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すず子 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

すず子のページです。

すず子

 
 
こう昼間が暑いと、日中からビールをくらって、なにもせず、もうろうと痴愚の時をすごす。ぜいたくをいわば愉しんでいるのだ。酔眼で録画済ドラマなどを見、うたたねをして、最良の集中力ではできない読書などもあとおくりにする。こういうとき、むかしなら音楽を聴いてやりすごしたものだけど、その音楽も、おもいだした感触があたまのなかで寸刻鳴っていればそれでいい、というていどの、消極的な対象になってしまっている。齢のせいなのか、身体リズムとして詩のほうが勝ってしまっているのか。

クーラーがないので、網戸にし、住居の東西方向に風をとおす。換気扇で空気をまわす。さらには旧態依然の扇風機が活躍してくれ、もうペットにたいするように愛称をつけたいところだ。「すず子」などどうだろうか。首をすっくと立てた健康な容姿だし。

ともあれ札幌の夏のこの室内は、じつに空気的だ。くうきてき。ただし冬用の二重窓が素通しになると、クルマや市電の走行音が遠慮会釈なく、はいってくる。喧噪のなかへ宙吊りになっている気さえする。ぼくの住まいの面しているのは幹線で、病院も方々にならんでいるので、とりわけ救急車のサイレンに惰眠をさまされたりする。

昼間が無気力だと、すずしくなる夕方から集中力がでてくる。そういう交代リズムを利用して、いまからいえばおとといだが、貞久秀紀さん『雲の行方』の書評を書いた。

猛暑がきわだたない最近までは、日ののぼった朝から午前にかけて、詩を中心に、ものを書いてきた。東方向に開放のある空の半球を、住居を超えてかんじる。じぶんをとりまくそんな位相が「進展」のようなものを演出するのだが、よみがえったこの鮮らしさによって、まだ疲弊していないタブララサに、意味ではなく方向を書きつけることができる。この感覚が軽みになった。朝に日録をこなす岡井隆もそうだろう。

昼間が暑く、夜に活動し、昼夜逆転の様相もおびてくると、朝起きができず、夜がマラルメ的なおもさをともなう危険が生ずる。あるいはカフカ的な不眠の危険も。

夜の書きものは物音がしずかで、外からの何の干渉もないから、「自分だけ」の様相が肥大してくる。自己対話の応酬が密になって、どこか狂気的だ。その滑稽をわすれるために「没頭」などをするのだが、自家中毒を起こしていないか、世界と切れていて、それを判断する指針がどこにもない。もともと深夜に物を書かないようにしていたのだが、今回はしょうがなく、『雲の行方』も深夜に書評をつづったのだった。

「現代詩手帖」最新号の「田中宏輔論」をみてもぼくの書き物は異質だ。字数設定の狭隘なこともあるが、それだけではなく凝縮とメタモルフォーゼと「文意の言外配置」が通例からずれているような気がする。説明ではなく、「書かれるものの内在」のほうが展開している二重性。それで電圧がたかい。この趨勢が深夜の物書きではさらにつよまりそうで、書く刻々に膠着防止液を点滴しなければならない。そんなとき、くるくるまわる「すず子」が背中に風を送ってくれたりする。よろしく時を得たやつだ。

そんなこんなで、まあ自分としては素軽く、『雲の行方』評をしあげたつもり。ところがそんな自己判断も、書いていたもののメタモルフォーゼを、書くゆびさきで刻々愛撫していた直近の体感がもたらすものでしかなく、いったんすべて忘却し、ゲラなどをみる段では、自分の文章がそうとうに面倒くさいとクラクラすることになる。わらってしまう。

このごろの依頼執筆では、あたえられた字数にたいし準備をしすぎてしまうきらいもある。加齢におうじた老婆心なのか。つかわなかったものはすべて消える。『雲の行方』評でもそうだった。この本では終盤から俳句引例が数多く目立ってくるのだが、文脈の用意のためにぼくじしんがあつめていた俳句のおおかたが、ながれてしまった。それらは、うらめしい顔でメモ用紙にならんでいる。

たとえば貞久さんには、「二、三」という特有の観念がある。詩集『明示と暗示』にもそれを主題に「数のよろこび」というすぐれた詩篇が載り、『雲の行方』でも樹木の「二、三本」というあいまいな数値が、いかにオブスキュアな身体をつうじて回収されるのかが考察されていた。いや、それは回収されないのだ。「二」でも「三」でもない「二、三」とは、「算えることの未然」でありつづけ、それじたいの外側に、「以外」を生成しつづける。「何か」とはそういう様相をもってこそ顕れるのであり、それはひっきょう知覚にまみれる主体の定義不能性、その言い換えなのだろう。

むろん数値のあいまいを詩にした嚆矢は、子規の《鶏頭の十四五本もありぬべし》だろうが、この歴史的な一句を弟子の虚子が評価しなかったことも知られているだろう(独自のバイアスをもつ虚子は、子規の辞世句も評価していない)。ただし虚子には壮大なスケールによる「数値のあいまい」句がある。これだから虚子もやめられない、というべき秀句――《ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に》。

初句切れの倒置文と了解されるものの、文法破壊の印象がつきまとうのはなぜだろう。そうかんがえて、「ゆらぎ」の置かれ方が不安定で、けっきょくは「ゆらぎ」が主体にも、百から三百への移行にも、くうきにもわたっている「ふしぎ句」だと気づく。この一句がたとえば『雲の行方』評から落ちた。

空気的な詩作者・貞久さんが俳句から渉猟するのは、「自明句」のたぐいだ。ぼくの大好きな原石鼎の《秋風や模様のちがふ皿二つ》も引例されている。秋風の明澄と涼気により、模様のちがう皿がくきやかにみえる感慨を石鼎が詠んだものだが、読むひとなりに句中の「模様」をおもいちがえる罠めいた構造がミソだろう。ぼくなどは青や藍の、全体には円形の彩文、その装飾的な細緻を、脳裡になぜかうかべてしまう。

この句では「二つ」は自明なのか。このとき「秋風」をくわえて「三つ」とする、ことさらに錯視を志向するかんがえが出てくるだろう。「二つ」とは冷ややかなものを秋風が撫でさする方向をしるしするものともいえ、「二つ」にまたがる相互距離が、これまたひとにより区々だろうことが、句に時空のひろがりをあたえている。「二つ」を5センチ間隔から2メートル間隔ていどへとひろげていって、ついに「二」がきえるときに恐怖がはしりそうになるが、それを救いだすのも「秋風」の実在なのではないか。秋風はすべてのもの――「ないもの」にさえ「同値」をあたえる救済的な媒介だと、ぼくとしては結論づける。

この句も論考から落としたが、「秋」とはなにかをかんがえて、この石鼎句にたぶん裏側から貼りついた淋しい佳句も落としてしまった。《うちくるぶしそとくるぶしも秋時雨》。武田肇さんの句集『アーデルハイトの封印』にみえる。「秋は同値を配剤する」という主題を皿から人体にかえてみた一句だろう。

秋はまだとおい。すず子には、そういいかけてみる。
 
 

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2014年08月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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