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開花予想 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

開花予想のページです。

開花予想

 
 
【開花予想】


家のそば、市電通り沿いの白木蓮の庭木が花をつけた。椿も蝋梅も本州北限だから、北海道では木の花の春が木蓮から幕をあける。花だけではない。葉の到来も歓迎される。摂氏20度台の気温も記録するようになって、冬枯れだった樹木が一挙に芽吹きをむかえた。キャンパスで目立つのは、あかい葉の芽をふきだした春紅葉。それから柳の葉も芽吹いて、やわらかくゆれだした。柳は葉をつけると枝がやわらかく、しなる。水分がとおるのだろう。さくらはといえばこれも粒状深紅の花芽が枝にみちて、みあげると色とかたちをたがえた銀河のようだ。くうきが錯誤の気配をだして好色にゆるんでいる。

今期は非常勤先もあわせ、授業が2コマふえた。おまけにそれらが週日に分散している。出席すべき委員会などがあると今週のように連日、登校をしいられる羽目となり、疲れる。なによりも連続した自由日のないことが読書量の減少をもたらす。あわてて自分にノルマの読書をしいると、睡眠不足となり、あたまの冴えた時間もすくなくなってしまう。循環がわるい。

いまはつぎの連作のために、共通するスタイルかひとつの概念かを模索中なのだが、ここ半年、行分け詩をあまり書いておらず、改行の呼吸がもどってこない。改行詩を書くならば呼吸に乗ってしまうのではなく、呻吟のうちに呼吸の折り返しを各行で加工的につくれ、ということかもしれない。なにかが憑依したように発想が展開していった詩作の洪水期など、とうにすぎているのだ。

ともあれ自分の改行神経がどんな形態をしていたかを確認するため、『頬杖のつきかた』を先夜とりだしてみた。三年ぶりくらいかもしれない。長篇詩「春ノ永遠」にとりくんでみたが、すっかり内容やそこにあったはずの身体性を忘れている。引用元はすぐに見当がつくのだから、評論家としての記憶力は減退していないのだが、自分についての記憶が薄弱稀薄なのだ。だから新鮮、逆にいうと馴染みのうすさに眼のなかが反りかえってしまう。読解が容易な詩作だという自己イメージだけのこっていたのだが、再読時の印象は「そうではない」。

自己イメージのいい加減さは措くとして、自分の書いた詩なのに自作のようにおもえない、というのは良いことだろう。それは書いたときすでに他者性が介在していたあかしとなるからだ。馴染みだけになる詩句の重畳が窒息をみちびくのなら、その窒息をくつがえしたのも、そのときの擬制的な自己愛でしかなかったはずだ。それでは他人につながらない。もんだいは難度の調整。読み返したときに自分自身まで読解にくるしむなら、書いたすべてが、この世との接続を欠いた妄想、ということになってしまう。

書いたときの日常些事が手にとるように蘇ってくるというような書き方をしていない以上、自分の作が自分のなかにやさしく再現できない。冴えているだとか、ながれがゆたかだとか、おどろきが多いだとか、語彙がひろがっているだとか、リズムが調整されているだとか、そういう判断ならむろん可能なのだが、どうも自分をふりかえることそのものが、こころもとないし、へんに緊張するのだ。ほかの詩作者は自作をどう振り返っているのだろう。よく朗読イベントなどで、自分の過去の詩篇を完全に記憶して、「暗誦」と「朗誦」が一致しているひとに接するとおどろいてしまう。むしろ自分とは「忘れるためにある」のではないか。

自分にかかわる記憶が散漫なのは、幸福なのか不幸なのか。ぼくは自分の著作にかぎらず、自分のことをよく忘れてしまう。女房など、ぼくの過去の代弁者として存在しているといっていいかもしれない。

小島きみ子さんからFBメールがきて、拙著『換喩詩学』がようやくお手もとにとどいたようだ。きょうにはさらに多くのかたから到着の報が舞いこむだろう。これも芽吹きか。アマゾンをみると書影掲載はまだだが、予約注文が開始された。五月二日発売予定、とある。なんと札幌のさくらの開花予想とおなじだった。あ、奥付の発行日付は変更なしで大丈夫だろうか。

 
 

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2014年04月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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