原稿準備 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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原稿準備

 
 
昨日は岡井隆論の原稿準備のため、あとがきなどで「日録」によりつくられたと岡井自身が述懐する歌集、『二〇〇六年 水無月のころ』『ネフスキイ』と、それに日録的創作によるソネットのならぶ詩集『限られた時のための四十四の機会詩』を通読した。くわえて全歌が日録そのものにみえる歌集『静かな生活』も。これらすべては日記の亜種ともよべるものだ。

岡井歌集で秀歌率のとりわけたかいのが、『朝狩』『(旧編)天河庭園集』『鵞卵亭』『禁忌と好色』ではないかとおもう。岡井の前衛意識と「アララギ」直流の声が見事に融合して、結果的に暗喩ではくくれない収録歌が多いということだ。なにより一首三十一音の読み下し直行性に撓みやズレがはらまれていて、その細部こそが換喩にたいする崇敬的計測をしいる。

もともと岡井は若いころから方法論的連作を意欲的に展開したひとだが、そこに詞書の方法論が加算的に導入された。結果、連作が複雑なスパークと、聯想=換喩的な進展とを帯び、それらが擬日常のながれ、厚みまで呈してゆくのが『マニエリスムの旅』あたりで、最初の集大成が『人生の視える場所』だっただろう。

その詞書には岡井自製の短歌や俳句までもが混ざり、岡井は連句でいう平句的なものに覚醒してゆく。塚本邦雄は当惑を、『マニエリスムの旅』の解説ではやくも誌している。岡井はあらゆる着想や感慨を、五七五七七、三十一音五分節の短歌的発語にかえうる融通無碍によって、短歌的可能性の臨界をしめすことを野心していたのだろうが、それにより秀歌率の低下することをたぶん塚本は訝ったのだ。

口語性も導入された岡井の日録的作歌は、詞書連作中、詞書部分の平俗短歌を、詞書の場所から解放したことにはじまる。そうしてたとえばしずかながらも不敵な達成『ネフスキイ』があるわけだ。

日録とは、一日一刻という「部分」が、生という「全体」のなかで統御不能に生成して、「根」の不動ではなく「茎」のなびきがそこに顕れることだろうが、もともとそれは岡井の散文=評論でも共通していた。

七〇年~七五年、岡井の九州流謫(歌作放棄)時代、着のみ着のままで逐電後の生活をはじめた岡井は、最初に書庫も蔵書もない不如意から、おのれをたもつ思考を余儀なくされた。手始めに岡井が分け入ったのが、これまた岡井の方法論となる「註釈」で、対象は岡井がとりわけ親炙した斎藤茂吉と塚本邦雄だった。論考は日付入りの断章連鎖、日記を継ぎ足してゆくように書かれ、筆先も厳密な展開に拘泥することなく、ときには前言訂正すら舞い込んで、エッセイと評論のやわらかい合金がそこに出現する。それがゆるされるのも、自画像的創作者・岡井が、自分の波瀾万丈の生が魅惑をあたえると知っているためだ。岡井は「私」表現のたえず尖端にいて、自写像的な換喩につき先駆をなしたひとでもあった。

当時の岡井の書き物は『茂吉の歌 私記』『辺境よりの註釈 塚本邦雄ノート』としてのちに刊行されるが、後者の細部では塚本の暗喩的=前衛的作歌からの離脱がすでに窺われるのが興味ぶかい。岡井は出張医師として当時九州を駆けまわっていて、たまたまできる思索用の寸暇はすべて夜だった。そこがその後の日録的創作とはちがう。

あまりいわれていないのは、いまの岡井が徹底的に「朝のひと」だという点だ。前夜までに生じた思考の澱が起床とともに昇華されて、しかもまだそれが茫洋としている一瞬に、岡井はおのれの身の奥を手探るように、再帰的な創作をはじめる。学殖と体験=記憶が、日常を二重化しているその「やわらかい部分」と、岡井の思考がまじわるのだが、そうして世界までもが朝の様相のうちに「狩られて」ゆく。往年の「朝狩」を岡井がいまも励行しているといえる。むろん朝は日々を継ぐひとの恩恵の刻だ。そのことは中日新聞に長年、「けさひらく言葉」を連載していた岡井にはとりわけ意識されていただろう。

いいことづくめのようだが、くりかえすと朝における日録は、マラルメ的深夜の熟考にたいし平俗化の危機をも同時にはらむ。作歌数が飛躍的に多くなったここ十数年の岡井に、往年の岡井ファンが背を向けた例もいくらか知っている。「ゆるい」というのだ。ここに換喩の効能のはきちがえがあるかどうかは、しかし微妙な問題だろう。換喩はおのれの隣接域から、そのなかに内在する隣接の層をつかみだす。しかも手は語義矛盾だが、「とおい隣接」をひきだしてこそ詩に染まる。むろん岡井の現在の穏やかな実験は、深刻さとは無縁の次元で、詩がべつの相貌を帯びだす胎動をしるしつづけている。それはたしかだろう。

詩は日録として書かれることで日常的に救抜される。このばあい飛躍は作者個人ではなく、天意に属する。

ぼくじしん、最近は日録的に比較的短い詩篇をネットアップしていて(長詩は日録に向かない)、岡井のいとなみが以後一世紀ほどの詩的未来を照らす先駆性をもつと仰視している。ただし秀作率は維持したい。このとき自己破壊にたいする捌きという点で、岡井と自分の径庭をかんじてしまうのだ。

むろん自己破壊の度合が、詩作品の価値をきめる。定型的常識を越境する岡井の英断に自己破壊性が窺えるのはむろんだが、スタチックで安定的なつくりのなかにこそ自己破壊性を胚胎させることができないか――それがいまの自分の着眼だとはっきりしている。近々書かれる原稿は、どこかで刺し違いの結果をよぶかもしれない。

以上、具体的な引例をはぶいた、現状での論考の骨格予想。むろん書き出せば換喩がはたらいて、原稿がまったくちがう貌になるはずだ。
 
 

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2014年06月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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