魚返一真写真展・君のともだち
【魚返一真写真展『君のともだち』に寄せて】
魚返一真の写真を、「チラリズム」を利用した好色写真とするだけでは足りないと、だれもがかんじているはずだ。そこでまず導入されるのが、換喩=メトニミーの概念ではないだろうか。
風景のなかに配されたさまざまの姿態の少女たちからみえているのが、乳房や股間、あるいはそれらをおおう下着だとして、これらを少女の本来の正常性=顔から顕れた「ズレ」ということができる。ならば、少女性とは「意味」の豊饒な包含で、そこからなにかがひきだされたときには、少女性とは「べつのもの」が少女本体とかさなって、そこに「少女性=被喩辞」と「チラリズム=喩辞」との近接が生じているといえる。こうした構造こそが換喩なのだった。
ロラン・バルトの著作の端々に、写真が映画の換喩だとおもわせる知見があるが、これらはバルト一流の転倒したまなざしにすぎない。ところが魚返の写真はこうした転倒の累乗をさらに仕掛けて、現代人を撃つ。魚返は撮影日誌的なものを多く公開した写真に添えるが、そこでは対象の発見、交渉、撮影場所の探索、撮影中の対象の上気、名残惜しさなどがつづられる。企画ものアダルト映像にも似た一種のドキュメンタリーだが、ちがいは端的、かつ文学的であることだ。
ところがそうした撮影にまつわる背景をいったん知ってしまうと、撮影日誌など存在しなくても、成立した一枚の写真に、撮影日誌的なものの「厚み」が圧延され、しかもそれが写真を「はみだすように」ズレているとかんじられる。これもまた、部分と全体をめぐる――あるいは喩辞と被喩辞の近接をめぐる――換喩なのだった。
魚返一真の近作シリーズは「君のともだち」と名づけられている。キャロル・キングの畢生の名曲と同題だが、ここでも魚返氏とくゆうの換喩的なズレ=生成がある。まず「君の妄想対象」が「君のともだち」にズレている。さらには少女ふたりが「ともだち」で、それらが(とくに手が)たがいの「性」に干渉している。そこではともだちの双対性(デュアリティ)が「たがいに他への」換喩を、性的に形成しているのだ。
たとえば、草はらにならんで坐るふたりの少女たちの、腰から剥き出された、しろくかがやくフルーティ、ミルキィな四つの腿をとらえた幻惑的な写真がある。頭部が構図上、切られ、少女性が部分化しているのがまずは換喩的だ。しかもかつて魚返写真で少女の股間をかくしていた観念の「林檎爆弾」が、この写真では「野イチゴを容れたちいさなバスケット」(そこからも野の風が吹く)にすがたを替え、横にズレている。少女たちのあやうくまとう、しろいうすぎぬは微風にまくれ、向かって右の少女の秘部があらわになっている――はずなのに、そこにはあるべきものがなく、「意味の白」が代置されている。ないものによって、あるべきものが換喩されていることに意味論上、動悸するが、これこそが換喩の最高形態だろう。
くりかえす。そこに写っているのはたんなる少女、もしくは少女性なのだろうか。ちがうとおもう。まずは「ひるがえり」と「ないこと」が写っている。これらの前提があったうえで、それらを内包する「ひかりのゆらめき」が、幻惑的なしろさで写しとられているのだ。換喩は意味ではなく、観念のうごきをとらえる――この点で魚返写真がまさに換喩的なのだった。
●
第26回魚返一真写真展『君のともだち』は
東京・渋谷、ギャラリー・ルデコにて開催
2014年7月22日(火)~7月27日(日)
連日11時~18時 ※ただし最終日は16時まで