露呈
【露呈】
露呈によってさらされる対象とは個物ではないのではないか。宝箱のなかのふしぎな石のようなものをまずかんがえ、その列にたとえばポルノグラフィにおける性器などもくわえる経緯をおもえばいい。なんらかの偶然作用のもと、物理的に開陳されるそれらは、隠されていたものが顕わになったその瞬間に、「興味」や「欲望」の本質として、退屈さの相貌をおびてしまうはずだ。
むしろ露呈されるものは、いつでも、うごいている現前ではないか。もっというと、うごいているから、とらえがたい変化の無限連鎖。つまり露呈を視る者が露呈によってつかまされるのは、対象把捉の不可能性というべきものなのだ。それは刻々脈動しながら、それじたいの同定性をべつのものに更新しかえる、深度すら測ることのできない表情ともよべる。「個物の存在」と「個物の表情」には決定的な離反があると銘記すべきだろう。
これらのことは、成瀬映画のヒロインの類型をおもいかえすと容易に理解される。高峰秀子が露呈するものは、「個物の表情」が素早い変転によって把捉できなさにうごめいている、とりあえずは驚愕に類する表層だ。それは反射行動と類型化の累乗なのだから、むろん存在の立ち位置、あるいは存在の映画的な周囲もアフォーダンス的に活用されている。けれども総括が即座におとずれる。彼女が露呈しているものが要約不能でないとするなら、それはまず動物的な狡猾さと縮約されてしまう。どんなに迅速でも、ひろがりに縮約をほどこす絶望が、彼女の演技の存在論なのだった。
成瀬映画の原節子は、認知的な動物性ではなくもっと存在的な物質性を露呈する。表情変化があってもそれらは唐突で奇抜でゴツゴツしており、周囲や運命との調和を欠いているがゆえに、個物的な実相まで顕わにしてしまう。それが高峰とはべつの動物性となる。高峰秀子の露呈する変化が、俳優技術的には完璧であってもどこかで愛着対象にならないように、原節子も「技術と存在」の均衡を破られて、愛着対象であっても俳優技術が不全に映る。ところが認識を一歩すすめると、俳優技術の不全さこそを俳優において愛する倒錯が、観客と俳優を、ともに救済の円にふくませてゆくと結論できるようにもなる。
成瀬映画においては高峰秀子も原節子も葛藤の産物だ。このとき司葉子の無葛藤こそが奇貨だと気づく。彼女はさらに俳優技術がひくく、画面に映っている刻々にあらわれている葛藤は、すべてシナリオレベルに還元される意味に誘導されていて、不透明な厚みをもちえない。俳優技術の質も愛着対象であることもそのまま露呈されて、そこから高峰や原のような「個性」にではなく、女性性全般のもつ細部の風情といったものに、自分の「現下」をはかなく移し替えてゆく。みられる表情変化も、変化の本質に反してすべて観測できるものだ。彼女はその意味で不透明さを玉条として高峰や原が画面に存在するようには、「画面に映っていない」。だから彼女にたとえば十和田湖の水明かりがからむとき彼女の身体以上に、水明かりのほうがみえてしまう。複雑な言い方だが、個物性が滅却されている――そのことが露呈されているのだった。
いずれにせよ、映画は観客と契約をむすぶために、露呈を組織しなければならない。くりかえすが、露呈されるものは個物的な静止ではなく、変化の渦中にあって把捉できない速さなのだ。それは長篇小説でもおなじだろう。いま蓮實重彦の『『ボヴァリー夫人』論』を三百頁まで読みすすめたところだが、彼の論議のくりだしかたは、章ごとに組織される主題系が一変しても、一定している。フローベールのテクストの細部矛盾を露呈のなまなましさととらえ、疎略な要約に代表される静止の付与を、うごきつつある対象のとらえがたさへむけて開放し返す「通例外し」と「テクストの存在性の擁護」がそこに貫通されているのだった。
とうぜんジェラール・ジュネットへの嫌悪が顕わなのだが、蓮實の今回の大論は、「記憶されるべきもの(=それはテマティスム構造批評における細部定着に資する)」と「記憶できないもの」のあいだで、これまでになく軋みを演じているようにみえる(それゆえに抽象化にもとづく操作がそれじたい大胆な「物語否定の物語」を付帯させてゆく快感がない――それは書誌に忠実であろうとして選択される、日本語としては重たすぎる複文構造の連鎖の結果でもある――書かれているものの長さが不意に納得できなくなるような事態は、たとえば蓮實の最良の「小説」、『凡庸な芸術家の肖像』にはなかった「新機軸」だ)。
蓮實がくりかえし注意喚起することのひとつは、ロラン・バルトの援用による。つまり「一文」を熟考しそこからなにかの普遍を導こうとする言語学的なアプローチでは、「記憶できない」分量の文が(出鱈目さと整合性を相伴って)集積されている長篇小説が、けっして精確な動体視力の視野に収まらないということだ。驚愕の感知――露呈の認識――露呈されているものは把捉不能性=記憶不能性だ、という連鎖がたしかにここにはある。ところがその指摘のために、小説が加算しつづける細部どうしの矛盾が記憶もしくはマークされていなければならないのだから、蓮實のおこないは隘路のなかにあるか自己矛盾のなかにあるのかどちらかだ。このときテクストへの愛着深度だけが、批評の浄罪をまねくだろう。
相変わらず批評主体をどう言明するかでは、彼の文章は間接的な(勿体ぶった)屈折をたどる。「『『ボヴァリー夫人』論』の著者」といった客観化がほどこされる一方で、書誌的な平叙文では「蓮實」があらわれ、さらには批評の推進者としてはいまではもう禁句にちかくなった「われわれ」が適用される。「われわれ」は蓮實重彦とその周辺の権威の総称ではない。そうではなく、蓮實と、その文章を読みすすめている読者との共謀関係のことだ。ほかに言い換えのきかない緊急避難性から「われわれ」の語が選択されていて、じつはそれが『ボヴァリー夫人』におけるフローベールの書き出しにある主語「僕ら」と、策謀的に共振している。
言語学のように、一文を精密に操作するのは批評的な頽廃で、小説の読みではその組成と自己変化こそを視野に置くべきだという立脚は一貫している。ところが論が三百頁ちかくになって、一文とかわらない細部への考察がスリリングにあらわれる。フローベールが自由間接文体におちいっている部分の喚起がそれだった。叙述文にふとはいりこんでしまいながら会話引用の符牒のない局所。そこでしるされている「感情の露呈」はだれのものなのか。作者、話者、読者、小説内人物――それらすべての中間にある、規定できない領域こそが感情を露呈しているのだと、蓮實はデュクロを援用してしめす。「それじたいをつかめない」「細部の」「露呈」が自由間接文体の極限に見え隠れすることは、そのすぐあとで蓮實が指摘する夫シャルルのみが気づかない、ヒロインのエンマの華奢な足の踝の魅力、その生々しさとも同位なのだった。
ことばが行使される環境=世界へとさらに考察が移るにせよ、認知言語学でも、例文はほぼ一文単位だ。そこには納得だけがあって驚愕がないし、把捉不能なものへの謙虚な敬意がいつもそこなわれているきらいもある。だからこの本では自由間接文体にたいする考察が、極点的な細部と組成全体を協和させるものとして想起されている点はまちがいない。ただしそこでも細部をじっさいは単純さとしてみる眼差しが温存されてしまう。だからさらに必要なのは、認知的な詩学というべきものではないのか。
自分にとっては不案内だった三井葉子を、追悼対象として「びーぐる」24号が特集してくれた。「驚愕」的な詩篇がたとえば以下のようにあった。
【はなの傘】
三井葉子
やわらかにあなたが寝ていて
わたしはきょうの絵日傘
あしたのから傘
わたしは茎のようにやわらかになりながら
かたちないあなたにかける傘をかける
かたちないものにいそぎながら
傘をささずにいれましょうか
はなをかざらずにいれましょうか
そんなによいものが寝ているうえに
よいおとこのうえにはなの傘を
一読、女性的な語調がある。だがむろん、主題となっている「傘」を、女性的なまごころをしるす間接的な媒介とでも「要約」してしまえば残余のない詩篇では、これはない。傘は実体化をゆるさない。それで「きょう」と「あした」にぶれ、その同一性も「絵日傘」と「から傘」にぶれている。たぶん戸外で寝ている美男に、雨にふられるという状況が加算されて、そこへ近づき傘をさしかける構図、方向性のすべてが、「想像的に」展開されているだけだ。「だけ」なのに、このようにして残余だらけとはどういうことなのだろうか。
自由間接文体では局所に帰属不能性があらわれて、それが作者・話者・読者・対象人物のあいだすべてにわたる中間領域を指示した。そのながれでいうと、三井葉子「はなの傘」では、局所は全体に揮発拡散されて、すべてが帰属不能、自由間接的、そして自由間接文体どうよう、共感形成的で、そこでかくれされた驚愕性をおびているのだった。「一文」に支配されがちな認知言語学が対象とすべきものは、まさにこの「はなの傘」がそれじたいでしるしている「分量」なのではないか。
むろん局所が全体に瀰漫しているといっても、この「はなの傘」にはめざましい局所がある。以下だ。
わたしは茎のようにやわらかになりながら
かたちないあなたにかける傘をかける
「かける傘をかける」ではたしかに文法が壊れている。しかしこの壊れは情の表現をかんがえれば「必然的な(「論理的」ともよべる)壊れ」なのだった。それは自由間接話法が、直接話法と間接話法の分離を無効化する「壊れ」だという点と同位だろう。
「傘」ついでに岡井隆の傘の歌も最後に掲げておく。一首は『禁忌と好色』の劈頭、エピグラフ的に掲げられている。
歌といふ傘をかかげてはなやかに今わたりゆく橋のかずかず
2014年08月21日 阿部嘉昭 URL 編集
阿部さんの文章って、多弁にして空疎な感じですね・・応援してますので頑張ってください。2015年02月09日 通りすがり。 URL 編集