ふたたび横組縦組について
【ふたたび横組縦組について】
CDでの歌詞表記は日本語音楽にしても横組が主流だ。このことはLP時代からもかわらない。CD、LPどちらにとっても歌詞カードの判型が正方形なのだから、横位置の紙に縦組、縦位置の紙に横組といった、一行字数の多さを回避する効率性判断もそこでは成立しない。ロック全盛時代、洋楽のアルファベット歌詞がとうぜん横組だったとして、その趨勢が日本語歌詞の横組表記に反映したのだろうか。そうではないはずだ。横組にはたぶん情報提供→享受の経路に身体工学的な親しみやすさがあるとはやくから捉えられていたのだろう。権威化ではなく親密化を旨とするものでは横組が選択されるのだ。
くりかえすが横組は身体に親和的だ。じっさいノートに文字を書くとき文字を縦に書くのと、横に書くのとではスピードや疲労感がちがう。横書のほうがいつも円滑なのだ。漢字を使用する中国人でも留学生をみるといまは横書が主流になっているし、中国書籍も古典いがいの実利書や評論などは横組表記だ。眼球の運動も、鉛直方向の移動よりも、水平方向の移動のほうがどんな生物でも重要視されている。天敵が上からではなく横から来るという原始期からの経験の蓄積だろうか。しかも一行を読みつつ前後の数行がみえるという俯瞰視角にとっても、隣接可読範囲が横組のほうがおおきい気がする。よって探索もより容易だ。実利性をたっとぶ中国人なら、「より速い」「より探しやすい」横組/横書に親和してゆくのはとうぜんだろう。
横組のほうが許容性もいろいろある。たとえば字のちいささをゆるすのも横組だし、活字形としてうつくしい明朝体ではなく、記号還元性のたかいゴシック体が代用されても、横組ならそれが「意味伝達」を主眼とした字組である以上、遜色がない。字並びに可変的に付帯要素を拡大導入できるのも横組だと捉えるべきで(とうぜん最も単純なものに欧文や数式、化学式、楽譜などがある――この延長線上に写真や図版までもがあるのではないか)、だから横長のパソコン画面では横組がますます隆盛になってゆく。CDの歌詞表記も横組であってこそ歌唱画像の横組テロップと一致する。コミックのネームやバルーン内文字の縦組だけが奇異だ。これは書籍の右開き文化が現在も定着しているためだが、百年後くらいにはコミックも左開きになって横組が主流になっているのではないか。出版資本がコミックを速く読ませよう(消費させよう)とするなら、とうぜんそのように変化するだろう。
縦組・縦書の利点は以上の見解の「逆をとった位置」に顕れる。つまり遅読をうながし、権威化を強調したいときにこそ縦組がえらばれるのだ。先述のように、鉛直方向の眼球移動の煩わしさ、あるいは視野の狭窄性=他行への目移りのすくなさが縦組に保証されているものだ。この結果、縦組の本では、版面による視線の折り返し反復があったとしても、文字が記載されてゆくながれが、量感性ではなく線型性のほうへ誘導される。しかもそれを「ゆっくり読ます」使嗾もなされてゆく。むろん集中力はこの形式のほうに発揮される。
詩集の装幀に縦組がほとんどなのはこの点による。しかも詩作者は別途にゆっくり読ませる方策を個別的にもっている。ひとつは意味了解の難度をたかめることで、これは構文の複雑さ、飛躍、欠落、脱法則化のほか、つづられている「意味」が原理的だったり初発的だったりすることにもよるし、たたみかけから、いわば静かで目立たない脈打ちへとリズムを沈潜させることでも可能だ。詩は音楽状態を複合した発語だから遅速どちらがえらばれてもいいのだが、速いリズムの詩が読者の身体を覚醒させるのにたいし、透明なリズムのなかから発語がしずかにあふれてくる詩では読者の身体をあまく消去させる効能がある。さらには日本語の特質として漢字・かなまじりの表記があって、漢字の速読性にたいしひらがなの遅読性という二分もある。これらが綜合されて、たとえば詩の冒頭一行の読解速度が、詩作者側から付与される。こうした形成性がないとかんじられる詩が、ことばのひろがりにゆたかなすきまのない詩どうよう、冒頭一行で読む価値なしと、詩読の熟練者に捨てられるのではないか。
ワードの縦組レイアウトをつかって、詩を縦書で書くひとはほとんどいないとおもう。縦組は字数が多いとパソコン画面で上部もしくは下部が切れて不便だし、しかも隣接領域が俯瞰把握しにくく、たとえば助詞をはじめとした語かぶり防止のための探索にも適さない。だから横書的速成性に駆られるような詩作を一旦おこない(ところがそこで瞬間発想や類推を過信すると痛い目に遭う)、ワード横組で詩作を完了したあとに、レイアウトを縦組に換えて、詩作ノートのストックなどがなされているのではないだろうか。下手をすると、横書で書いた詩を縦組としておおやけにするのが詩集出版の意義とまでいえそうだ。
ところでいままでの記述はすべて効率的な観点からのもので、詩の縦組にかんする霊的な本質には達していない。諸家のいうように、縦書の本質は「重力」の不如意・宿命・尊厳を書記行為にからませて、自身の記載に畏怖を反射させることなのではないか。書字は組版に転化する。横組の水平進展がコミュニケーションを指向するとするなら、縦組の一行ごとの鉛直進展は単位的な断絶を指向し、文字の物質化をより顕わにする。この機能を微視状態で拡大させるのが「書かれたもの」としての詩なのだ。だからこそそれは静かなざわめきにみちる。あるいは日常語を孤立させつつ音韻でつなぎ、その点滅からありえない純粋言語をたちあげてゆく「翻訳」行為が詩だとすると、そのきしみと明瞭になじむのが、じつは不自由さをよりかこっている縦組なのだ。
改行詩の字数揃い=方形レイアウトは、字の分布域をまず知覚させる。それは図像性を翻訳する。あるいは尻揃えで各行が石筍状に上へとのびてゆく改行レイアウトは反重力を翻訳する。どちらも本質的ではないとおもう。それらは改行が第一義的には息だという詩文の単純法則に反していて人工的にしか捉えられない。本質的なものは字数のそろわない改行詩ではないか。そこでは詩の一行が他行の介在によって不安定に存立をゆらす魅惑が、黙読の進行のなかから林立状態で真に顕れる。林立は木木の同一性を保証しない。それでこそ人格ではなく、意味形成や修辞の多声性が、行の加算に代置されてゆく。字数の揃わない行分け詩は不明瞭な霊気をたちあげる植物の多彩な並立性を翻訳する。作者がそのなかできえる。このことが「再帰性の反射」を経由して、詩を読む読者を「あまく消す」効能を発揮するのではないか。これが個人的なこのみのもんだいなのか日本語で書かれる詩の普遍なのかはこんご検証されるべきだろう。
いずれにせよ、横組・横書が推奨されるネット時代の今日にあって、縦組が志向される詩は反時代的な愚挙、必要ない無駄と功利的には捉えられる。ところがSNSなどではかなり多くの形式的に半端な――つまり横組の詩篇が出現している。それはSNSが自分をかたる媒体として広範に認知されている以上とうぜんのことだが、その場所を詩のユートピア空間にするにはどうしたらいいか。書かれている横組を縦組へと心眼に変換することだ、とこれまでの文脈では捉えられるかもしれない。ところが唐突な見解だが、もんだいはべつのところにある。縦組を指向する詩作と、横組を指向するSNS空間が化合すれば、まずは横組に特化して魅力を発する詩篇が登場してくるはずなのだ。それでいいとおもう。反時代性を標榜した自分だけが、適当な時期の死の到来により、あたらしい趨勢から退場すればよいまでのことだ。