特異性をみなくなってしまったようだ。ぼくはあの割烹着への熱狂は、深層では、女性性ではなく特異性への覚醒だったとおもっている。言い方はむずかしいが、小保方さんをつうじて「日本がうしなってしまったもの(神風のようなもの)」がいま賭けられているようだ。その賭けにシニシズムを介在させてはならない。
 
 

スポンサーサイト

2014年04月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する