きのう呑み屋で
きのう呑み屋で院生に話したことをふたつ。
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チョムスキー的な「一般」ではなく、ことばが独自性の場においてどう機能しているかを重視する認知言語学では、周囲からの情報が刺戟となって、それが主体の行動をどうつくりあげてゆくかをとらえるアフォーダンスの理念がふたたび必然化されるだろう。たとえば母語性と離れられない詩作においても、「すでに書きつけられたことば」がつぎの発語を刺戟的に喚起する。そのことばが毀れることをねらうのならそれは「減少的な」換喩に早変わりするし、そのことばが遠距離間をつなぐのなら、「つなぎの自体性」そのものに、当初予定からのずれ、これまた換喩がやどる。むろんことは詩学的な問題にとどまらない。単純な例では、論文作成の際の発想力もまさに上記から規定できる。
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イメージは真の映画性を疎外するとする映画観が、日本の映画評論の一時期を席捲した。それで像の贅肉をはぎおとした「運動の計測」が至上命題となった。これに多元性と、作品それ自体の内在法則の指摘とを付与し、批評の時空をいわば化肉させたのがテマティスムだった。けれどもそれは映画を内在的に小説性へと転送することだ。だから映画と詩の離反も付帯されてゆく。テマティスムは強調しないが、むろん映画の細部には、記述できないもの・記憶できないもの・転写できないもの――がある。それらこそが詩に類する領域だ。そこへことばをとどかせようとすると、要約や剔出や好悪表明ではなく、「それ自体のうすさ」をつかみださなければならない。いま意欲的な映画批評は、画面定着と画面移行にかかわる「それ自体のうすさ」に着眼することで、従前の映画観を更新しようとしているのではないか。このときに再浮上するのが「身体的なもの」だ。それは影のようながら方向をもち、修辞学の換喩ではなく、認知言語学の換喩を形成している。したがって映画での換喩はカットの単位性を超えている。
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某氏の某大著を入手したものの、なぜか繙読意欲が起こらない。このことに現状のなんのリアルが関係しているかをめぐり、以上、語られたことば――
(大幅加筆あり)
○補足
本日分の採点作業がおもいのほか早く終わり、午後イチの打合せまでヘンな間ができてしまった。それでいま読んでいるスティーブン・ピンカー『思考する言語(上)』(NHKブックス)から、おもしろいとおもった「馬脚」にかかわるジョークを転記打ちしておこう。「ジョーク」とは書いたが、換喩的な現代詩とも読めるもので、そう、感触は初期の橘上に似ている。
馬は偶数本の脚をもっている。後ろ脚が二本、そして前には前脚〔フォア・レッグズ〕がある。これで脚は六本になるが、馬にとってたしかにこの数は奇妙〔オッド〕だ。だが偶数でも奇数〔オッド〕でもある数というのは、無限しかない。したがって、馬には無数の脚があるということになる。
(二一九頁)