命法
【命法】
分裂や矛盾をしいる否定命法をきらう。よっていまは詩に否定命法をまぜることをほとんどしない。言語学的にはこんな事例だ――
わたしのいうことに従うな
シロクマについて考えるな
どうです、不快感が募ってくるでしょう。
否定命法でない命法なら詩のフレーズにもありうるかもしれない。それで急遽、作例してみる。
めしいるひとみへ瀧の静止をたてよ
いやはやなんともロマンチックだ。感覚としてもふるい。語調に、「作者」がきわだっている。そのつぎに、「読者」へそのきわだちが架橋される。高揚から高潮へ。ということは「読者」は「作者」によりあらかじめ相似物として類推されていて、この意味からこれは、命法とみえて内実が暗喩なのではないか。暗喩の本質、「強制」とも命法が親和している。むろん現在では作者も読者もいない。詩の繙読の位相には無名の寄り添いが近接をしめしながらしずかにあるのみだ。
命法は「ゆけ」など単純なものをつうじて、方向のみのこしてメッセージの内実を減却するか(黒沢清『アカルイミライ』/椎名林檎「宗教」)、命法の届け先「二人称」を閑却したうえでむしろ発信元の自己へつめたい限定をかけるしかない。それを知る田村隆一なら、かつてこんなフレーズをつむいだ。
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ
それでもこれが暗喩たることはまぬかれない。像だけがあって、方向がないためだ。命法を換喩にちかづけるには、命法がふくむ内実をさらに果敢に自壊させるしかない。それで稲川方人はかつて、《反響するな/露出せよ》とつづり、それをさらに《くつがえよ、岬の華の乱立の/その非情の無言に露出せよ》へと変遷させた(『封印』)。けれどもおもたい。「くつがえよ」という文法破壊だけで充分なのではないか。とうぜん詩の作者に価値が置かれないいまでは、命法が詩篇の滑稽部位を印象させてしまう。
稲川のつむいだ命法で好きなものならたとえば『償われた者の伝記のために』にみられる以下だ。
まだ満ちない
その子らの煩欲のために
あらゆる拿捕は遅れよ。
命法の想定する作用客体として抽象的な「拿捕」が設定されていること、しかも命法が行為の集中性、方向性にやどる通常があって、その前提を逆用し「急げ」とは正反対の「遅れよ」という命法をたてることは、命法じたいを内在的に不如意にする。そうした着眼はさすがとおもうが、このフレーズから、稲川が暗喩と換喩の中間にいる詩作者だという事実もより明瞭にうかびあがってくる。「あらゆる」の強圧がひっかかるのかもしれない。このフレーズに換言は成立するのだろうか。作例してみる。
ながれるめぐりへむけ
ひとつの拿捕も
ひとのなかで遅れる
ああ、やっぱり命令形語尾では締められない……