バルテュス2
【バルテュス2】
たてのすじ、というべきむすめだ
ひかりのなかでほそまっている
りんかくがぎやまんなのか
ネコの瞳孔のように時間化して
ほそまりがうごきつづける
なにものも盛らないその縦は
ながさとよぶにもこころもとなく
花ぬなわに体重をのせられぬ
ろくがつのほとりの加減だ
みえているのに、あんのうん
世界がむすめの開脚を秤に
なんのほそまりを釣りあわすのか
それが数の花ぶさだとすれば
あることはすでにしてそれらだ
ひかりのそとへ脱けながらも
ひかりを過剰してゆくその再帰を
性愛に組み敷けるものではない
いきているそれの水死は浮く
すじ裂けるウオの匂いのまわりを
ひらたくめつむる舟としながら
安井浩司の句は、かるくなってきているようだ。軽妙や軽薄といいたいのではない。なにかヌケがあって、この世にないものと軽々とつうじる玄妙境にたどりついている。以前は驚愕と威嚇のからまりで魅了していただけに、嘉納すべき老境だとおもう。その範疇の秀句を以下に少々――
有袋の母後ろむき萩の中
花野ねて脳〔なずき〕に匙を入れられし
兄妹神は薄紙を入れ交わるも
木の鷽よ雄を削りて雌とせん
赤酒の底より光り初む二月
木天蓼〔またたび〕の花ふりかけて食う野飯
日に透かす神の掌紋するめいか
名を与え百日保つ海鼠あり
幾たびも尾を替え百年白ぎつね
Y字架に首乗せしばし見る夢や
蛇交む一日がかりの永遠ぞ
春や古仏に内視の管を曲げ入れて
春夕べ渤海膳の流れ来し
鯰逝くすべて光であるまえに
侘助の花やすべてのもの少し
永遠はただようなんて花ぬなわ
最後の掲出句は西脇『失われた時』のラストに、西脇の別名的食物「ジュンサイ〔=ぬなわ〕」を交響させたもの。この「花ぬなわ」を詩篇に導入した。
本三冊を読了した夕方からは全学の「日本の歌詞」授業のため、ブランキー・ジェット・シティのチェック。五年ぶりくらいに聴いたのではないだろうか。ぼくは、ブランキーは『BANG!』と『C.B.Jim』がとりわけ愛聴盤だが、「不良の森」での浅井健一のリードギターにウルウルくるうち、浅井の初ソロユニットSHERBET、その『SEKIRARA』収録の「麦」も聴きたくなる。パンクとジャズを融合した高速的な脱分節化とちがう、ピアノ鍵盤にたいしてのように間歇的に、あるいは硝子の破片を散らすように弾かれる、浅井のギター。音をはずしてゆく数瞬に、世界がうつくしくゆがむ。あの音を透明化するエフェクターはなんというのだろう。ストーンズ時代のミック・テイラーもよくつかっていた。
2014年05月21日 阿部嘉昭 URL 編集