アデル、ブルーは熱い色
【アブデラティフ・ケシシュ監督『アデル、ブルーは熱い色』】
倦怠と期待が共存し、そうして感知される二重性がうつくしいと錯視される瞳。ところがやわらかくまとめあげたうすいブルーネットの長髪は、そのやわらかさゆえに髪のすじを顎にまでたらすことが多く、いわばみずから中間の瞳に微妙な否定線をえがく。くちびるはといえば肉質のうつくしいゆたかさによって多くが「半開」だ。そのことで彼女はパスタなどの摂食のときに内臓ともいえる舌をひらめかせてしまう悪い癖をもつ。眠るときにもくちびるは開いたままで、そこから外界の悪夢が彼女のからだのなかへと浸潤してゆくだろう。
「半開性」をキリスト教下の希望の形象とむすびつけたのはジャンケレヴィッチだったが、それは外部をとりいれる家屋の窓についてだった。レスビアン・カップルの出会いと熱愛と関係破綻をえがく『アデル、ブルーは熱い色』、そのヒロインのひとり「アデル」(アデル・エクザルコルプス)では半開のくちびるは、相愛のひとと舌をからめあわすディープキスと、発語衝動の双方に分裂し、その分裂こそが最終的な希望となるかのようだ。そうなるにはよくかんがえればわかるが、霊肉相剋という二律背反的な主題、それじたいが「肉のささえ」をもっているという原理的な把握が要る。そのことに「肉」薄しえたこの映画は、そのアプローチによって、文化論的な側面はべつにして、レスビアン映画という限定性をきれいに内破している。それが魅了の原因となった。
約言すれば「カップル」が成立し終焉するだけの要約にさらされてしまう映画の細部をささえるのは、性交にかぎらない「愛の表情」の多彩な展開だ。アデルがいつから同性愛性向を自覚していたのかはわからない。『仮面の告白』的な葛藤が通り一遍にしるされる。高校の一年先輩、音楽好きにして理科系のトマからの求愛。映画館での手のつなぎあいが、そのままキスへと発展してゆく。それでも「その後」がない。性愛にかかわる若さゆえの焦燥をしめさないアデルに、トマが「自分を避けているのではないか」と詰問する。そんなことはないとしめすためアデルは人影の不意に途絶えた校舎内の階段でトマに接吻をほどこす。むろん足りない。やがてふたりはトマの部屋で性交におよぶ。そこそこの昂奮が画面からつたわってくる。それだけのこと。科白にしるされないことは、アデルの献身に犠牲の感触が伏在している点だ。いたましさが「半開」になっている。
こうした異性愛への献身にたいし、もういっぽうで同性愛にかかわる伏線がひかれてゆく。校舎の非常階段で、真面目な女教師の文学授業に疲弊したていのアデルともうひとりの級友。とおりすぎた「アリス」という美少女の品定めをする。級友がふとレスビアン的な美意識を発露する。アリスはあるくときの尻が良い(アデル自身の「あるくときの尻」については、この作品の悲痛なラストで画廊からの帰途、街なかをあるくアデルのすがたで判断されるだろう――それが宿命的なレスビアンの尻なのか、人間の尻なのかを観客は自問することになる――正しい解答は「どちらでも」ということではないか)。
場面にもどると話のながれがふとアデル自身におよぶ。アリスよりもアデルのほうが魅力的かもしれない。あなたは自分の可愛さをわかっているはずよ。そんなことはない、と否定するが、アデルの頬が赤らむ。上気とは俳優に要求されるうちでもっとも難しい演技だ(アデルはカットを割られずに、つまり事前・事後というかたちでなく、「実際に」上気する――ここが「顔の映画」としてたかい決意が秘められていると信頼した一瞬だった)。それなりに少女として可愛い級友とのあいだで偶有的にたちこめるレスビアンの雰囲気。級友がアデルを可愛いといい、キスがなされる。そのようにひとが可変的に同性愛行為へとすすむばあいもあるだろう。
翌朝、アデルは級友を追う。級友がトイレにはいりひとりになった好機が訪れる。アデルは級友の顔に熱烈にキスを開始する。級友がやさしく拒絶する。「(昨日のことで)誤解させちゃったみたいね」。アデルは自分の暴走を反射的に悟らされる。泪がながれてゆく。同性愛にたいしては猛進してゆく自分が片側にいて、もう片側には異性愛を躊躇する自分がいる。
それはトマとの映画館デートのときにも自覚されたことだ。アデルは横断歩道で一瞬すれちがった青い短髪の、アーティスティックで跳ね返りの印象のある若い女と、すれちがいざま一瞬、視線を交わした(と感じる)。トマとのデートのあと、自室のベッドに横臥するアデルの「半開」のくちびるが印象づけられたのち、アデルの自慰描写がくりひろげられる。わかさをたたえつつ豊満な乳房。股間にのびるゆび。ところがちょうど『白昼の通り魔』で戸浦六宏の幽霊が現れる方式で、青髪の女が性的なせつなさにもだえるアデルの姿態のむこう、ピントをはずした場所に、顕れる。女の亡霊がいないカットと、いるカットが織り合わされ、その青髪の女が、アデルが自慰にもちいている「イメージ」だと意味のふりわけがなされてゆく。手法の俗っぽさもいとわないチュニジア生まれの監督アブデラティフ・ケシシュにこのあたりでまず好感をもった。
このアデルの自慰の場面では、手前にアデルの半裸身、ピンのはずれた奥行に青い髪の女というかたちで、余白を忌避して人体が充満している。あるいは手持ちカメラでわずかに浮遊する俳優の顔へのショットでも、映像は俳優の顔を頬の産毛がみえるほどのアップ構図を選択し、画面を「肉」で充満させる。それがエモーションの契機になっている。岡太地の知られざる傑作『トロイの欲情』ほどではないが、岡も参照しただろう増村保造的ではある(増村映画の符牒、エモーショナルな身体接写は、彼の強度の近視が原因だったともいわれる)。肉の画面充満とエモーションを完全に相即できたのは増村の時代、スコープサイズが主流だったからだ。増村の映画は半面で窒息恐怖に似る瞬間がある。もう半面でマスキングのように画面手前の遮蔽物が漆黒領域をつくりだし、構図の凝縮をくわだて、画面進展に内在的な変化が刻まれるのだ。
ケシシュ監督は、増村のレスビアン映画『卍』を観ているだろうか。岸田今日子の「いやらしさ」が絶品で、それが本能的な若尾文子の存在とハーモニーをなした。増村的なミソジニーは若尾にたいして発露された。岸田には「賛成」していたのだ。そういうエモーション特有のゆがみ(サミュエル・フラーにもつうじるもの)が、たしかにケシシュにはないようにおもう。
『アデル、ブルーは熱い色』は原作が文芸指向的なコミックだから、俗っぽさはアデルのリセ在学時代、文学授業での素材にもみられた。マリヴォー『マリアンヌの生涯』とラファイエット夫人『クレーヴの奥方』は「ひとめ惚れ」の運命性、人生に偶然はない、という哲学のために「援用」される。ソフォクレスの『アンティゴネ』は「幼年の克服」のために。そのなかでフランシス・ポンジュの『物の味方』も授業の素材となる。「水について」。不定形な水は重力のまま「低きへとながれる」悪癖がある。そのまえの授業のながれと化合して、この「悪」は偶然なのか必然なのかというもんだいが観客に生ずるはずだ。
ところでこの場面では『物の味方』でもうひとつよく話題になる詩篇「牡蠣」をおもっていた。その一部――《〔殻の〕内部に、私たちは飲みかつ食べる全世界をみる。真珠母の天空(適切にいえば)のもとに、上部の天が下部の天の上に垂れ下がり、そこにはもはや沼だけが、ねっとりとした緑っぽい小袋だけが形成されているにすぎない。そして、それは黒っぽいレースで縁取られ、匂いも見た目もまるで湖のように満ちひきしているのだ。》。やがて牡蠣は、アデルが真の恋人エマを得たのちに出てくる。魚介類を食べられない偏食者アデルが、極上の白ワインとともにながしこむことで、エマ(の一家)の好物、苦手の牡蠣を克服する場面があるのだ。しかも周到に、牡蠣の身が(形状、匂いともに)女性器とむすびつけられていることをエマがアデルに暗示する場面もあった。女たちの最深部は海に属するミルキィなやさしいもので形成されている。女たちの舌は発語とともに、それをたがいに味わうためにある――
「海の青」という羨望領域がある。アデルが横断歩道ですれちがった青髪の女は、ゲイソサエティがちいさく櫛比する、悪所というには文化的な夜の秘密の一角にいた。俗にいう発展場だが、性急さが機能的な日本のそれ、あるいはロウ・イエが『スプリング・フィーバー』でえがいた爛熟を謳歌する南京のゲイクラブともちがう。作品のカメラワークときれいに合致するように浮遊的なのだ。
『アデル、ブルーは熱い色』の舞台はパリそのものではなく、郊外だというが、それでもそういう恋愛可能性の場所がひらけているのはゲイ解放の先進国だからか(そういえばこの映画は人物の喫煙も忌避しない)。そのゲイクラブでも階上からアデルをみつめるエマの青い髪が、徴候のように仄光っている。やがてエマがしつこい中年レスビアンに難儀するアデルを救おうと彼女のいるカウンターに赴き、従姉を装う。その「従妹」という関係斜行性と合致するように、レア・セドゥ演じるエマの「青」が、染められた短髪とともに、その瞳の「青」に分岐・反映されているさまを観客はみる。たがい離れて反映しあうなにかとは、それじたいうごきの斜行をうながすのではないか。
英語ではout of blueは「とつぜんに」「だしぬけに」の意味をもつ。青空からなにかの徴候が無媒介・無前提・不可逆にあらわれた衝撃から生じた成語なのかもしれないが、out of blueがblueをふくんでいることが妙味だとおもう。青なき青は、青とのかかわりでしか想定できない。それじたいが色ではない色なのだ。そこから「狂気」の圏域がにじみだす。
くわえて「青」といえば角田清文という大阪の詩人のすばらしい詩篇「青」をいつもおもいだす。塚本邦雄の『詞華美術館』で知ったものだ。第一聯を転記しよう。《自然からの離反の強さが そのまま 青の中心へのあゆみとはならなかつた/そこには遠瀬があつたばかり/遠さの まがいものの青に斑〔はだ〕らに染められて 遠さへのおまえのむなしかつたさすらい/ ――/海溝が陸地から わずかのへだたりに息づいていたように/青の中心の深みは 自然から わずかばかりそれたところにあつたのだ/わずかに血のいろのまじるところに》。青は美学的には自然色ではなく人工色なのだ。むろんそれは色彩の斡旋が限定者には文明的となるからにほかならない。たとえばボードレールはダンディスムのために蓬髪を緑に染めた。
話をもどすと、憂さを晴らすためホモセクシャルっぽい男子のクラスメイトからゲイ領域の歓楽街にさそわれ、レズバーで眷恋の青髪の女エマと再会したアデルだったが、エマはレズ友にさそわれディスコに繰り出してしまう。ひとりのこったアデル。このときにはもう男性をふくめた観客にも、「アデルとともに」エマを追ってゆきたい心情が分与されているだろう。『アデル、ブルーは熱い色』の美点とは、級友によってレスビアン属性を刺戟されたうえで傷ついたり、男子との性愛を試行して虚無の地雷を踏むアデルにたいし自然と「弱い者」にかかわる同調や心情的ミメーシスを促され、男性もまたアデルに「なってしまう」点ではないか。肝腎の箇所に男性がきえて『アデル、ブルーは熱い色』がポルノグラフィの与件をとりくずすのではない。男性受容者が女性となって内破的にポルノグラフィが重層化することで、劣情ではなく共苦がもたげる点がうつくしいのだ。つまりシニシストにはこの作品が鑑賞できない。
シニシストの苦手とするのが音楽性だという点も自明だろう。リセの校門にいるアデルとそのクラスメイトたちのまえでアデルがレズバーに行った点がかしましく議論されている。そのアデルの眼路とおくに、青髪のエマがとらえられる。アデルは躊躇せずにエマのもとへかけつける。エマは級友たちにもレズ記号を放つ異装者と即座に捉えられ、それがのちアデルと級友の喧嘩も呼び込む。そこで「あそこを舐める」ことの気味悪さが前面化されるのだが、それは後日のはなし。
その日は、アデルとエマとの初めてふたりだけの時間が穏やかにつくられる。公園のベンチ。美術専門学校生のエマは愛のあかしのようにエマの顔をスケッチする。素描とは、肉状の顔を線によって精神化することだ。そうして線と精神と「すきなもの」がエマの手許で合致してゆく(素描行為と愛情吐露の複合は、五月に公開される奥原浩志監督の傑作『黒四角』にもある)。それから文学談義。アデルは哲学が苦手と語り、エマはサルトルの『実存主義とは何か』が入門書として手頃、アンガージュマンの意義を語る。サルトル哲学にはほぼ無知だが、サルトルの戯曲『汚れた手』は好き、と語るアデルに「存在のふくみ」が付与されている点にも注意がいるだろう。疎外者に同調できる能力があるのだ。しかしその能力は映画の終わりにあきらかなように、ほぼ「自分のために」つかわれる。ここでもふたりは相互の同性愛傾斜を間接的なことばでひそかに探りあうのみ、肉体を交わさずに別れる。溜めとその後の爆発が仕掛けられているとかんじる。それは映画性に属するものである以上に、音楽性に属するものだ。
アデルとエマの性愛交歓はどう惹起するか。ゆるやかな斜面となる草原にならんで仰臥するふたり。アデルの顔が向かって左側のエマのほうに向く。アデルは上気し、その瞳は欲情に淀み、「あえぐ」といった形容が似合う。エマは謎を保持するように中間的な重力をたたえた笑みをくずさない。ふたりの顔はアップで切り返され音楽的なリズムを刻む。低きにながれる水の重力の悪――それを体現するのはポンジュの授業を受けたアデルのほうだ。仕種の細部変化それぞれが心情の徴候となるこの彼女は、のちの裏切り(それは烈しい慚愧の原因となる)がなければ、性格的にはすごくすばらしい。ひらめく音楽の蛇、舌。それがみずからの半開のくちびるを舐める。それから彼女はエマのくちびるをうばう。むさぼる。舌がからむ。果汁のような体液が顔の髄から交換されつくす。そこにいたるまでのうごきの遅延により、はげしさにむけた助走がそのまま心情化される。
そののちジャンプカットにより展開がはじまるふたりの性愛がはげしい。絵画のようにうつしいと多く形容されているようだがそうはおもわない。画面をふたりの肉色の肌が覆いつくす窒息恐怖が体位変化のなかにうまれるのだ。トマとのセックスとはアデルのあえぎの烈しさがちがう。しかも積極的で、はじめてのレスビアンセックスとおもえぬほど、舌と手をともにつかった性儀の複合性を知悉し、能動と受動を自己身体区分にわけあうことで相互の身体をともに定位するすべにもたけている。予想にはんしてネコ/タチのくべつがない。相互供与が音楽のように展開してゆくのだ。レスビアン性交が初体験とみえたアデルが、事前に相当の学習を積み、しかもその本能が躊躇すら超出していることがわかる。アデルの頬に滝なす泪がひかるのもうつくしい。それにしてもふたりの乳房と乳輪にボリュームがあって、からだ全体にやわらかいハムのかたまりの感触もあるから、じつは性欲よりも食欲を刺戟されてしまった。
日本公開版ではふたりのセックスシーンが再編集されている。はっきりわからないが、フランス原版では性器の接写カットが挿入されるらしい。それがしかも模型をもちいたものだという。それはたぶん牡蠣のようにむき身だったのではないか。つまり「ひらいている」。『アデル、ブルーは熱い色』がほどこした俳優政策はたぶん以下のようなものだった。1)俳優には舌があってもよい。2)性器があってはいけない。むろんスタジオシステム時代には女優はイメージ継続のために庇護されていたから、舌さえもがほんとうは忌避材料だったはずだ。だからたとえば成瀬『驟雨』でベーっと舌出ししてみせる香川京子が、隠されたスキャンダルとなった。
互いの家族への紹介では、エマの家でレスビアン・カップルが公認なのにたいし、コンサバなアデルの家でエマが哲学の勉強を手伝ってくれる女ともだちと虚言される。それにしてもアデルの父親は料理自慢ながら、ペスカトーレ系のトマトソースパスタばかりだ。むろんその「赤」は、エマの「この世の外」「血の横にあって青い」髪と瞳のいろに離反する。エマはエロチックなポーズをいとわないモデル役アデルを自分の絵画創作のミューズにして、創作上の躍進をとげてゆく(画商との軋轢があったにしても)。アデルは学校の先生となり、幼児教育に天職を見出している。エマがひらくガーデン・パーティではアデルは美神とエマ自身が、癖のある、同性愛者の多い参加者に凱歌をあげるように宣言する。ところがそれがふたりの関係、運命の絶頂点となった。
アデルのつぎに選択されるエマの相手(当時は臨月の知的なアーティスト)が、作品が初めて明瞭に使用する縦構図の強度でしめされ、献身的に料理づくりに精を出したアデルに孤独の予感が生じるのだが、そこで絵画にたいする話柄が再登場する。そのまえ、クリムトとシーレについてエマとその美術学校の友だちが議論する場面があった。友だちの熱烈なシーレ擁護にたいし、シーレのねじれを容認しながら、クリムトは装飾性だけではないと熱弁するエマ。文学とはことなり美術には暗く、ピカソくらいしか知らないと最初にエマに語ってしまったアデルがその圏域にはいらされる。シーレを知らず、話柄についてゆけないアデルにたいし、「以前おしえた」とちいさく憤ったエマのすがたが、その後の伏線となるだろう。
ガーデン・パーティでしだいに孤独感に陥ったアデルを、アメリカで映画ビジネスをやっている事業家の好色っぽい男が近づく。その前後で、たしか一瞬、絵画「世界の起源」が話題になる。それはクールベが好事家のもとめにおうじ、陰毛もあらわな女性のひらかれた股間(ただし陰唇は閉じられている)をリアリスティックに描写し、ラカンが秘蔵していたことでも評判となった作品だ。それはポルノグラフィではなく、絶望の絵だったのではないか。なぜなら見事に表層しかないためだ。すると逆にポルノグラフィの条件が理解されてくる。運動の付与による機械性の露呈、ということではないか。表層に離反する「内面」の提示はじつはポルノグラフィの問題ではなく文芸の問題に向かう。ということはクールベ「世界の起源」は表層でえがかれた表現の熾烈な分水嶺なのだった。
シーレを知らないアデルは、むろん「世界の起源」も知らないから、一瞬提供された話柄はスルーされる。ところが表層だった「世界の起源」の女性器と、日本版で秘匿された、模型をつかった性器接写カットの女性器は、実際は主題論的な対照をえがいていたのではなかったか。真相は不明だ。ただし内面提示はこの後、作品内でべつに「たしかな展開」をみせる。そのとき液の横溢という問題が、性交ではない場面で、「顔」に惹起され、作品冒頭が形成していた「顔の映画」という主題への復帰が目論まれるのだった。
言外に読みとれることもふくめ手短に経緯をしるせば、こうなる――。たぶんエマはミューズとしてのアデルを「つかいつくした」(「蕩尽」というベケット的な隠れた主題)。エマは文章上手のアデルに芸術家肌の異人となるようもとめる。アデルは自分の書くのは日常雑記であって作品ではないとし、たぶん「換喩」の問題に突き当たっていない近代文学主義者にすぎない。それで家事、さらには天職として見出した幼児相手の学校の先生に活路を見出すだけで、それがエマには飽き足らない。教養の差異は、ロウ・イエの『パリ、ただよう花』のカップルのようにいつでもサスペンスフルだ。その暗雲のもとわるいタイミングで、身体的な寂寥をかこったアデルが、自分に秋波をおくっていた同僚男性と、浮気をし、それがエマに露見する。虚言を弄したのがまずかった。最初「寝ていない」と強弁するが、それが数回寝たという真実吐露に変わる。男にフェラチオしたあとで自分にキスをしようとするのかと激昂するエマ。
責め立て、関係修復をみとめないエマの「容赦のなさ」「剣幕」演技も迫力があるが、泣いて弁明し、懇願するアデルの演技が、圧巻だった。顔が「物理的に」くずれ、長くなったような錯覚をよぶ。その肉のフランシス・ベーコン的なくずれのなかから、泪・鼻汁と「液」があふれてくる。露呈が徹底的に「液体」として表象されるのだ。むろん「愛の分量」を身体が分泌する液体の分量で計測してはならないのは常識だ。けれどもこの場面はその常識と抗い、唯物性が身体とかかわるさまを摘出している。
それで気づく。ふたりが接吻から性交で展開していた音楽性までもがはげしく流産していると。真の悲劇とは、音楽性の抹殺にかかわるのではないだろうか。劣情をふくめ表情の裏に伏在していた「感情」(それが音楽性の保証だった)が、この場面では「肉を離れて」むきだしになっている。性器の模型どころではない。アデル・エグザルコプロスは真の裸体だった。シニシストはこの衝迫の意義を見落とすだろう。顔の刻む異形にこそ、人間的な同感の関与する余地がある。
ふたりの別れを決定づけたこの場面、カメラはショットを切り返しで徹底的に二分する。アデルはエマとの共同生活から放逐された。やがてはショットの質が変化する。思い出の公園のベンチを訪ねひとり寝てしまうアデルにはそれ以前よりもロングショットの孤独があたえられる。幼児たちを指導するアデルには幼児たちとの身長差が身体への罰としてあたえられる。アデルの「心ここにない」ながら仕事を取り繕う表情も見事だ。夏季休暇。相変わらず海岸で子供たちの世話をする水着姿のアデルは、その布からあふれる、かたちよく豊満な肉づきがやはり身体の罰となっている。ひとりになるには海に入るしかない。しかし海上に浮くアデルの顔では、やはり宿命のように、くちびるが半開になっている。
数年後のエマとの再会は、発展場とは無縁の一般のカフェでなされた。とっておきの白ワインを仕込んでいたアデルにたいし、エマは珈琲を所望。そこでまず期待をはぐらかされたアデルは、ふたりべつべつの時期の空白をありきたりな確認で埋めるうち、感極まって、エマのゆびをとり、みずから半開の口にくわえ、舐めはじめる。ほしいの。あなたしかいないの。嗚咽と性欲とで顔は泪とともにぼろぼろだ。平衡感覚をうしなったエマもぼろぼろになる。キスとフェチ舐めと発語が、口の亀裂のなかで分離している人種。そこでは顔も、亀裂の潜勢態でしかない。そのことの負の符牒。ところがその符牒はよくかんがえれば、ゲイのみならずヘテロにすら共有されているはずなのだ。エマとの最初のキスで幸福を付与されたアデルの口は、その後、知的な発語において、(えがかれなかった男性同僚へのフェラチオにおいて)、このカフェでのエマのゆびへのフェチ舐めにおいて、流産しつづける。「顔」が唯物的に長くなる数々。その痛ましさに、人間的に同調するほかない。
もう髪にアデルの愛の徴候である「青」をつけてさえいなかったエマが去って、そのカフェが閑散として一般客がもう一組ほどいたのみとわかる。それから波動をくりかえすように、画面がふたたび多数性を組織する。アデルの職場での子どもたちの遊戯発表会。さらには画家として成功したエマの画廊個展。そこに招待されたアデルは居心地のわるさにつらぬかれる。そこからの辞去のながれが作品の終景となる。性愛のもんだいが階級のもんだいに変化したのか、それともそのふたつがもともとおなじなのかは、観客自身が判断しなければならないだろう。社会学をつかってではないだろう。自分自身(の生)をつかって判断するのだ。
スピルバーグ審査委員長の2013年カンヌ映画祭で、パルムドールが前代未聞の監督ケシシュと、エマ役レア・セドゥと、アデル役アデル・エグザルコプロス三人に同時にあたえられたお墨付きの傑作。スピルバーグは「無理のないストーリーテリング」(実際、性愛シーンもあって、三時間の長丁場がまったく飽きない)を讃えたが、褒めるべきは別にある。「肉の可変性」の徴候が身体では口にひらけていること――その着眼の徹底によって反射的に観客の身体を抒情にみちびく啓蒙性がこの傑作の正体だったのではないか。むろんレスビアンと人間とには弁別がないという、この映画の付帯的な主題も見事に展開されていた。
4月12日、ディノスシネマズ札幌にて院生たちと鑑賞