富岡八幡宮例大祭
昨日は朝から女房と、三年に一度の本祭となる富岡八幡宮の例大祭見物。五十五の町区分(丁目区分)になる「大人」神輿が続々繰り出して、永代通りに面する富岡八幡の入口で、八幡様の宮司からお祓いをうける。すでに水をかぶってしたたっている神輿と勇猛な担ぎ手たち(とはいえ女性もいる)。神輿は回転運動をして正面を向き、高台の宮司がお祓いをすると、加護をうけたよろこびをあらわすために、神輿が持ち上げられて上下したり、ちいさめの神輿ならさらに上下左右に波打ち動作をしたり、飛ばしをしたりする。しかも見物の拍手にあわせて担ぎ棒をになう手を打ったりもする。そのうごきに勇猛の優劣、男ぶり、操り巧者ぶりが競われているようだ。
五十五の神輿登場は、七時半から。すべてのお披露目が終わったのが九時半ごろだったから、ほぼ一本の大スケール映画を観たのとおなじ感慨だ。この朝からの部は、地元民〔ジモミン〕が大集結している趣がつよく、近所の担ぎ手を追うために、町ごとに住民が神輿とともにゆっくり移動してゆく。盆にあわせた祭りなので暑さ対策もあってか、派手な水かけのあるのが有名。水かけもゴムホースでシャワーをつくるものもあれば、水をためた入れ物から、桶で水を掬って高々と投げ、瀑状に落下させて、投擲に男ぶりをみせるひともいる。神輿のそれぞれは鳳凰を頂いているが、永代通りあたりは江戸時代なら海岸線ちかくだろうから、どこかで水をしたたらす神輿が海にちなむ龍のようにもおもえてくる。金色の飾りが鱗という見立てだ。
女房と立ち見していたのは、富岡八幡宮の正面、六車線ある永代通りの10センチ幅、5センチ程度の高さの中央分離帯のうえ。交互に男女四人の打ち手がいれかわる太鼓が神的な律動で空気をふるわせるなか眼のまえを神輿が通過してゆく。重さで担ぎ棒が肩にくいこみながら、地下足袋の足をリズミカルに踏んで気丈な表情をみせている顔が至近にとおりすぎてゆく。禿げ頭の屈強な壮年から、おミズ系のお姐さんまで、下町には下町特有の顔があって、それらが水にしたたっているのだから生々しい。周囲はやがて立錐の余地もなくなる。なにしろ神輿の繰り出し数が圧巻で、神田祭、山王祭とともに江戸三大祭とよばれる看板に偽りはない。
神輿のうごきがすごいとおもったのは町区分でいえばとくに冬木だろうか。行列の構成は町によって区々で、纏いを突き上げて男衆が踊りをみせる町もあれば、太鼓を載せた山車を先頭に置いて、律動を強調する町もある。だいたいが先頭に法被姿の少女の隊列を置いて、彼女たちがもった笏を鳴らしてまず練りあるくパターンが多いのだが、女房の住居区分の下木場はとくにそれが見事だった。赤い法被を着て、笏を地面に立ててシャンと鳴らす以外に、地面に棒の先を這わせてシャーッという音を予感的にひびかせる工夫があった。たしかに町ごとに気合がちがう。
中央分離帯に立っていると、やがて眼前の神輿の繰り出しにくわえ、背後でも逆方向の神輿の練り歩きがはじまる。永代通り、門前仲町の交差点で折り返して、それぞれの神輿が八幡様の正面にむかうためだ。熱気をおびた人波に囲まれ、ふたつの神気にからだが逆方向に斬られる恰好になった。地元にいるからとはいえ、ほんとうに特等席を確保したのだなあと体感がたかまった。
女房とはこの午前の部を見物して引き上げたが、午後の部では方々から祭見物が大挙押しかけて、新聞発表では総勢32万人にまでふくれあがったとか。朝はまだ眠っていた呑み屋などの商店も、永代通りの歩道から深川不動までつづくテキヤさんの出店に負けじと、飲料やツマミを路面売りしだして、猛暑のなか雑踏がゆらぐようだ。そのなかを札幌へ帰るため、旅行鞄を提げて逆方向へあるいていった。ひとり帰るさみしさを「逆方向」がたかめる。そういえば一方向にながれる雑踏を、ひとり逆方向にゆくというのは、スピルバーグ映画のモブ演出にままみられる。おもいかえせば、三年前の本祭は小池昌代さんと見物していて、彼女からいろいろ地元ならではの知識を教えてもらったのだった。
八幡宮の祀る八幡神は応神天皇が由来で、武運にかかわる(富岡八幡宮では相撲取りが祀られている)。『古事記』中の天皇だが、帰りの飛行機では松本輝夫『谷川雁・永久工作者の言霊』(平凡社新書)を読んでいて、ぐうぜん谷川雁がこども用に書き換えた『古事記』国生み神話の修辞のすばらしさに行き当たった。空間と霊気の把握が見事なその一節を引いて、この小文を終えよう。
がらんどうがあった。
大地は、まだなかった。
がらんどうしかないけれど、まんなかはあった。
そのまんなかを見あげると、高いなあという感じがあった。
とうといものがあるぞという感じだった。
この感じがあつまり、けもののあぶらのように浮いてきた。
くらげみたいにただよいはじめた。
そこに、春にもえる葦の芽のかたちがすうっと立ちのぼった。
たてとよこ、空と雲、さらさらしたものとねばっこいもののちがいができた。
ほう、きれいだなあというため息と、ああ、力強いなあというため息が生まれた。
その思いが男の神と女の神になった。
男神、名はイザナギ、女神、名はイザナミといった。