本木克英・超高速!参勤交代 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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本木克英・超高速!参勤交代

 
 
【本木克英監督『超高速!参勤交代』】


松竹の俊英、本木克英監督による『超高速!参勤交代』は文字どおりの痛快時代劇だった。脚本は城戸賞を受けた土橋章宏のオリジナル。参加俳優が異口同音にスピーディだという、展開満載のその脚本のスピードを、本木演出がさらに倍加・緩急化することで、ユーモア、殺陣、意外性とメインテーマ回帰による音楽性、男女の艶のある場面などが次々に入れ替わる見事な娯楽作となった。

幕府の老中・陣内孝則の奸計により、参勤交代を終えた直後の磐城・湯長谷藩の面々に、ふたたび五日以内に参勤せよ、という無法な命がくだる。最短でも八日かかる旅程を、実質四日で参勤しなければならない。武道にすぐれた七人(主君・佐々木蔵之介をふくむ――したがって「七人の侍」構造ではない)が太刀を竹光にかえる軽装で山中の捷径を強行軍で「走破」、しかも高萩宿と取手宿では「大名行列」を、日雇いなどをつかって擬装する奇策の連続だ。素性の怪しい忍者・伊原剛志が案内を買って出たものの彼も裏切り含みだし、しかも隠密が彼らへの攻撃を執拗に画策する。途中は面々が散り散りになり、しかも「やつし」が加算されてゆく。そんななか四日で参勤を間に合わせる時限サスペンスがかたちよく作動している。

こう書いてわかるように、「走る」ことがまずは俳優たちの基本動作となる。ところがこのところ日本映画は「走ることの映画性」を女優たちに託してきたのだった。映画美学校作品『MAGMA』(渡辺あい監督)での五十嵐令子、吉田良子監督『受難』での岩佐真悠子、黒沢清監督『Seventh Code』での前田敦子。スポーティさと女性性との掛け合わせが、倒錯美をもたらすという確信によってだろう。ならば侍が走ることも倒錯性になる。

じっさい侍が走る傑作はマキノ正博監督『血煙高田の馬場』の阪東妻三郎、森一生監督『まらそん侍』の勝新太郎、伊藤大輔監督『下郎の首』の田崎潤など、伝説的に存在している。ところが街道筋を侍が走る着想は、現在の撮影環境では間が抜ける危惧がある。景色のバレを防ぐために選ばれた街道はつるんと平坦で、そこを躍動する身体が映画的に埋めることが至難なのだ。俳優にカメラが寄れば、むろん俳優の現代性が前面に出てきてしまう。

本木監督は、捷径選択ということで、伊原の案内のもと、まず七人の武士たちに森林を走らせた。ここでは木々が彼らの疾走を背景の流れとして支え、映画的な稠密感が出る。あるいは伊達藩の参勤交代と鉢合わすときには、無礼打ちを回避するため、全員が飛脚に化ける。飛脚――褌すがた。このときは侍たちの尻肉のほほえむような揺れが画面奥行へと滑りつつ、しかも奥行から前景化してくる大名行列と交錯することで、やはり動きの交錯が見事に設計されていた。

むろん街道を参勤の行列が浪々と歩むだけでも映画的な躍動をつくりえない。しかも湯長谷藩は小藩だから、五十名程度の行列でよく、それを縦に並ばせただけでは線型性は出るが量感が出ない。映画での実際の状況をしるすと、行列をデモンストレーションする使命を帯びた高萩宿では日雇い手配した擬装行列の面子が二十五人しか集まらず、そこで五十人以上の行列にみせるために、画面はクレーンショットでのロング俯瞰構図を選択する。そこで一旦宿場を通り抜けた行列の先が街道の裏筋を逆走して、列の最後へと順繰りに列入りする疾走の全貌が捉えられた。これはアニメの解説的な画面の転用といえるのではないか。それが笑いをともなうことで展開の弛緩が防がれたのだが、もうひとつ、街道には被差別者たちのゆく裏筋があるという歴史認識もがこの場面から覗いていた(これを衝撃的にしるしたのは西河克己監督、山口百恵版の『伊豆の踊子』だった)。

「行列は変化する」「しかもその変化した行列こそが正当の行列にみえる」というのがこの作品の法則だ。これはサウンドデモなどが漸増してきている都市部のうごきと連動している。二度目、取手宿での行列擬装は、磐城平藩の行列を湯長谷藩の行列に「飾り替えて」の急場しのぎだった。それは平藩の飢饉のときに湯長谷藩主の佐々木蔵之介が作物を進呈したことを平藩主・甲本雅裕が恩義に感じてのものだった。義は報われる――これも作品の主調音だ。同時に「磐城」の心意気、「磐城魂」の発露には、東日本大震災からの復興精神が二重写しになっている。大根の漬物が旨い土地柄にたいし、徳川吉宗の市川猿之助が「磐城の土をこれからも守れよ」と、佐々木蔵之介へ見事に被災地応援のメッセージをいうのを、たぶん笑いに心をほどきながら、すべての観客が聴きのがしていない。それは「とってつけた」メッセージではないからだ。

閉所恐怖症というマイナス札をあてがわれた佐々木蔵之介は表情も殺陣もきれいでびっくりしたが、のこる藩士のなかでの役得が財政緊縮をひごろ訴え、しかも「知恵者」で通る家老役の西村雅彦だろう。彼は実質四日間の参勤の方法のみならず、困難の局面局面で「知恵を出せ」と迫られる。この点で現状の日本経済の治療師のような役柄といっていい。その西村が井戸に落ちるサイトギャグは、「尻の展開」が絶品で、再見してカットとうごきを憶えたいくらいだった。彼はその後、亡者とみまごうほどに「やつれる」。それが吊り橋での高所恐怖に足を竦ませる七人のうちのひとり(弓つかい)知念侑希(Hey!Say!JUMP)を結果的に救う展開ともなるのだが、ここでは「危機の二乗は救済に転化する」というこの作品の野太いテーゼが出現している。

吊り橋――橋が、作品で強調されるトポスだ。つまり「中間性の場所」が選択されている。それは飯盛女として深田恭子が登場する遊女宿(しかもそこでは押し入れが隠れるための場所になる)もそうだし、殺陣シーンで伊原剛志が瓦屋根から敵もろとも窓を割り建物内部に闘いの場を移すときに屋根へ結果的にあたえられる「中間性」もあった。土橋章宏の脚本は重要な科白を、間歇的にではあれ二度繰りかえさせる奇妙な丁寧さをもつ。深田恭子の、身分の縛りを破砕させる宣言=啖呵もそうだが、あるときは百姓、あるときは武士という身分の遊撃性の自由を謳歌する科白が、行列の日雇いと、湯長谷藩士から、あいだを置いて別々に発せられたのが意味として大きい。ここでも中間性の優位が語られたのだった。むろん忍者の伊原剛志も献身と翻心との中間性にいて、最終的に献身を選択したのだった。

本木克英監督『超高速!参勤交代』は、たとえば宮藤官九郎監督『真夜中の弥次さん喜多さん』ができなかったことを実現している。それは「移動」する精神――「ノマド」が臭気にあふれ野蛮さと汚さを獲得することで強靭さを得るという事実提示だ。この強靭さによって、これまでこの文中にしめさなかった「七人」のメンバー――寺脇康文も上地雄輔も六角精児も柄本時生もTV性の印象を払拭され、野性的な見どころもユーモアも見事にあたえられている。アンサンブルが幸福なこの感触は、マキノ正博=雅弘の命脈を継ぐものだ。

とりわけ顔の造型そのものが時代劇の「情」に嵌るという意味で素晴らしかったのが前言した佐々木蔵之介と、飯盛女に姿をやつした深田恭子だった。深田が登場してくるのは、足を挫いた佐々木が馬で先行し一行を待ち受ける牛久宿。牛久といえば現在ではキッチュな「大仏」が著名だが、むろんそれは深田の出世作『下妻物語』の舞台ともなった場所だった。これは意図的な配剤かもしれない。

七月二十一日、札幌シネマフロンティアで女房と鑑賞。客席は嬉しいことに幅広い層で満員だった。
 
 

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2014年07月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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