北区
【北区】
土地になじむということは、交通手段をつかった点から点への移動ではなく、徒歩による線型の移動をして「面」にふれる自分のからだをやさしくおぼえることだとおもう。札幌に行った初年度は流謫の気分がつよく出不精というかひきこもりになり、北大、札幌駅、大通、狸小路、すすきの界隈と、あるくところもかぎられていた。「点」のあいだを用事しだいで移るのみ、札幌市内の空間連続性などほぼ手中にしない凄惨な日々だったわけだ。世界は分断されていた。
ところが札幌も三年目となると、空間の連続性が身体へ自然にひらけてくる。契機となったのが北大のだだっ広いキャンパスかもしれない。北大では一年次の教養過程として二年次へ進級するため32単位をとらなければならない全学部学生対象の「全学授業」というものがあり、これが俗にいうE棟で開講される。ふだんのぼくの根城・文学部棟からはあるいてなんと十五分もの距離にあるが、このE棟への歩行が健康維持のためだけでなく愉しみにもなる。紅葉時期の景観が圧巻なのはいうまでもないが、いまの季節だと徐々に春の兆しがあらわれ、それがやがて一挙に吹きだす交響曲的な展開となってゆく。きのう歩いたところではまだ落葉しきったあとの銀杏に、葉の芽がわずかに吹いてきたていどだったけれども。
落葉といえば、ひと冬の積雪が閉じ込めていた落葉が、雪がとけて解放され、日に乾いて、いまはつむじ風のなかなどですさまじく虚無的な音を掻き立てている。太宰治の戯曲題名のように「春の枯葉」というものはある。
札幌市北区は区内におおきな北大の専有地があり、かつては北区のすすきのとよばれた小繁華街・北24条があり、北大生の下宿に供されるコーポなどが櫛比している。ところが飲み会で北24条に行くときは、ほぼ地下鉄をつかうので、北区の空間的な連続性をつかむことがなかった。それでも院ゼミのうちあげに院生の下宿部屋で鍋パーティがあったときはふりしきる雪のなかをあるき、北大から北20条あたりまでの雪中距離をつかんだし、きのうなどは非常勤出講先=藤女子大(副務)へ行くときに、文学部棟→E棟→藤女子という経路を意図的に徒歩で確認し、飲食店分布などを記憶してみたりした。
そういえば札幌は古書店が壊滅的だとおもってきた(すすきのには閉店した古書店がシャッター状態でそのままのこっているし、かつては品揃えを誇った北大正門そばの南山堂などは本が入れ替わっている痕跡のほぼない不活性店だ)。ところが北12条、北大敷地の対面位置にある弘南堂(去年、木村哲也くんのみちびきで店主と知己になった)などは意のこもった品揃えをしていて、じつはこのあいだ井坂洋子『朝礼』第二刷をなんと千円でネット注文してしまった。藤女子大そばの北18条には北天堂という古書店もあり、ここは山岳本の所蔵が見事だが、寺山修司の本のならびも圧巻だったりする。
ぼくが東京23区内の空間連続性にあかるかったのは、学生時代より街から街へと古書店を徒歩で行脚していたためだ。いわば教養を古書購入で形成したたぐいだが、街にひそんでいる古書店のたたずまいそのものも好きなのだった。古書店は写真店とならぶ街の記憶のアルコーブであって、福岡や高知などでもそうだが、地方都市の古本屋は収蔵が朴訥なぶんだけ、入るとあたらしい本がなくて数十年前にタイムスリップしたような「うれしさ」をおぼえる。不活性店にはちがいないが、かつて読書人がいた街を保証するそうした店はかけがえがない。これらがブックオフなどに駆逐されてしまうのは、地場の飲食店がファミレスやファストフードのチェーンに置き換えられるのと同様、悲哀をともなう。
それでもネットで北区の古書店地図をみると、さほどそうした店が散在しているわけでもなかった。期待はずれといえば、中島みゆきを輩出した藤女子も街なかにある小ぶりきわまる大学で(北大の万分の一ていどしか敷地がないのではないか)、イメージしたような、藤のしだれ咲く幻惑的なキャンパスではないようだ(キャンパス内にいまは冬枝だけが這っているちいさな藤棚を視認しただけ)。
小ぶりなものが整然とした状態で潜勢している退屈なひろがりが北区なのかもしれない。じっさい授業で藤の文学部女子二年~四年生に接してみると、かわいいのだが、なにか存在感が小ぶりというかんじもする。それでも昨日は講師控室でいっしょになった北大の同僚から意外なことを聞く。十数年前の藤女子大生は「無頓着」で、ジャージ姿で教室にいる学生が多かった由。「女子版バンカラですね」と応ずると、「そのとおりです。いまの学生はファッションにおカネをつかい、本におカネをつかわないことがそれでよくわかります」と笑っていた。
札幌は自転車でつっきるべき街なのかもしれない。そのために雪のない季節と、平地の巨大なひろがりが保証されている。このあいだ中国人院生と狸小路そばのディノスシネマズで『アディ、ブルーは熱い色』を観たとき、ほぼ全員(みな北区在住)が自転車で映画館にやってきて、それが壮観だった。さすがに中国人と自転車の親和性はたかく、来日早々、彼らは闊達な自転車利用者になっている。ぼくだって自転車を利用すれば自宅から北大まで20分、E棟までは25分、藤女子までなら30分ていどだとおもうが、女房が「運動神経がわるいんだからやめておきなさい」と、自転車の購入をゆるしてくれない。