Strawberry Fields forever
【Strawberry Fields forever】John Lennon
*Let me take you down, 'cause I'm going to Strawberry Fields.
Nothing is real and nothing to get hung about.
Strawberry Fields forever.
Living is easy with eyes closed, misunderstanding all you see.
It's getting hard to be someone but it all works out.
It doesn't matter much to me.
*
No one I think is in my tree, I mean it must be high or low.
That is you can't you know tune in but it's all right.
That is I think it's not too bad.
*
Always no sometimes think it's me,
but you know I know when it's a dream.
I think I know I mean "Yes" but it's all wrong.
That is I think I disagree.
【とわにイチゴ野】拙訳
*きみをつれだしたい
いっしょにイチゴ野へ
ほんとうらしさのなく
煩いもない、あの
とことわのイチゴ野へ
めつむって暮らすのはたやすい
誤りはすべてきみの眼より生ずる
ひとかどの者となるは難し、だが
すんなりうまくゆくこともある
まあぼくにはどっちでもいいが
*
ぼくの樹にはだれものぼっていない
うれしくもあり哀しくもある
きみは波長をあわせない、それでいい
ぼくだってそんなに悪い気がしない
*
いつでもではなく時々現れるのがぼく
そんなありさまを夢とよぶのだな
「是」とつたえてもみなひっくりかえる
だからあらかじめぼくも否定するんだ
*
今朝、出勤のバスにゆられ、あたまのなかにこの歌が鳴った。転調が天才的なポール・マッカートニーの「ペニー・レイン」と両面シングルだったこの曲は、ぼくには分裂寸前で浮遊している曲調のようにおもえる。昨日の谷川雁のことばを借りれば、「感じがあつまり、けもののあぶらのように浮」き、「くらげみたいにただよいはじめ」る音時間。
じっさいは転調がないのに、主調音がみあたらない奇妙な感触だ。ながれおちてゆくものが、どろりとろけてゆくようなスローモーションの崩壊感を、分厚さのないサイケデリックなアレンジが支えている。ジョンのメロトロンとジョージの繊細でフォーキーなピック弾きの協和。そこに弦楽隊とホーン隊とシタール、電子加工音と分類不能なエレキギターのエフェクター音がくりだされ、すきまが膨張して音場が破砕されそうになるその寸前を、溜息と掠れの度合いをつよくしたジョンの声が、一種「人間性の特権」でまとめあげてゆく。この反世界では「まとめる」ことが「すべる」ことなのだった。
コード進行はネットで分析されているのであらためてしるさないが、歌メロのつくりなす感情は以下の変転としてぼくには聴える。
・【Aメロ】「無媒介の浮遊感 (Let me take you down…)」→「暗転とキナ臭さの増強、ワグナー化 (I'm going to Strawberry Fields…以下。しかもそれがしだいに増強されてゆく=「アイ・アム・ザ・ウォルラス」にあるものが、ちいさな単位性でそうしてつくりあげられる)」→「はやすぎる破滅的決定 (hung about)」→「ファンファーレの解決をおもわせる、しかし唐突な復調 (Strawberry Fields forever)」
・【(Aメロを裏張りしてゆくような=つまり「順番」なのに「重複」と「逆像」でもある)Bメロ】「温厚と諦観 (Living is easy…)」→「Aメロ記憶の揺曳 (misunderstanding all you see)」→「英国的に抑制された瀟洒美〔チェンバロに似合う旋律と装飾的なフリル感〕 (It's getting hard…以下)」→「二度目であることで眠気までともなってしまう解決=復帰 (It doesn't matter much to me)」
素早いのに、速度感が消されている。ジョンによる分裂型の名曲ということなら、「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」もあるが、あれはちいさな曲どうしを「展開的に」コラージュしたものだ。曲の時間は、色合いの爆発をともないながら、ともあれ「流れる」。それでも「大団円」をとりだす手つきには冷笑性がみられるが。
それにたいして「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」は稠密化した小節構成に「内在的なズレ」を組み込んで、「つながっていないのに」「つながっている」一曲性をミニマルに実現してゆく。「ウォーム・ガン」のように明瞭な「つなぎめ」が感知されない点に、ありえない音の時空のこわさがある、といいかえてもいい。
「つながっていないのに」「つながっている」ことは、出現性が第一義的には隣接感を生成する音楽の宿命にたいし、その隣接性の真芯にむけて否定をくわえることだ。飛躍をつかわない否定。ほんらい分裂がかたちでないのに、それすらもかたちにしてみせる、時空上の「地-図」の反転というべきか。隣接そのものがうさんくさい隣接性を内包してしまう、その当の質量どうしは、じつは質量の自壊のほうに表情を向けている。この意味で「ストロベリー・フィールズ」の詞ではなくメロディは、隣接を人質に脱隣接を志向する換喩詩の理想形を具現している。ぼくは少年のころ、この魅力をことばにすることができなかった(だからいま、これを書いている)。
この歌メロはむろん単純で記憶可能なのに、人間の所業を超える境位にあるようにおもえてしまう。ここにLSDの恩恵をおもうのもふつうだろう。「つながりでないもの」が「つながり」になり、「かたちでないもの」が「かたち」になるとき、あらわれているものの背後が問題になっている。なにかある、というこの感じに、すでに、とうとさが揺曳している不可解な二重感。そういえばASKAのつくった「Say Yes」もさきごろ覚醒剤の恩寵が関与していないか取沙汰されたが、転調推移と「つながっていないのにつながっている」展開がやはり奇蹟的だった。
「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の完全性は、ビートルズ・カヴァーをあつめてアルバムをつくったトッド・ラングレンが、この曲のみ、変化を加えず、完全コピーで収録してしまった逸話にあらわれている。なまじいの容喙などゆるさない張力が、この隙間だらけの音時空には張りつめていたのだった。
曲調そのものが換喩的な「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」では、意味の減少性と欠落そのものを形成力の実体としている歌詞があって、ぼくの用語でいうならその歌詞は「減喩」的だ。歌メロは脱連続性の連続を実現して過激なのだから、歌詞の形成力を減少させて歌メロに添わすことも「善良/穏当な判断」といえる(ぶきみな「無頭性」の実現ともよべるが)。むろんその歌詞は、ふくみがあって、それじたいが消えそうで、それでも「すべてがあらわれていて」、訳しにくい。口語性もつよい。ネットをみても、翻訳挑戦者の苦労がつたわってくる。拙訳は「しめされてあるもの」を活かしたうえで文脈化をほどこした。つまり意訳ではない。なお、Strawberry Fieldsは母親を事故で失った少年時のジョン・レノンが一時期暮らした養護施設の名だそうだが、伝記性を度外視して「それじたい」を訳した。
「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の歌詞のようなものなら、詩作することができる。だがその歌メロのもつ組成状態に詩作をちかづけるのはとても困難だろう。このときふと脳裡をかすめるのが杉本真維子だ。「びーぐる」24号に掲載されている彼女の新作詩篇「音楽堂」。そこにも脱連続の連続が、暗喩の効力など度外視してひろがっていた。最初の二聯だけ引こう。
リコーダーを磨く
その腕に、蒼い萼をかぶせて
あなたがはげしく鳴っている
わたしは、耳の準備に忙しく
わずかな旅費を無心してむかう
すこやかな唄口、漏れた一音に浚われ、
ぐねぐねと塹壕に行き着く