ひだ
【ひだ】
日々をゆかいにすごせばあれらひだまりもひだるまになる。ひだがらんまん。
本日四講、現代短歌講義の配布プリントのため、斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』から歌を拾っていま転記打ちしていたら、一首できた。記録しておきます。(札幌は連日猛暑だった。)
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昨日は道新のサブカルコラムの原稿作成ののち、貞久秀紀さんからご恵贈いただいたばかりの摩訶不思議な序数文集『雲の行方』を読んでいた。以下、傍点省略で二文ぬく。
三七一〔…〕「今あそこにすでに浮いているちぎれ雲が、今あそこに現れてくる」
三七六 ある文を読みとる体験とそこに書かれてある文が同じあり方をしていること。
自明性が脱自明性となるような、認識=想起の迂回、再帰、時間の微差。貞久さんの透明な文章はこの点をしずかにせりあげてゆく。結果、三七一では存在と生成がひとしいものになり、三七六では写生文の明示性が言及不能のフレームをひそめていることをあかす。
貞久『雲の行方』はスピノザ『エチカ』の認識論への転位のようにもみえる。同時に俳書の奥行もたたえる。貞久さんが肉薄した「貞久語による」俳句なら以下だ。
二五五 我去れば鶏頭も去りゆきにけり 松本たかし
二六八 なにも居ぬごときが時の金魚玉 阿波野青畝
それにしても序数のついている書物内空間がいつも好きだ。つぎの連作を、序数詩篇集にしようかなとおもいはじめる。けれど西脇『旅人かへらず』を意識するのが畏れ多い。
貞久さんのまえに読了したのは、これまた恵贈本の草森紳一『その先は永代橋』だった。なかに吐血体験のくだりがあって、凄絶だが、そこに意識のながれと身体様相がアフォーダンスのように記述されていて、「凄惨ゆえに」わらいがとまらなかった。「吐血しても読んでる。草の、森のひと」