ワン・ビン・収容病棟
【ワン・ビン監督・撮影・編集『収容病棟』】
ドキュメンタリー映画における、「ワン・ビンの距離」がよくいわれる。ドキュメンタリーにはとうぜん人間などの撮影対象があるのだが、ワン・ビンはカメラの存在を対象に意識させることなく、対象の間近にいて、対象の自然な行動を「ただ観察する」「呑みこむ」。対象のふところに分け入り、しかもカメラにたいする対象の反射行動(視線による意識化など)をほぼ消滅させさえする。『鉄西区』にしても、今回の『収容病棟』にしても、対象が丸裸で性器があらわになっていても、対象は恥辱の表情ひとつしない。つまりワン・ビンのカメラは対象にとって「消えている」。
TVドキュメンタリーを撮っていたかつての大島渚は、カメラの侵入によって対象がしめす変化をうつしとってこそ、ドキュメンタリーの真実がある、というテーゼをもっていた。カメラは加害者だというこの見解は、たとえば対象によって意識されたカメラがマゾヒスティックな窪に陥り、それでも逆転の契機を待つ、という待機のカメラをのちに原一男にもたらした。いっぽうカメラの自然化という点では『教室の子供たち』での羽仁進の神話がまずある。学童たちが自由な振舞にいたるまで、教室内に三脚で立てたカメラを一週間ほど回さなかったという、あれだ。
ワン・ビンはより小型で機動性のたかいハイヴィジョンカメラをつかっているはずで、閉塞的環境を対象と共有する自らが、対象に自然に認知されるまで撮影を控えることはとうぜんおこなっているだろう。それから撮影対象になんの挨拶もなく、カメラを回す。対象の移動を、前進移動で追いかける一方で、手持ち長回しショットに「解決」をもとめていない、通常性から外れたカメラの存在感が、対象自身に肩すかしをくらわすこともあるのではないか。あるいは、もしかしたら、カメラの接眼レンズに眼を接さずに、カメラをだらりともつなどして、「対象-撮影レンズ-接眼部分-撮影者の眼」という直線性を消すこともあるかもしれない。それでもカンパニー松尾のように、たくみな(回しっぱなしの)据え置きによって撮影の機械性を放任した気配は今回の『収容病棟』にはかんじられない(対話者=回答者を捉えつづけた『鳳鳴――中国の記憶』にはあったとおもわれる)。
気配を消すことのできるワン・ビンが二段ロケットではないかとおもうことがある。もともと「影の薄い」存在感を身にまとっている。そのうえで、ワン・ビンによる撮影が終わり、ワン・ビンを中心にした編集作業においては、かぎりなく創造的な主体へと変貌する。むろん前段にあるのは「影の薄さ」だ。となると「影の薄さ」こそが叡智の方法なのだ。「影が薄いから」対象への干渉力や作用力をもたない。ところがこのことが「内部から内部を把握する」、いわば「存在の内部系列化」を準備する。今回の『収容病棟』でも収容患者の男性ふたりがこう語りあう。「俺たち、もう幽霊になっていたとすると、どうする?」。幽霊はワン・ビン自身の別名だろう。
「ワン・ビンの距離」があるとすれば、「ワン・ビンの運動」もある。次々と操業を停止した廃工場が癌のように巣食う、巨大製鉄コンビナート「鉄西区」を工場区ごと人ごとに、九時間にわたり多元的に捉える『鉄西区』では、開巻から延々と、コンビナート内鉄路を移動してゆく車輛運転席にカメラを置いた前進移動で、「工場萌え」の視覚的欲望に資するような工場地の展覧がおこなわれた。煙突、鉄錆、配管、工場間の空中連絡、迷路性。つまり、存在する空間の厖大な身体性にたいし、この場合は直進を中心にしたカメラ運動がさらなる身体性をなして、光景の展開を「設計」する。このときの第一の身体性(空間)と第二の身体性(カメラ運動)との関係が換喩なのだった。
認知言語学では、暗喩の意味確定にたいし、換喩は運動の方向性のみをしめして、空間を共有する者どうしの了解を得るとされる。むろん意味に落着しない空間の進展はそこで純粋化してさらなる驚異となる。現在のドキュメンタリーが、撮った現実の文脈付与から離れたことはさまざまに立証されるが、ワン・ビンはカメラの幽霊性と同時に、空間切開の純粋性=換喩性においても中心的な才能なのだった。
果てのない深部まで直進するトラッキングによって視野が展開され、眩暈をもたらしていった『鉄西区』のカメラにたいして、『収容病棟』でのカメラワークの基本は、巡回――同一箇所の四辺を反復的にすすみつづける運動といえるだろう。
「場所」を説明しておこう。エンドクレジットにより、局所にとどまって撮影されていたその場所が、雲南省に存在する精神病院だと知れるのだが、カメラは説明字幕なし、無前提にはじまって、収容者の氏名しか文字情報を観客にあたえない。アングルによってときたま窺える病院施設の全貌は巨大だが、カメラはその病棟部分を、ただ一回の例外においてしか離れることがない(一患者が〔一時〕退院をして、帰宅した家が撮影の舞台になる――ところがその退院者が深夜に路上を延々と徘徊してゆくのを一連の最後でカメラは捉える)。建物は三階建てで中庭がある。その三階部分での撮影が全体の九割を超えている。建物は中庭を囲む四辺で形成され、中庭側に渡り廊下=回廊があり、その回廊から建物の外側にむけて収容者が相部屋で暮らすスペースが櫛比している。三階部分は男性「患者」のためのもので、階下のスペースが女性患者に割かれている。
それにしても鉄格子の存在がこれほど印象的な映画はあまりない(筆者のとぼしい経験では、サミュエル・フラー『ホワイト・ドッグ』のラストに匹敵する)。静態的に捉えられるほか、移動撮影によって視界をかすめてゆく鉄格子は、いわば「運動する」アブストラクトを形成する。具体的にいうと、中庭を見下ろす三階や二階の四辺の回廊は、とうぜん落下事故や自殺を防ぐべく鉄格子が建てられている。収容者とその家族、あるいは三階の男性収容者と階下の女性収容者にとってもまた、階段につうじる回廊の一箇所のドアを鉄格子が区切っている。したがってそれぞれは鉄格子越しにしか会話や抱擁ができない。階段への鉄格子が解除されるのは食事や退院のときに限定される。鉄格子の存在は欺瞞的もしくは中間的といえる。空間を確定して収容者を幽閉する暴力的な限定であると同時に、その「向こう」を望見させ、部分的には接触をゆるす境界緩和装置でもあるのだった。
動作が粗暴で、兄への愛着がどこか統合失調症的なひとりの若い収容者が、なまったからだを鍛えようと深夜に回廊をランニングする。抜群の運動神経のワン・ビンの手持ちカメラは、彼の走行を前進移動で追いつづける。幾度、回廊の四辺を周回しただろう。このときカメラには、逼塞してもなお前進をかたどる「周回」運動が余儀なくされ、それが「収容病棟」を換喩的に身体化するカメラ運動だという点をあかす。この後、カメラは幾度となく回廊の周回運動を作品にしるしつづける。
たとえば円環と前進が複合されると螺旋運動になる。それは掘削であれ何であれ、「外部」を目指すことのできる運動へと転位できる。ところが同一の四辺の周回には出口がない。ただしそこで脱出を許されないエネルギーが充満してゆくのを観客はかんじとることができる。その第一は、貧富の格差が拡大して入院患者を覆いつくしている「貧」「不潔」「汚辱」の告発に転化するだろうが、問題は依然、「ひとつの場所」が「場所の全体=中国」に浸潤してゆく、身体のような、「運動=換喩の意味形成の不能性」のほうにある。ワン・ビンの映画は中国の恥部にいつもふれるが、けっして告発ドキュメンタリーなのではない。「運動」のなかにある身体性が「場所」をどのように編成するかという、換喩をめぐる純粋思考のほうにこそ、その本質がひそんでいる。
相部屋のなかでの排尿、回廊での放尿、水を浴びるために回廊を素裸で歩く男、掛布団の下に隠されながら同性愛にちかいやりとりのなされていること、床に落ちたものの捕食、無気力、統合性の失調によることばのゆがみ、回教徒の祈祷、妻が面会に来ても家族愛の根拠を再創造できないまま自信喪失する男、壁に虫を幻視して靴でその壁を叩きつづける唖者……以上、登場順ではないが、患者のかかえる逸脱は多様だ。この多様性にある偏差がそのまま人間の正常な社会と相同だとわかる。
ワン・ビンは焦点の合った偶然だけを利用して、ひとりひとりの収容者の、ふところにまで分け入ってゆく。このときの「近接」が身体的なものを画面に充満させる。しかしそれらは重くもなく、軽くもない。緩衝的な中間体がそこに出現して、それがどんなにひしゃげていても、人間的なものへの郷愁を醸成するのだった。
たしかに「収容の契機はほとんどがケンカで、強制入院させられてから、収容者は精神病におちいる」といった告発ともとれる科白が一収容者から発せられる。いずれにせよ、拘禁反応は、回廊をまわりつづけるカメラ運動の磁力と均衡している。それは限界内では「みえる」のに、意味化の面では「なにもみえない」失調のなかに、両立的に存在しているのだ。
『鉄西区』でもそうだが、ワン・ビンは閉鎖された場所で暮らしたり労働したりする者を撮影して、そこから意味化できる時間だけをのこすのではない。声が発せられても字幕がでてこない箇所のつづくように、有意味化できない発声がそのまま画面に交響している。のこされるのは、「意味」ではなく、身体の「たたずまい」なのだろうか。そうかんがえてわかる。ワン・ビンの過激なのは、さらに「たたずまい」の手前にあるもの――「たたずまい未然」の身体の置きどころのなさが、画面に気配のように充満している点だ。この視覚的な特性こそが、ワン・ビンの真骨頂なのだった。
むろん観客はゆるやかに、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーにたいしてそうするように、空間の意味、集団の特性を了解してゆく。その了解が上映時間の加圧を溶かす。今回も四時間ちかくの長尺がなんの苦痛でもなかった。むしろ快感につつまれた感触すらある。それは音響や光の変化にも秘密があるとおもうが、もういちど観たときに確認してみたい。
シアター・イメージフォーラムで上映中。札幌での公開は未定。