何度めかのメモ2
【何度めかのメモ2】
枯れ枝が二本あり、右手左手にそれぞれをもっている状態が想像の端緒だろう。想像が創造にかわるのは、それらを地面に置いた瞬間からだ。交叉させて置くか並べて置くか。前者が暗喩をなし後者が換喩をなす。その後者のばあいについて――
二本の枝は並行状態にあるものの形象が微妙にずれている。隣接はふたつのちかさと同時にふたつの離れをそうしてあらわすのだ。しかもそこには自分の右手左手という、もともとの「身体庫」を分離させた直前が横たわっていて、地面にある二本の枝は、自分の分散であり時間の置換であり、部分が全体をなさないことのあられのなさをもしめしている。
二は最小限の林立でありながら「けっして林とは似ない」ものだ。形象や場所を厳密化してゆくと、類似の不可能がうまれ、その不可能が潜勢という貯蔵庫に、並立性を収蔵しかえる。このことが枯れ枝を置いた身体法則にまで再適用されて、「換喩のわたし」が遡及する。
枯れ枝をならべ地面に置いたひとびとのおこないを、たどってあるくことはこころ躍る。骨と邂逅できるためだ。けれども枯れ枝を右手左手それぞれにもち、そのため幽霊になっているひとびととすれちがうほうが、さらに壊滅と再規定のあしたを予感させる。枯れ枝がほんのすこし濡れていて、それがどこからの露かをかんがえることすら、ひとつの創造だった。