2÷3 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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2÷3

 
 
【2÷3】


一般論としては「2」も「3」も面倒くさいはずなのだが、多くの者に「3」が率先してえらばれ、このまれるのはなぜだろう、とかんがえてみる。どういうことだろうか。

「2」の設定――「わたしはあなたがきらいだ」といわれたとする。「きらい」というマイナス価値のなかに、自分自身が当事者性をもたされて叩きこまれたことがまず面倒くさいが、そうしめした相手に、「自分自身を擁護できるかどうか」の反論可能性を、「自分自身がかんがえる」ことのほうがさらに面倒くさい。これはだれもが経験済で、そのような場にはいたくないと、ふつうは自分をきらう可能性のあるひとのそばには近づかなくなる。

「3」の設定――わたし(A)、相手(B)が直面しているとしたうえで、相手が「Cがきみの悪口をいっていたよ」といっけん親切な「助言」をしたとする。この局面には、BもまたCにむけて、わたし(A)の悪口をいっていた事前事実が「とうぜん」隠されているはずなのに、わたし=Aは、「2」の状態における当事者性へと還元されるのを回避し、相手(B)との共同関係を偽装しようとして、Bに、「Cは嫌なやつだねえ」などといったりする。わたしのことばの多くは、そのような関係性のなかで「自動的に」だされていると気づくと、そこに起こるのは自分自身への不信であるほかない。むろんこの状態では、「3」が「隠された2」の変型なのだった。

「わたしはわるくない」という信念をめぐる自己実証能力は、ことばには通常付与されておらず、行動――もっと広範な領域でなら「生き方」にのみ付与されている【1】。逆をかんがえてみよう。たとえば「――だと自負している」は、自分にかかわる批判可能性を「自分自身で」「あらかじめ」封殺させる物言いだと咎められ、いまではものすごく奇異にひびく【2】。あるいは「笹井副センター長をころしたのはマスコミだ」という物言いは、笹井氏にたいしてもマスコミにたいしても、さらには自分自身にたいしても「なにもいっていない」。「なにかをいっている」アリバイづくりにただ似ているだけだ【3】。

いきなり「詩」のはなしに移してみよう。【1】の「生き方」を発語に反転させて、ことばが自己実証を、発語と同時につくりあげるのが、いちおう詩といえる。ところが【2】「自負」がきみわるく発語のここかしこに点滅しているのが「わるい詩」で、とうぜんこちらのほうが多く、たとえばそれで独善的な現代詩に人気があつまらない。その現代詩をとりまく批評は【3】のかたちをしていることが多いが、そこで当事者性を復権させようとすると、自分の詩風を擁護するために、自分に似た詩篇のみを褒美する我田引水批評に堕することにもなる【4】。したがって当事者性の問題からいえば、ゆいいつ重要な【1】は、自己言及と自己消滅を「同時にふくむ」アポリアを自らに抱えこまざるをえない。

このとき自己言及を「全体」とし自己消滅を「部分」とするか、あるいは自己言及を「部分」とし自己消滅を「全体」とするかは、しょせん順番(=過程)の問題であって、本質とはいえないだろう。全体性を部分性によって否定し、部分性に全体性を付与するような刻々の明滅のみがたいせつで、これが技法的には換喩となる。換喩は交代なのだ。「わたしはわるくない」という自己言明すらこの交代のなかに置かれて、意義じたいを消滅させ、ただことばの痕跡だけがのこる。

いっぽう交代なくして部分という看板に全体をペンキ塗りしようとすると、じつは看板の地をペンキの色が上塗りで隠す、暗喩しか起こらない。むろん交代を連続させる換喩は構文の生成にかかわるが、暗喩は静止的な図柄にすぎない。しかもそれは静止性を勲章にしようとする後退なのだ。「AはBである」という構文のほとんどは、うごきをとめる。陳腐な暗喩があるのではない、暗喩そのものがいまでは運命的に陳腐なのだ。むろん例外はあるが。

AとBにしかかかわっていない暗喩の原理は「面倒くさい2」だろう。いっぽう換喩の原理は、たとえば算術でいえば「2」を「3」で割って、そのあまりを進展のなかに続々とのこしてゆくことではないだろうか。しかも「それの可能性」が「それ自体」であることで、面倒くささすら、そこに起こっていない。

ところで、「わたしはわるくない」と、相手(藤竜也)に死への蓋然性をほどこして叫んだ『私の男』の二階堂ふみは、言明と行動が近接していた。だからこそうつくしかった。
 
 

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2014年08月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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