何度めかのメモ
【何度めかのメモ】
詩集単位をかんがえたばあい、形式と方法論をたがいにひびきあわせながら、統一的な連作として個々の詩篇がしるされてゆくのがぼくのこのみだ。けっして一詩集に一方法論という意気軒昂を前面化させるのではない。ほぼ日録的に詩作をおこなうとするなら、その「日々」を連作性のかこいのなかに充電させ、結果的に自分のからだやかんがえそのものを詩の形式にまでかえてゆく、そうしたひそかなよろこびこそが詩作動機になるということだ。身体の創造。このとき統一感はからだへ救済をみちびくたいせつな基準となる。からだを破片化させては生きられない。
一詩集をつくりあげたと自覚したあとの空白感、減退感は、「日々そのものの連作化」が破れてうまれてくる。からだが踏み迷いと、探りの空転にそめられてゆくこの体感は一般には不安とよばれるだろう。ただしほんとうの創造性は、停滞期を脱して連作にふたたび帰ってゆく充実にではなく、停滞期のなかにある何かの潜勢や萌芽のほうにあたえられる。書いていないことがひとを空白のひろがりに直面させる。その肌には一種の試練がひかりのようにながれだす。これらのことのなかに、すでに自分の「未知」が「連作」されていると捉えなおすべきなのだ。