自体と以外
【自体と以外】
昨日の夕方、蓮實重彦の大著『『ボヴァリー夫人』論』800余頁を読了したが、300頁の段階でおととい中間的感想として書きつけた印象に、あまり変化は出なかった。ただし途中の感想で終えるのもフェアではないので、もうすこしこの本の「全体」をとらえてみようとおもう。媒体に発表する書評論文ではなく、時間を節約してネットに載せる感想文なので、具体的な引用を極力ひかえるが。
本章は10章に分割されている。進展的というより、べつの主題系によってフローベール『ボヴァリー夫人』への分析(アプローチ)を章ごとに変転させてゆく気味がつよい(それでもそれは次第におおきな合流をみるが)。ⅠからⅩは、順に「散文と歴史」「懇願と報酬」「署名と交通」「小説と物語」「華奢と頑丈」「塵埃と頭髪」「類似と齟齬」「虚構と表象」「言葉と数字」「運動と物質」と題されている。一目瞭然で「AとB」による対比形式が章題に共通している。
とはいえここでの「と」はドゥルーズがゴダール映画の(カット)法則とした「とet」ではない。ドゥルーズの「et」は無媒介で暴力的でスピーディな「並列」(リゾーム状に進展できるもの)を意図していた。これについては平倉圭が名著『ゴダール的方法』で具体的なカット進展を精査することで批判をくわえている。彼によれば、ゴダールのつなぎの法則とは、類似性を隣接させることだった。ぼくなりにいいかえれば、「暗喩性を換喩性により、極点単位の精確さで破砕すること」となる。
『『ボヴァリー夫人』論』の「と」はこれらともちがう。対比形式に期待される正反性をほどき、フィクショナルに対比された任意的な二項を相互進展的に記述することで、その悪無限的な「もつれ」からなにかを見出そうとする――最良の「と」はここではそのように発現されている。そうなっていないのがたとえば「散文と歴史」で、マラルメの「詩の危機」に先駆けて、小説という媒体誕生直後の「歴史」に、すでに「散文の危機」を見出していたフローベールが考察される以上、「散文と歴史」が「散文の歴史」に代位されるほかないためだ。最良の章「塵埃と頭髪」なら「塵埃の頭髪」とはいいかえられない。
蓮實のアプローチはこれまでと変わっていない。端的に小説的散文の危機とは、書かれていないことが読まれてしまう受容共同性にあるということだろう。たとえば『ボヴァリー夫人』は多くの先行論者に「現実と夢想をとりちがえるエンマ・ボヴァリーが自殺する物語」と要約されている。ところが「エンマ・ボヴァリー」という記述はフローベールのテクストに一切ないし、ボヴァリー夫人は三人出てくるし、自殺の記述は素っ気ないし、自殺後にも小説はつづくし、エンマの自殺の動因も純粋に経済的なものなのだから、そうした要約は「テクスト的な現実」に入り込んでいない――そう蓮實は強調する。
蓮實のしるすことを敷衍してゆけば、「テクスト的な現実」とは以下のようになるだろうか。「作者」や「時代」からの照応「以外」に、テクストには作者により付与されたそのテクストだけの内在法則があって、そこにこそ運動性や内部照応が加算される。同時に内在法則に縛られたはずなのに、細部に矛盾が生ずれば、それがテクストの生々しさを露呈させる――と。蓮實にはフローベールに通例的に規定される「レアリスム」は否定的な色合いでしか眼中にない。むろんフローベールの視覚的描写は、必要いがいを記述する不穏をはらむ。ただし同語の使用を避けるために文体の彫琢鏤骨に励んだ推敲者フローベールという伝説は、蓮實の眼中に、章を追うごとに、次第にはいってくる。
小説的テクストがそれ自体のみの内在法則しかもたないとすれば、そのテクストはそれ自体のみを形成するという意味で、排中律を起動させる。ところが「それ自体」は「それ以外」へかならず親和するものではないだろうか。つまり「現実と夢想をとりちがえるエンマ・ボヴァリーが自殺する物語」という誤解的な要約も、社会学ではなく文学的な意義をもつはずだ。たとえば以前の蓮實も考察対象とした夏目漱石なら文学の原理を「F+f」という。Fを概念、fを情緒とまとめてもいいが、Fとfは相互にたいして「それ以外」だという点が忘れられてはならない。とすると「書かれてあることだけが読まれるべきだ」という蓮實の主張が、「書かれてあることがもたらす作用も読まれるべきだ」よりも、相当に狭隘で窮屈だとわかる。単純にいえば、蓮實の主張は、詩の読解には通用しない。
じつはこの点で蓮實じしんの立脚がブレている。たとえば二項対立的な章「華奢と頑丈」はこの長大な書物で初めて蠱惑的な魅力を放つ章なのだが(論及するフローベールのテクスト細部が「人体」にかかわる具体的な物質性をおびてくるためだ)、そこで読者が接するのは、「都会性と農民性」に還元される「華奢と頑丈」である以上に、「手と足」の交錯であり、のちの「類似と齟齬」の伏線となるエンマとその夫シャルルの「相似性」なのだった。ここでは対照性をつなぐ線以外に、さまざまな線が交錯してきて、じつは対照性が消され、そこへ相似性が代位してくる。論旨の成り行きは錯綜的だが、読者はテクストから抽出された線型を読む誘惑にひきずられてゆくだろう。ところで、「テクストから抽出された線型を読む」ことがテクストそれ自体を限定的に読むことから離反していないかどうかが微妙なのだった。
「塵埃と頭髪」では引用された訳文から蓮實以上に読者のほうが、「それ自体」から「それ以外」への回路に直面せざるをえなくなるだろう。漱石流にいえばFが意図されている引用に、読者はfを読みこんでしまうのだ。なぜそんなことが起こるのかといえば、対比される「塵埃」と「髪」が、なにか物質的な魔法を演じるためというほかない。蓮實は周到に、まったく恣意的にみえるこの対比が、物質的・位相的に類似性をもつ、と前段で論述するが、塵埃的なものに髪的なものが召喚され、その逆の事態も起こるフローベールのテクストの内在法則が、いわばフローベールの個性という以外に根拠をもたない点に畏怖をおぼえる(蓮實じしんもそうしている)。このとき「小説の決定性とは決定不能性のことなのだ」という感慨をぼくはおぼえたが、これこそが、「それ自体にそれ以外を読むこと」なのではないだろうか。
むろん章内と章間がこの調子で展開しつづければ、『『ボヴァリー夫人』論』は蠱惑的な細部のみを抱えることになっただろう。ところがいま讃美した章においてもそうならないのは、先行書誌に気をとられるあまり蓮實の論旨がたえず迂回を挟むためだ。これほど参考文献の多い彼の書物はほかにはなかった。先行書誌にたいする振舞が「余分」を印象づけるとすれば、これまで「怪物的」と称されることもあった蓮實の著述が直観性と単純明快化から魅力を発していたことになる。つまり精査力ではなく、膂力の魅惑として蓮實著作があったと。むろんこの見解には初期の映画分野の著作や「進展がゆるやかな小説」として読まれるべき『凡庸な芸術家の肖像』を念頭におけば歪みがあるとわかるが、論述の迂回がこれほど疲弊をよぶ書物はこれまでの蓮實にはなかったとかんじる。
なにが問題なのか。むろんフローベール、ならびに『ボヴァリー夫人』には先行研究書誌がフランス本国に数多くある。それなら「それ自体」のプーレ、サルトル、リシャール、ランシエール(あるいは他国圏ではチボーデ)ていどにとどめ、もっと純粋な「それ以外」から論旨の補強をすればよかったのに、とかんじてしまう。たとえばジェラール・ジュネットでは『物語のディスクール』からの参照が多い。慎重に記されてはいるが、よく読めば貶価的な引用なのだ。ところがジュネットがその本で「それ自体」の領域としているのはプルースト『失われた時を求めて』であって(ぼくは『物語のディスクール』を記号論・物語論としてではなく、プルースト論として至芸だといまだにおもう)、ジュネットの物語論もまた、プルーストだけに適用される内在法則があるかもしれない。ところが蓮實は、そうした「それ以外」を、論旨の「それ自体」にむけて参照してしまうのだった。
いずれにせよ、先行研究の盲点を突くことを強調して、自説を展開するという「順序」を遵守する蓮實の論述は、「それ自体」を中心化する際の、余分な迂回をともなわずにはいない。むろん「読解の現在」あるいは「読解的な現実」はそれに食傷してしまう。
そうした自己中心化にともなう「書き方」は章内では言い換えられ、おなじ言い回しが回避されているが、これだけ長大な内容になると、やがておなじ言い回しを避けられなくなる。それはおなじ言い回しや同語を避けようとして推敲に呻吟したフローベールとは「似ていない」――つまりフローベールとの「親和力」を欠いた振舞といえるのではないか。あるいは参照系におおいかぶせて自説を中心的に上乗せするのは、位置的にではなく意味的にちかいもので奥行を隠すという意味で暗喩的な振舞だが、それはプルーストが「比喩がつかえない作家」とかんがえたフローベールの脱・暗喩性にも離反するのではないか。すくなくとも名文家フローベールでは「語調」に辟易するという事態は起こらないだろう。あるいはフローベールでは記述されるべきもの以外は記述されていないが、蓮實はその禁にふれているということでもある。
参照系に説得力を欠いてまでサールやローティが導入されるとき、「小説が出現した時代=近代」を照準に置いていた論考に、現代性がまぎれこんでいる不純をかんじる。なにを防衛しているのかがわからない。あるいは蓮實がこれまでほとんど言及してこなかったベンヤミンについても、みじかい参照があるが、これもまた「それ以外」の領域――『複製技術時代の芸術』からなのだった。
「類似と齟齬」では蓮實にいわせればこれまで先行研究のどれもが考察してこなかった「エンマとシャルルの相同性」にかかわる指摘が見事に作動する。つまりエンマとシャルルのあいだに親和力が形成されていることになる。それならばなぜ、カップル同士がカットバックをつうじて相似的な悲劇に陥ってゆくゲーテ『親和力』を考察したベンヤミン「ゲーテの『親和力』について」が参照されないのだろう。これはベンヤミン『複製技術時代の芸術』が参照されてしまったから起こる不満だ。しかも「ゲーテの『親和力』」には、「ただ希望なき人びとのためにのみ、希望はぼくらにあたえられている」という、親和力を念頭にしながら、「それ自体」と「それ以外」の弁別を無効にする、いわば外延進展力が末尾にくわえられている。蓮實の文章にはそれがないようにおもう。むろんゲーテをここで導入するのは恣意ではない。フローベールどうようゲーテも「小説の形成期」を体現する作家だからだ(さきに漱石を例示したのもおなじかんがえによる)。
「類似と齟齬」では、「テクスト的な現実」からエンマとシャルルの相同性が摘出される。その契機は「父親が自分で連れていった」という記述が、同語やおなじ言い回しをきらうフローベールなのに、若いエンマとシャルル双方に、適用されていることだった。蓮實は例のように驚いてみせる演劇的な身振りを選択する。この「同一の文」が基準になって、その後のふたりへいかに相同的な主題が舞い込みながら、やがて同一性が軋みあう齟齬をも来してゆくかを蓮實は追ってゆく。このあたりは見事なのだが、むろん「同一性が継時的に相反性を組織してゆく」すがたは、「それ自体」が「それ以外」をふくむ事態の、変奏とよべるだろう。
けれどもこれがフローベール『ボヴァリー夫人』の「テクスト的な現実」=「内在法則」にとって驚くべき事態なのかどうかはよくわからない。詩には往々にして起こる事柄だからだ。たとえば詩篇内の「同語」関係はいわば「同語性」を微分するために組織される。語Aは最初の出現時に基準となりながら、その基準はつぎのAの出現時に侵犯され、微妙さ(これを時空のずれと略言することができるか)を付加されるためのものにすぎない。しかもこのことが同語間に律動をつくりあげる――というのは、いわば詩学上とうぜんのことなのではないか。つまり蓮實の驚愕の身振りは、小説性から詩学を峻別する立脚に生じているのだが、そのことの現在的な是非がよくわからない。たとえば伊東静雄『わがひとに与ふる哀歌』で、「有明海の思ひ出」の直後に、間奏的にはさまれた以下の「(読人不知)」はどうか――
深い山林に退いて
多くの旧い秋らに交つてゐる
今年の秋を
見分けるのに骨が折れる
ここでは「秋」が同語だが、それは「旧い」と「今年」でぶれるのではない。同語が出現することで、秋が内在的に「それ以外」のひろがりをかかえこんでしまうのだ。自己鏡像を主題にした石原吉郎の「像を移す」では動詞が「同語」となっているのがみてとれるが、じつは最大の問題は助詞「へ」の重複だろう。ここでも同語の出来は瑕疵とされるどころか、完全に方法とされている。しかも助詞「へ」は、位置と「それ以外」を同時にくみいれる助詞であることが詩的に増強されている。
私へかくまった
しずかな像は
かくまったかたちで
わずかにみぎへ移せ
像のおもみが銀となって
したたる位置で
したたるとき
私へやがて身じろぐのは
位置と位置との間〔あわい〕ではない
もはや時刻のかたむきである
蓮實が「律動」に無頓着というわけでもない。「言葉と数字」では『ボヴァリー夫人』中の数詞の探索が、かつての『大江健三郎論』とどうように開始される。しかも同語をきらうフローベールを立証するように「49」といった稀用数値まで分布している点が強調されるが、たとえば「42」についてはなんの指摘もないのだから、これはおかしな論理機制といえる。ともあれフーコー『言葉と物』でmodernの語をかぞえあげまでしたように、数値であれ何であれ、リストアップは一貫して蓮實的な方法なのだが(それにしてもくどすぎる)、やがて蓮實は「野蛮な」(もしくは蓮實用語でいう「愚鈍な」)方法選択にいたる。英語でいえば「One day」にあたるフランス語の「One」を数詞としてかぞえあげ、その時制的な根拠のなさへ、さらに無根拠に「翌日follwing day」が陸続してゆくときに、エンマやシャルルの破滅がリズミカルに記述されるという驚愕の指摘がつづくのだった。「3」の破局性はつづられるものの、「ある日」の強調からはじつは数詞の問題が跳んでいて、そこが逆説的な魅力と映る。なぜなら「One day」の「One」もまた、数詞の「それ自体」を「それ以外」へと転轍する、「決定性から決定不能性への移行」だからだ。このように書けば、蓮實の記述は「説話論的な経済性」により圧縮されたはずだ。むろん構文「それ自体」にたいし、リズムは「それ以外」を形成する。それは詩論の問題のはずだが、このことが散文論の考察のなかの「One day」の指摘に、矛盾として露呈している点が、フローベールのテクストのように生々しいのだ。フローベールの意図がいつも決定不能なように、蓮實の作為もどこまでが自覚的かじつはわからない。
概して蓮實の指摘は、正当性ではなく語り方のつよさにその意義を帰着させているのではないか。最終章としての圧巻さを帯びた「運動と物質」でもそうだ。ここではエンマとシャルルの「齟齬」が、物質性の差異として位置づけられる。つまり物質性を負わされたシャルルにたいし、エンマには物質性が欠落していると結論されるのだが、大論のこれまでを丹念に追ってきた読者は煙にまかれるのではないだろうか。たとえばエンマの毛髪が塵埃の「物質性」と溶解していたことが蓮實の文で感動的だったのだし、よしんば物質性が戸外を中心の居場所とするシャルルに付与されたとしても、「物質性がないという物質性」ならエンマにものこるのではないか。あるいはシャルルのほうに戸外性を振り分けたとして、馬車のゆれによって不倫への情熱をたかめてゆくエンマの「戸外」性はどうなってしまうのだろう。その章に内在する「語り方」だけが浮き上がり、細部は全体性のなかで「齟齬」を来している。
それでも「運動と物質」の章が蠱惑的なのは、リシャールをはじめとした諸家が「水」とエンマの関係を考察している先行書誌に、蓮實が居心地わるそうに参入しているためだ。たとえば仕種や動作などを考察の中心に置く蓮實は、詩的なものにつうじやすいバシュラール的なものを、松浦寿輝とはちがってほぼ度外視してきたのではなかったか。だからここでの蓮實の記述は、水に惹かれつつ、即座にそこから身をひきはがす、倒錯的な身振りを連続させることになる。ここも「露呈」部分として生々しい。蓮實みずからが「それ自体」と「それ以外」を点滅させているようにみえるのだ。そこでは山田𣝣による名訳が以下のように引用される。シャルルが独身時代のエンマに惹かれた一節――
あるとき、ちょうど雪解けのころで、庭では木の皮が濡れそぼち、屋根の雪が溶けだしていた。彼女は玄関口にたたずんでいたが、パラソルを取って来て、それを開いた。鳩羽色の絹のパラソルに日の光が透いて、彼女の顔の白い肌をゆらめく照り映えで染めた。彼女は傘の下から淡い暖かさにほほえみかけた。ぴっちり張った木目模様の傘の絹地へ、ぽつりぽつりと落ちる傘の雫の音が聞こえていた。
リシャールはここからフローベールの「水コンプレックス」を抽出し、「ぽつりぽつりと落ちる傘の雫の音」に「発生と死」の象徴を見、蓮實もそれに同意しながら、農作業におけるエンマの乳しぼりなどを話題にのせるのだが、見解はやがて物象のあらわれがまとう間歇性のほうに移ってしまう。「水」そのものを考察するのが厭だからとしかおもえない。惜しいとおもうのは、何度も形態についてするどい考察をしたここでの蓮實が、「パラソル」的形態そのものを『ボヴァリー夫人』中に「かぞえあげなかった」点だろう。
むろんこの部分の引用には「驚愕」した。前回のぼくの投稿が、まさに「傘」で終わっていたためだ。さすがにずっと蓮實重彦を読みつけていただけあって、彼とは「親和」していたというほかない。
本書ではこの「運動と物質」の章のあとに、終章が来る。そこで、エンマの死の場面が死の場面らしからぬ理由のひとつとして、そこに乞食の俗謡がはいってくる細部が強調される。最初、蓮實はその出所を謎めかすが(そこではウディ・アレンの映画からコーンゴールドの音楽を探索した往年の振舞が期待される)、あっさりそれがレチフ・ド・ラ・ブルトンヌが蒐集したものだという定説を解き明かす。解き明かしたうえでなお、その場面への俗謡の舞い込みが、フローベール自身の体験(記憶)の有無、テクストの由来的な異質性などから、いわば決定不能性をおびると指摘する。
これがこの大論の最終部分だった。つまり「テクスト的な現実」(それ自体)は最後に「決定不能性」(それ以外)を発散する、というのだった。とすればもともと、「テクスト的な現実」の擁護者として、語調に辟易させてまで「自体」を中心化する必要など、さらさらなかったのではないだろうか。決定不能性、相似性など、書かれるべきものだけが適確な長さで書かれればよかった。