熊切和嘉・私の男
本日公開、熊切和嘉監督『私の男』は、本年度屈指の傑作であるのみならず、2010年代の日本映画をも画する重要作です。それにまた、『銀の匙』(吉田恵輔監督)、『そこのみにて光輝く』(呉美保監督)とつづいてきた北海道ロケ映画の勢いを当面締めくくる、素晴らしい掉尾のような作品でもあります。
浅野忠信と二階堂ふみの主演で、父娘(ほんとうは遠縁間の養子縁組)の、「禁断の愛」がえがかれます。注意したいのは15年ほどの長いレンジにわたる時間の表象です。出演俳優の経年変化も精確なのですが、それよりも主要人物が「土地」を流浪し、結果、土地そのものが流浪してみえる点が、時間の流動、その流動の厚みを換喩しているのです。この意味で『私の男』は、成瀬巳喜男監督『浮雲』、イ・チャンドン監督『ペパーミント・キャンディー』、ロウ・イエ監督『天安門、恋人たち』などの系譜に伍する作品です。
なるほど、いまのべたそれぞれは後遺症映画です。成瀬作品が太平洋戦争の、イ作品が光州事件の、ロウ作品が天安門事件の「その後」をえがいているというのなら、『私の男』も奥尻島に甚大な津波被害をもたらした北海道南西沖地震の「その後」映画とよべそうです。ですが実際は、「日本という後遺症」「愛という後遺症」とでもいうべき「場所と人間」の主題にさらに分け入っていて、そこに唸りました。
それと、時間・空間の表象方式もちがいます。おおまかにいえば、成瀬作品は「編年」、イ作品は「逆編年」、ロウ作品は「多数性の氾濫と帰結」が表象されていますが、熊切作品ではほぼ「編年」のなかに、ちいさな散乱と、全体の縮減とが表象されているのです。このことが右肩下がり、何事も縮減へとむかう2010年代の時代意識に適合して、それゆえに本作がこのディケイドを代表する作品となったのです。
衰退をくわえてゆく浅野忠信の瞳にたいし、自己確信は好色だという直観にみちびく、この作品の二階堂ふみの瞳、それに舌、口が忘れられません。彼女の身体や表情の「部位」、その意味は、土地、とりわけオホーツク沿岸の紋別をおおう流氷と直結しています。だから戦慄せざるをえないのに、哀しい。
この映画で瞠目すべきはショットです。撮影は『そこのみにて光輝く』とおなじ近藤龍人。監督の演出を俳優の身体が具現化するとき、ショットの持続はそれじたいの時間をつくりながら、変化を中心にした運動を知性的な中枢=いわば「生き物」の知覚として収めます。『私の男』で奇蹟的なのは、決定的なショットそれぞれに発端と結果があるのに、そのあいだの経緯が冷静に意識化できず、ただ生々しさに呑まれてゆくということです。言い方をかえれば、「このショットのあいだにこういうことが起こらなければならない」という制約は多くが「段取り」を透けさせるものなのに、監督をはじめとしたスタッフ・ワークは「中途」をただ生成させるのです。なんと透明で崇高な細部なのでしょう。
「根」ではなく「中途=茎」こそが思考の発端だという、ドゥルーズの植物を考察したことばをおもいだしました。ほんとうは余裕があれば、作品のこの美点を具体的な場面に即して詳述したかったのですが、できませんでした。ともあれ時間進行にある「みえないものの宰領」をもたらした浅野、二階堂、それに藤竜也、河井青葉、モロ師岡、高良健吾などは、ぽくにとっては俳優というよりも「わざおぎ」という逆転神をおもわせました。この意味で神話的な映画です。むろんロトの娘の神話、心理学的にはエレクトラ・コンプレックスとも境を接していますが。
ぼくの生徒にはこのあたりにとくに留意して作品を観てもらいたいとおもいます。
なお、劇場プログラムは、俳優インタビュー、スタッフ・インタビュー、原作者&脚本家インタビュー、それに評論家の多様な論考が併載されて文字数と写真点数が多く、みごとに充実しています。ぼくは中村珍さん、佐々木敦さん、中条省平さんとともに、論考提供者の一角を担っています。2200字で依頼をうけた原稿ですが、凝縮のなかに、多様な発見を「展開的に」書いています。すべて画面から摘出した主題系にもとづき、しるしているのです。他の執筆者との個性のちがいがかんじられるとおもいます。劇場に行かれた際は、ぜひご購入を。