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諧和と瀰漫 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

諧和と瀰漫のページです。

諧和と瀰漫

 
 
【諧和と瀰漫】


本日の院生授業のために、岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』を未明からDVDで再見していた。2001年、新作としてこの作品をレビューしたとき(のち『日本映画の21世紀がはじまる』に所収)には、たしかそのすばらしさを説明するのに窮した記憶がある。それで
① サイトのスレッドへと打たれる文字(映画画面自体に刻々のテロップとしてその生成過程が表現される)、キーボードの打音と、小林武史作曲の「リリイ・シュシュ音楽」の複合が、観客の身体にもたらす同調性、
② 地方(舞台は足利)の逼塞(たとえば援交の沈潜)とひとの孤立といった社会学的な知見、
③ 「14歳」を中心にしてえがかれる身体の痛ましさ(作品自体が『エヴァ』→酒鬼薔薇事件→〔それとこの作品のTV画面にモデル的に再現される〕西鉄バスのハイジャック事件の系譜を意識している)、
④ エドワード・ヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』との異同、
などを手掛かりに、作品を強引に「分析」したことがある。

いま観なおすと、むしろ説明=分析不可能性の概念をつかって、この作品をたたえるべきだったとおもう。まず篠田昇のショットが単位加算的でないので「憶えられない」。それらは手持ちで浮遊し、風景や構図の瞬間的きらめきや人物のアフォーダンス的な断面を、素早さをもって織り合わせてゆく。ちりばめられ、イメージにかさなってゆく生成的な「厚みのうすさ」。ショット単位そのものはむろん実写映画だから分離できるのだが、そのショットが狙っているのは説明のむずかしい「ニュアンス」のほうへ傾斜している。同時に編集はショットの継ぎ目を溶解させ、いわば音楽状態で「ながれ」を組織してゆく。MTV出身の岩井監督の面目躍如たる映画組成だ。

もんだいになっているのはショットをとけあわせるときに生じてくる「諧和」だろう。刻々の「部分」が代わるがわる「全体」を(不可能裡に)指向するとき、相互の部分性、その差異をなだめ、馴致させることで、観客の感覚に「分析しがたいもの」がむかってくる。これは多色のひかりがまざることで最終的に白光が成立するまえの、自己展開の微分性のようなものだ。わるい形容でいえば蠅の羽音にちかい。部分に他の部分からの「諧和」の切片が覗き、それこそが部分的単位のなかに飽和することで、ある瞬間がべつの瞬間からの痕跡にすりかわって、部分の自体性を軽減させてゆく。

これは古典時代からの映画の加算的な組成学に適用できる属性ではなく、音楽のみに適用できるものだ。「ひかりを中心とした原理」の伝播媒質、作品内でも自己言及的に「エーテル」とよばれているものは、いまのべたこととまさにリンクする。「諧和」は組成じたいにあふれるものを高次元化させる。的中不能性こそが瀰漫するのだ。したがって『リリイ・シュシュのすべて』で瀰漫しているものは意味ではない。むしろ瀰漫じたいが瀰漫している、ということになる。

映画史的には「10年の単位」は有効な設定だろうとおもう。ディケイドを代表する一本が「なぜか」設定できるのだ。それは、作品の出来のよさというよりも、他の作品群の趨勢を傾向づける作用性、偏差を計測させる原基性からこそ、一国の映画内に確定される。80年代なら相米慎二監督『ションベン・ライダー』(83)で、これは画面内のブラウン運動的な逸脱が物語=脚本を凌駕することの意義をしるしづけた傑作だった。90年代なら北野武監督『ソナチネ』(94)だろう。こちらはカットの断面に俳優身体の生々しさが予感されることで、映画が残酷と身体的孤立を掘り当てる真理を構築した。

その意味でいうと『リリイ・シュシュのすべて』は00年代の画期となった作品で、そこでは「瀰漫」状態を実質づける「諧和」によって、分析不能性そのものの快楽に観客をみちびく身体作用的な映画が確立された。

もんだいはディケイドのなかの最初の1年目(2001年)に作品が登場してしまったということではないか(83年の『ションベン・ライダー』、94年の『ソナチネ』は、出現までに予感的な助走期間が前置されていて、そのことで多くの並走作品をみずからにみちびいた)。『リリイ・シュシュのすべて』はこの点でいえば孤立的な影響源に「なってしまった」。カメラマン篠田昇は、この作品で完成させた浮遊する手持ち映像(それはデジタル編集される)をジャンプボードにして、やがて『世界の中心で、愛をさけぶ』の画像変転をつくりあげ、それが東宝ゼロ年代の「感動路線」「興収ひとりかぶり路線」のいしずえとなった。むろんその萌芽は岩井と篠田のコラボレーション『Love Letter』(95)にあった。

〔※余談だが、10年代日本映画を代表する作品は昨日のフェイスブックで暗示的にしるした熊切和嘉監督『私の男』(本年六月公開)だろう。そこでは地方-運命-性-残酷-衰退が、部分的には古典回帰的な組成でしるしづけられ、「震災後」の映画のありかたが過去作との交点のなかに模索されている。北海道・紋別の流氷接岸期に二階堂ふみと藤竜也のあいだで繰り広げられる氷上の「アクション」は、どこが現実でどこが合成要素か判別できないCGが活用されていて、しかも極寒の痛みをつたえる。これこそが「10年代的なもの」だ〕

このメモは個別作品の分析ではない。いいたいのは、「瀰漫」をみちびかれた組成に「諧和」のうごく作品空間では、内部/外部の弁別まで無効になるということだ。説明=分析不能性は個々の時片に連続的にきらめく。ひかりは聴かれるものとなり、音も視えるものとなる。映される身体は輪郭でありながら容積であり、思考であり、空間の余剰でもある。たとえば美少女(『リリイ・シュシュのすべて』でいえば伊藤歩、蒼井優)がその対象性を、要約いがいには記述させない無力さを、いわば幸福としてあたえる表現の特権。このことがあらゆる表現に内在されるべき「音楽の状態」を覚醒させる。

今期は「音楽性」にまつわる講義が偶然そろってしまった。学部授業の「現代短歌」。全学授業の「日本の歌詞」。藤女子大での「詩」。たとえば短歌を意味要約して鑑賞するほど不毛なアプローチはない。短歌はその形式のなかに音素の瀰漫をたたえ、語句連関が相互を諧和させている。だからそれが記憶と暗誦にあたいし、「歌」の要件を獲得するのだ。ところが音韻的な魅惑はけっして分析できない。母音と子音の分布分析は「あ行音」の音のあかるさ、k音のするどさなどをいうが、母音子音に自体性がないというのがぼくのかんがえだ。むしろそれは音分布上の隣接領域から自体性をうばわれた「時片の穴」としてあり、そこに瀰漫そのものが瀰漫する。だから音にかんする知覚は必然的に数十分の一秒ていど遅延せざるをえない。それはたとえばジャズなどを聴けばわかることだ。

このことゆえに、短歌の音素が分析不能だとすると、音楽をつくりなす諸物質や諸要件もまた分析ができない。たとえば声や音色を表現する語彙は、みな的中性がひくく、暗喩的なアプローチが代位されてゆくしかない。たとえばニール・ヤング「アラバマ」のサビ部分は、「Am7→C→D」のコード展開をもち、それが「F→G7→Em7」のメインテーマに復帰するのだが、一瞬の間隙をはさんでDからFにコードが変化するときの、不規則さゆえの抒情性というべきものは、徹底的に聴覚上の体験であって、それを意味還元することができない。音楽再現については採譜がになうことができるが、音色や和声、さらにはそれらを統御する上位次元は、あくまでも言語性の外側に瀰漫して、しかもそれが「内側」をも形成して、こうした空間逸脱性が分析を寄せつけないのだ。

はなしをもどすと、映画『リリイ・シュシュのすべて』はそうした細部によってこそ織り合わされている。多くきんいろでとらえられる校舎内のうつくしさは、校舎そのものの描写ではなく、「内部の内部」が諧和であふれていること「しか」告げていない。

詩においても、意味の逃走線を攪乱し、おおいつくす「瀰漫」面のようなものがあって、それこそが音素の結合運動でできていると微視される。この感覚のないものは詩ではないとすらいうべきかもしれない。ことばの「それ自体」あるいは他語との照合関係から意味を計測するのが暗喩にたいするアプローチだとすると、瀰漫するものがなおも瀰漫をあふれだしてくるときの運動性を、からだの分光器にかけて隣接のズレとして受けとるのが換喩にたいするアプローチだろう。ということでいうと、『リリイ・シュシュのすべて』は短歌、音楽、詩と、換喩性においてつながる。それらはいずれも「部分」の時間軸上の斡旋という、換喩の第一段階ではなく、その上位段階――部分に全体というべきものがあふれて、しかもそれが刻々のズレを起こして把捉できない、という幸福な不能状態を――あらわしている。とりあえずそれがこのメモの結論だ。

そういえば観なおして気づいたが、『リリイ・シュシュのすべて』で市原隼人の母親役をフジテレビのアナウンサーの阿部知代さんが演じていた。かつて在籍した「かいぶつ句会」のお仲間。懐かしかった。「アナウンサー演技」ではなく画面に人間として実在しているすがたに脱帽した。
 
 

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2014年04月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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