奥原浩志・黒四角
【奥原浩志監督・脚本・編集『黒四角』】
現世においてなぜか惹かれあう男女が、じつは過去世において恋を成就できなかった仲だった――そのように、まぎれもなく苦手な「ファンタジー」にストーリーでは範疇づけされる映画なのに、奥原浩志監督の『黒四角』に魅せられてしまうのはなぜだろう。じっさいこの手のストーリーは90年代の香港映画や韓国映画、それにゼロ年代日本の東宝作品で食傷するほど観てきた。それらはカメラワークと映像の質に特徴がある。ファンタジーというジャンル内にあることを自己保証すべく、画質がやわらかいソフトフォーカスで統一され、しかも抒情性の分与を、ゆれによって情動化する手持ちカメラで多くうけもってきたのだった。
ところが奥原『黒四角』はフィックス中心で、画面にみなぎる現在/過去の中国の、ひきしまった冬の空気をなんらの粉飾もなしにつたえ、そのなかで俳優たちの顔やすがたを、そのまま物質性の域におさめている。情感による映画的な視覚の拡張ではなく、明視性の禁欲的な定着が本作の骨子なのだ。だがそれではファンタジーとは離反するリアリズムを身におびることになる。それを救っているのがいわば「明視性そのものが脱-明視性によって形成させている」というメタ次元の哲学だろう。その点にこそ惹かれたのだった。
作品題名にもあり、主人公の仮称ともなる「黒四角」、その形而上学的な作用がおおきい。経緯を説明する。北京の芸術家村で売れない絵を描いているチャオピンは、日本人の妻ハナに同道し、あたらしくできた画廊へ、新進画家の個展を見にゆく。そこでただ画布全体を黒く塗りつぶしただけのようにみえる一枚の絵画が売却済で高値がついているのに衝撃をうける。それは前衛にありがちな反芸術絵画ともとれる。チャオピンは自分の自画像を黒く塗りつぶしてみて、「(自己と表象の)抹消」の意味を探りもする。
翌朝、起きぬけの窓から空をみやり、異変に気づく。なにもない中空のたかみを黒い四角がながれるように滑空しているのだ。黒四角の侵入により、異変をかたどっている空は、木立越しにみえたり、胡同の屋根のうえにあったりして、それらは移動ショットでとらえられる。カメラ自体の移動の運動よりも、黒四角の移動のほうがわずかに速い。あるいはそれは縦構図の奥行をゆるやかにうごいてもいる。それらのショットはサンガツの予感的な音楽に下支えされて、むしろ静謐のなかの変調と意識されるのだ。
明視性が脱-明視性を形成している鈍い衝撃がうまれる。なぜなら、その黒四角の実際の大きさを測りだす相対的な尺度が画面のすべてから奪われているために、モノ自体の指標が「黒四角」には欠落しているとおもわれるからだ。つまり空にはなにもない。またCGによって黒く刳り貫かれたその移動する「四角」も、その細部の質感をもたないために、細部がどれくらいの距離を介在してちいさくみえているか、そうした位置にかかわる手がかりをあたえないまま、空をながれている。「視えているのに視えていないこと」がそうして画面を予感化する。
黒四角はやがて草原に縦位置で垂直に立っているすがたで発見される。追ってきたチャオピンの背丈の倍ほどの高さだった。不審がるチャオピンは周囲から黒四角の探索をするが(それには厚みがない)、美術的=画面構成的にはディペイズマンの連続ととらえられる展開となる。そのなかから記憶と、衣服という「個別性」にかかわる属性を剥奪された、つまりははだかで「むきだし」の男が、非現実に現れてくる。その「だれでもない男」がやがて「黒四角」とチャオピンから偶発的に命名され、それがチャオピンの妹リーホワと淡い恋に落ちる。作品はふたりに、過去世からの紐帯がむすばれていると暗示をくりかえす。
途中、リーホワが執筆している小説の着想が話題となる。こんなはなしだ――禁じられているのに異部族の人間に恋をした者はやがてそのからだが透明化して実在性をうしなうことになる。それでも時空がゆらめいて、その者のすがたがわずかな間だけ、風景の片隅にみえることがある。彼らとは現世のひとは接触したり、ことばを交わしたりができない。過去に異部族の者に恋着した不幸な者とただ認識するだけだ。
中泉英雄(彼はデビュー作『PAIN』の時点からするとずいぶん精悍な顔つきになり、しかも中国映画への出演を経験して北京語がすごく流暢だ)によってえんじられる黒四角は当初、チャオピンから「宇宙人」とわらわれるほどの異部族性を刻印されている。リーホワは彼と恋に落ちてしまうことの危なさを本能的に察知する。それで「わたしたち、もう会ってはいけない」とじかに告げるが、そう告げることがじつは恋情の定着を意味する。薄明の時間、異変の気配に、窓際に立ち階下の道路を眺めた彼女は「黒四角」が佇んでいるのを知り、動顛する。そのとき彼女は自分の変異をたしかめずにはいられず、全身を部屋内の姿見に写す。自身の小説の構想どおり、リーホワのからだの半透明化がはじまっていた。
このこともまた「ファンタジー」のなかでの画像的な審級上昇の定番だが、問題はリーホワが鏡像を再帰的にみやる画面に複雑な審級分化がなされている点だろう。ピントは彼女の鏡像にあわされ、鏡面の周囲よりも濃度がうすくなっている。それはいい。ところが鏡像を視る彼女の後姿まで画面手前に入れ込まれ、それも半透明なのだが、ピントが外れていることでさらにその後姿が鏡像よりも朦朧感をたかめているのだった。図式はこうなる――「朦朧透明な自己像を見やる自分自身は、さらに朦朧透明だ」。ここで脱-明視性が諸審級に分与されつつ、その奥行が自分側に遡行するにつれ暗視性をたかめるという認識がうまれる。通常、こうした「哲学」は、共感を担保するために抒情性によって観客の身体を定位する「ファンタジー」ではありえないことだ。
これだけの指摘をすれば、『黒四角』のファンタジーにおける異質性の強調には充分だろう。ただし明視性と脱-明視性のからまった世界に、どのような視線を投げかければいいか、その処方箋がしめされていることは確認しておくべきだろう。「人類の進化」を「実験」するために無言パフォーマンスをつらぬいていた芸術家村の詩人=芸人が、禁をやぶり演技的な朗誦パフォーマンスをおこなうのを観たあと、チャオピン、ハナとはなれ、リーホワと黒四角だけが喫茶店で語りあっている。ハナがいう。むかしは珈琲が呑めなかった。こんな苦いものをこのむ西洋人は中国人とはおよそ味覚の土台がちがうのだとおもっていたが、ある日を境にこのむようになった――。
珈琲は味覚のみの反応によって口腔を通過するのではない。それは覚醒化と沈着化のまざりあった緩衝地帯、あらわれとしては液体である「黒い穴」を、味覚や嗅覚とともに体内に摂取することだから、珈琲の味もそのものから離れ、みずからの精神とこそわたりあうといえるのではないか。このことは作品の終盤、日中戦争下の僻村に舞台の時空が跳んで、チャオピンの前身と、黒四角の前身(彼は中国人の母をもった日本兵で、医師を目指していた前歴がある)が煙草を分与するときにも看取される。
体験の「精神化」は「似顔絵」描きに結実する。現在の北京でも、戦時下の僻村でも、ほんとうは画家志望だった黒四角は、リーホワの顔を描くことで愛のための営為を代替するのだった。現実の顔にたいし素描にあらわれるのは、対象の縮減、物量的な現実性を線に翻訳還元すること、そうしてしいられる矮小化を精神化によって逆転することなどだろう。慎ましい奥原演出は実際に黒四角が描いた顔の絵をごくわずかしかみせない。「良い絵だが、惜しむらくはデッサンがなっていない」と、画家である現在のチャオピンにいわせ、その出来を間接的につたえるだけだ。精神としてのみ線が脈打っているものは、表象不能だというかんがえがそこにあるのではないか(作品がファンタジーであれば俗化された素描を観客のまえに大々的に開陳するだろう)。明視性と脱-明視性が混在している領域は、視線ではよってではなく精神によってこそ、その質感が把握されるしかない。
異部族に恋した人間が透明化によりからだをうしなうというエピソードが出たのち、美大の定年間際の教授、といった風情の、コート姿の男が顕れる。まぼろしの文脈にある線路の際に立ち、まぼろしの汽車の走行音のつづくあいだだけ画面に出現している彼こそが、明視性と脱-明視性の境界を、そのすがたで体現している。最初の登場以後も間歇的にすがたをあらわす彼の風情がすばらしい。彼が異部族との恋によってからだを失ったとすれば、彼には発語能力などないだろう。ところが例外的に終盤ちかくで彼は、持続的にそのすがたを画面に定着され、リーホワと、あろうことか会話を応酬することになる。
「どこかでお会いしたことがありませんか」「わたしのおもいだせないだれかに似ている」と語りかけるリーホワにたいし、男はおよそ以下のようにいう。「ひとは個別で、そのことをつきつめればかけがえのない一個人がだれかに似ていることはありえない」「だからその者を見失えば、その追跡は地上を永遠に迷宮にするのみだ」。ここで気づく。存在のすべてが、非相似性にむけて口をひらいている、ただの黒い四角、黒い穴なのだと。相似概念によってみずからの組成を保証するファンタジーとの離反点が、この男のことばにあらわれたのだった。
特異性の概念ならば、たとえばネグリがさまざまな著作でくりかえしている。他者と通約不能であるがゆえに他者領域を真に更新するのが特異性で、それは一見、個別性と混同されるが、個別性はだれにでもある局面だから、普遍性へと回収されなければならない。つまり特異性と個別性は対立する、と。
映画『黒四角』では個別性が非相似性の導入により、個別性を温存されたまま特異的にひろがっている現世がつづられている。過去世はそこに垣間みえた、実在性をたしかめられない「袋」めいた付加物ではないか。そのことと俳優の実在的な「顔のよさ」がつりあっている。黒四角役の中泉英雄については既述したが、新井浩文を疲弊させたようなチャオピン役のチェン・シューシュウ、清楚さを終始たもつリーホワ役の丹紅、それと明け方の建物のファサードにある階段で、チャオピンにもたれかかるとき聖画のなかのような視線をみせるハナ役の鈴木美妃、それぞれの顔がわすれがたい。
むろんこのことは静謐と関連している。『タイムレス・メロディ』『波』『16』など、静謐さと俳優身体の関係をこれまで追求して奥原浩志監督の感覚の緻密さは本作でも健在だった。
5月17日より、K’s cinemaほかで全国順次ロードショー。
2014年05月16日 編集