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松本秀文の少女 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

松本秀文の少女のページです。

松本秀文の少女



(承前)
「図書新聞」用、井土紀州監督『ラザロ』三部作評の
原稿執筆・送付がいま終わったので
昨日のつづきで松本秀文『鶴町』についてこれから書きます。



「鶴町」的な多孔質空間に出没するもののなかで
「犬」の次、僕の視覚に強烈に灼きついたのが「少女たち」だった。
変幻性に傾斜する時空に出入りする者たちは
むろんそれ自身が変幻可能性を注入される。
「少女たち」に関しては決定的なのが、71-72頁の次の聯だろう。



「非=停滞」という名の三角ビルの屋上で
同じ顔をした少女たちが 愉快に/不愉快に踊る
不協和音の中でペラペラの薄さになって 不完全燃焼を繰り返しながら
毒と蜜を吐き出しては 「オリジナル」になろうと
もがいている



しかし「少女たち」は決して「オリジナル」になれない――
これが『少女機械考』で少女を考察した僕の結論のひとつだ。
論旨の反復になるが、こういうこと――

資本運動はその機械性において
死と一緒に少女性をも「機械的に」増殖させている。
少女をおもう者は少女になる。
少女の触れるものも少女性になる。
よってそれは単数化から常に逃れ
たえず「複数」、つまり「標的性を欠く標的」として
(脱)定位されるものにすぎない。
少女性を「欲望」対象とさせるには
こうした布置こそが大事だと既に資本が知っていて、
資本運動は自らの時間性の波を少女性にすら変え、
いまや自身を高度に資本化=少女化させるにいたっている。

少女は「消費主体」であって、「生産主体」ではない。
だから「死」さえも自らの領域に書き込もうとする資本にとって
「消費単体である死」=「少女」こそが欲望のイコンに相応しい。
自己目的的な運動を継続してゆくだけで
自己拡張という資本の単純使命が果たされる。
その運動のために刻々の少女のすげかえが必要だ。それだけ。

このようにすげかえの効くものにはオリジン性がない。
というか、「初期決定」されたのちの
運動の抽象状態であるしかないこの資本主義下では、
すべてに亘り、もう「起源」など存在していない。

個別性を脱色され、複数性のつくりだす「領域」としてしか
いまや認知されない「少女性」においては
もう個別差異すらなく、それらはすべて「同じ顔」「同じ躯」
「同じ肌」「同じ膣」で存在しているだけで
(古屋兎丸『ショート・カッツ』を想起のこと)、
しかも回転装置がその運動を下支えしている現在では
少女はセックスによる少女性の消滅によって
むしろ自身の少女性を補強する逆説をも生きている。
ここにもまた「オリジン」不在の根拠があるだろう。

まあ、僕が拙著で詳述した「少女機械」についての考えの骨子は
およそ以上のようなものだが(ドゥルーズ的「機械」論の転用です)、
上記・松本さんの詩句も僕の考えを精確に反響している。
松本さんは『少女機械考』ではなくたぶんドゥルーズ=ガタリ、
とりわけ『アンチ・オイディプス』を読んだのだろう(笑)。



もちろん、松本さんは僕の世代以上にサブカル狂だろうから
その少女性描出にはアニメ的な悪夢がさらに混入してくる。
たとえばエロチックで大好きな聯に次のようなものがある(82頁)。



少女Aは「自分」の平和なベッドに
怪物を招待しようとしている
少女Aの可愛らしい性器には
血まみれの戦車が溢れている

[※連接容易性を体現する少女自身は
怪物と自らをも容易に連接させるだろう。
それが自らの怪物化の実現なのか
怪物の少女化を志向するのかはもう争ってもしょうがない。
また「少女A」の表記は匿名的・犯罪的・愛者を志向した
中森明菜「少女A」へのオマージュというより
少女本来の殺伐とした無名性・代入可能性を示唆するものだろう。
性器に溢れる戦車は、少女の少年への変転可能性や
「有歯膣」幻想の現在的転変を告げてもいる。
ただ「平和なベッド」の一語でこの聯は
一切が少女自身の夢想の領域にあると告げるかのようだ。
この夢想性が松本さん自身の夢想に反射しているからヤバイのだ]



頁を追ってゆくと『鶴町』初期段階では
「少女性」は松本さん自身の孤独な「少年性」の、
「定位された」対象物――そんな色彩も濃いとおもう。
たとえば以下(45-46頁)。



「CONVENIENCE」という鋼鉄の城
不眠症の発光体
「この世界に傷つかないでいられる場所はないの?」
閉塞する日常のくすぐったい息詰まり
闘争する少女たち
鉄パイプを片手に町を駆け巡る

戦闘少女セノビちゃんは
あらゆる「背後」と戦う
最後の敵キャラは
いつまで経っても現れない

あらゆる「COPY」が
個室で
つめたい自分をあたためている
濁った路上で少女が飛ばす
「WONDERLAND」のシャボン玉
「ヒロシ君とセックスしたいな」

[※掲出3聯はすべて細罫囲み、
1聯3聯が網かけ、2聯が尻揃えのレイアウト。
思想的な参照はブルセラ少女に向けられた
宮台真司「終わりなき日常をまったりと生きろ」の
「まったり革命」と、
斎藤環が論じた「戦闘美少女」の錯視的融合ではないか。
ただし斎藤は、美少女の戦闘性を
無為なおたくの力弱さの願望投射(代行性)としたが、
松本詩の少女はもっと「自体的に」生きてもいる。
それで「少女」が現実とモニター画面上に
フラフラ揺れる幻惑を演ずるのが、聯の運びの妙だろう。
掲出3聯目の最初の3行はシンプルだが素晴らしいとおもう]



むろん松本秀文の少女は電気体だ。
それはリラダンの自動人形のように火花を散らす。
ただリラダンの時代的制約では
火花は梳る髪に出現するほかなかった。
この時代ではもっと淫靡な場所に火花が散るが、
それは淫靡すぎて、火花の存在も証明できないような
秘儀の領域へと立ち入る(笑)。
たとえば短詩として【火花】とタイトルしたい次の聯(67頁)。



通りすがりの戦闘少女のスカートの中で
点滅しながら侵入した蠍が
少女のフトモモの念力によって
ふわふわと「存在」を消去される



松本秀文が少女性の認識論・状況論の提示にすぐれているのは
以上のような引例でよくわかるだろう。
ただ、前回の「犬」に対してのような
悲哀と危機に満ちた「同調性」によって
読者を真に圧倒する局面はないのだろうか。
やはりあった――。
「鶴町」中、(メタリック・フルーツ)と断章化された部分。
「機械仕掛けのオレンジ」をふと錯視するこの「金属製果物」は
むろん「少女的組成」への賛辞を形成するものだろう。

ラスト2聯を割愛し一篇の詩として引用してみる(109-111頁)。
詩行のなかに畳みこまれ、
角度を刻々と変えてゆくこの少女性の継続描写は惑乱もしていて、
その惑乱そのものが哀しくもある。
少女はだから実は平面還元できない立体像をここに結んでいる。

その点、実は僕には既視感があった。
ベルメールの挿絵を想定して書かれた
マイナー・シュルレアリスト、ジョルジュ・ユニェの詩、
『枝状に刻みこまれた流し目』がそれだ。
この詩は『夜想2号/ベルメール特集』に松浦寿輝訳で掲載された
(僕の『精解サブカルチャー講義』にもその抄録引用がある)。

あ、もう一個、以下の冒頭にも注意を――
以前の掲出例にもあったが、
松本秀文においては「三角」と「少女」が強迫連合するのだった。
なぜなのだろう。Hな何かがあるんじゃないか(笑)。



三角形の家に
鉄のドーナツを頬張る眼鏡少女たちが群れている
少女たちは楽器を
肉の突起ざわめく身体に埋め込み
楽器になろうとしている

身体的な改造を
物質としての至福と考えている少女たち
(変身はいつも
外部へ向けて視覚化されなくちゃいけないの)

バラバラになった「自分」

不安定が安定化してしまった少女たち
(不安という不可視なもののために
このまま黙って死んでなんかいられないわ)
ピストルを片手に男から性器を奪い
草原で埋められない「自分」という「穴」へ
「恐怖」を笑いながら挿入する
それだけが世界への最も狂おしい「接近」である

オブジェ的思考の爆発

アクビについての対処法を
宝石店の真珠のネックレスに問いかけ
アンモナイトの形をした通信回路を使って
星になれなかった先祖たちの声を集め
逃走する魂の記録を追いかけながら
今日も昨日のようにふわふわと死んでゆく

バラバラになった「自分」

「自分」というものが砕け散っていることを
認識できない少女たち
血の色のシャボン玉の内部で
洪水のようにふざけてみたりして
消えないために消えるための準備を
冷静に行うことは愚かに優れている



「自涜」「自傷」の現代性のイメージがつよいが
4聯目に僕は往年のルー・リードも想起した。
『ベルリン』所収、「キャロラインの話2」がそれ。

音楽ついででいえば三村京子に
僕の『壊滅的な私とは誰か』(部分)とともに
オープンチューニング伴奏で歌唱朗読してもらいたい詩だ。
あ、『壊滅的』は「阿部嘉昭ファンサイト」にアップされてます。



ただし、僕はもう齢なので、少女に関しては煩悩を絶ちたい(笑)。
つまり僕の「泣ける」ポイントは
僕自身をも包括する「祝言」「大団円」のほうへとズレだしている。
ところがそんな詩句をも松本さんは書き付けていたのだった。

横に組まれた、25-24頁の「虹(化石こそ生きている)」。
この詩は、時間表示を施された一日単位の、
松本さん自身の備忘録の体裁を一見しているが、
時間泥棒-脳内での鳥の失墜、等、ゴワゴワした変転幻惑を打出す。
たぶん単独詩篇としてはいちばん安定感と客気を謳われるだろう。

その最後の3聯を以下に引用するが、
僕が「泣いて」しまったのはむろん最終行の祝言だった。



6:00pm
黄昏が来ないほど町は盗まれている

10:00pm
眠れない音楽を持つ女を抱く
女は時間の砦で踊っていた崖だ

0:00am
「鶴」のように女は光る泥の虹だ
女の手を虹のようにあたためる
この世は女の虹を讃えるための庭だ



以上で、「鶴町」から蒐集した別の動物「少女」「女」についての
僕の拙い考察を終わります。
結果的に「少女」を「犬」と同列の動物の位に置いたことになるが
僕は何の痛痒も感じていない(笑)。
おそらく松本さんもそうだろう。

前回の日記にも書いたが、松本さんの「鶴町」には
さらに多様な種類の「動物」が出没してもいる。
その「動物誌」を綴るような作品分析が可能なのではないか?
――バシュラールがロートレアモンにやったような。
誰か奇特なかたにおまかせします。
これがホントのmixiバトンだ(笑)。

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2007年06月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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