空っぽ
【空っぽ】
乱暴な言い方だが、興味をひかれない詩は、うじゃうじゃゴテゴテとして、初見からげんなりさせることが多い。語彙やインスピレーションが豊富なわりに、似たような構文が単純に連鎖していたりもする。もとめているものがちがうのだ。たとえば「書かれていないこと」が「運動」し、それで世界の構造をかえてくれる詩――損得でいえば、そういうものが得をあたえる。あらわれている効率のよさに感心して、それが再読の誘因ともなる。
「部分」の集積によって「全体」をなそうとする詩篇は、詩のなにかをまちがっている。全体化など詩にありえないのだ。たとえば俳句が最も全体化をおもわす詩型だろうが、その全体化すら部分性を突出させている。つまり「それ自体」が「それ以外」と拮抗するかたちで、残酷になげだされている。排中律を起動させるただの「芯」でしかないことこそ俳句の本分だろう。
「うじゃうじゃしている詩」はみずからがみずからであることにみちたりる、という意味で自同律的だ。究極的には、それ自身がそれ自身に類似しているこの密約が暗喩的といえる。暗喩構文A=Aがつかわれていなくとも、そうした自己契約のありように、暗喩性が不随意的にひめられている。いっぽう興味をひかれる詩は、「それ自体」と「それ以外」がその場(=「現下」)で交錯をつくりだし、自己組成のなかにある「領分」を不安定化させたり、内外のくべつを脱意味化したり、寸法を無効化したりする。そこでは「部分の定着」が「定着された部分において」不可能、という厳格がつくりだされる。
「ない容積」だけがことばのつくる容積だとするこのことが、まさに詩に特有の運動性ではないか。この運動性こそを換喩とよぶべきだ。多くの修辞学は、換喩と省略をはきちがえている。換喩の例示に多い「村上春樹を読んでいる」はほとんど考察にあたいする構文ではない。類似認知ではなく隣接認知によって部分が親和的に召喚され、なおかつ表現レベルでは部分もろもろが非親和的に隣接しているさまに、たとえば「あいだ」が介在していないか。そういうものを測定するのが読解なのではないだろうか。
坂多瑩子の第一詩集『どんなねむりを』(二〇〇三年、夢人館)をさきごろ入手した。坂多さんは生年からすると第一詩集刊行がとても遅かったのだとびっくりするが、それもあって詩作行為の雌伏が自己愛的な「わかさ」を初発から拒絶している(「みずみずしさ」ではない)。女性詩人にありがちな、抒情的な自己身体のあぶりだしもみられない。簡単な語法なのに峻厳。そこでは「書かれないこと」がたしかに運動して、世界観の変貌をせまる哲学をつくりだしている。最初から暗喩ではなく換喩に照準がおかれている感性の成熟に畏怖するばかりだ。そうした一篇――
【空っぽ】
坂多瑩子
そらという字はからっぽのから
空はやっぱり空っぽなんだと思うと
すこしばかり安心する
しかし空っぽといっても
たてとよこと高さがあるのだろうか
底の部分は
と考えていたら
あしたはあけてほしいな
空っぽにしておいて
と電話であなたが言った
いいよと答えた
慣れてくると
気づかないですむものがある
何かが空っぽになる
かるい
とてもかるい空が
するすると
こころのなかに入ってきて
いいよと答えた
(全篇)
「空」=「空っぽ」という領分の規定があり、それがまず空無と有のあいだでゆれる。そこへ「たて」「よこ」「高さ」といった寸法を厳密に介在させようとしてそれも「言いさし」に終わる。そうなって空無がいわば不気味に生物化される。それで自己身体への適用が開始されるといっていい。
詩篇の白眉は第五聯だろう。ことばの綾で、主体にたいし「空っぽ」を提案した「あなた」。第五聯はこう書かれている――《慣れてくると/気づかないですむものがある/何かが空っぽになる》。ここでは意味化が未然だ。「あなた」のことばから主体に対象化が起こっているとして、それに対象性を負わせない魔術が、「空っぽ」の分与だったのではないか。そこでは「気づかない」ことは自己にまつわっていて、それが「慣れ」だという意味形成の遡行もある。これこそが自己の容積化で、充実。たしかに書かれているのは詩文と同時に哲学なのだった。
容積化は脱容積化とつながる。あるいは自己の輪郭は周囲との境界設定をやめる。それが第六聯――《かるい/とてもかるい空が/するすると/こころのなかに入ってきて》。これも言いさしによる部分化。しかも「こころ」は上方から下方への方向化のなかにあやうく定位され、こころとからだのくべつを無効にする。つまり、こころもからだも、「空っぽさにみちている」ことで、「かるさ」を得ている。むろん湿りなどそこに介在しない。世界は上下方向の連続のなかに主体とともにあふれているが、その契機をなしたのが他者の声なのだった。
詩篇で瞭然としているのは主格節「わたしは」が徹底的に省略されている点だろう。短歌が参照されたというより、詩の哲学性の必然として、主体をあらわす語が消去されている。しかも《いいよと答えた》の反復は、「歌」特有のルフランを形成している。いずれにせよそれら消去と反復に、安寧とともに恐怖をもみない読解など、ありうるはずがない。すばらしい詩篇だった。