に
【に】
ぼくの馴染みの博士過程の院生が、論文を書くとき主格助詞の「は」が「が」へ転用可能ならば、すべて「が」としたらいい、と語ったぼくのことばを、「呪い」と評してFBにポストしているのが可笑しかった。それほどの他意もない。「は」は「が」より強調をふくんでしつこく、文のおとなしく自然なながれを阻害するのだし、複文構造のなかで主格構文をしめすのにも主従関係にしたがい従構文中の「は」なら「が」への転用が適切だし、なによりも入れ子複文構造では「は」の重複が瑕疵と映るためだ。
「てにをは」でいえば、じつはいちばん厄介なのが「に」ではないだろうか。私見では「に」がいちばん登場頻度のたかい助詞という感触がある。だから「に」が「へ」に転用できるときには「へ」としたらいい、とひとまずいうが、ことはそれほど単純でもない。「に」はいわばオールマイティの助詞で、たえず反復の危険をかかえている(その理由についてはすぐに後述する)。詩を書いていると、反復阻止に気を払うのがまずは「に」、そのつぎに離れがちな文脈を同一性の基準で接着してみせる「も」に、かぶりが多くなるというのが経験則だ。
認知言語学的にとらえるなら、異論も出ようが、まず「に」と英語の前置詞の相関関係をあかすべきかもしれない。「に」は空間と時間双方に作用する。つまり空間としては「to」(学校「に」ゆく)、「at」(駅「に」着いた)、「on」(机「に」置く)、「in」(家「に」いる)など、英語前置詞の差異性をあっさりと併呑してしまうし、時間としては未来対象の「for」が「till」「toward」にまでひろがる気色をもつ(あす「に」希望を託す)。しかも「for」にかさなる「に」では時/空の弁別を文脈が無効にする働きもある。それが「ために」の意図もふくむようにも拡張できる。その他、人事にかかわる、「by」とつうずる「に」だって閑却できない。
認知言語学における例文提示が単純な一文になるバカらしさを、日本語では避けられる。みじかい例文なのに、複雑な機能をおびるものとして俳句が存在するためだ。で、俳句における「に」のふしぎさについて。最近、ぼくがつづったものからいえば、芭蕉《朝顔に我は飯食ふ男哉》の初五中の「に」をどうとらえていいかわからない。あるいは安井浩司《糸遊にいまはらわたを出しつくす》の初五中の「に」も。こうした「に」をじっとみているだけで、時間とも空間ともつかないものが眼中にひろがってくる。そんなこんなで不安になると、西東三鬼《百舌鳥に顔切られて今日が始まるか》の初五の「に」からも、英語前置詞byには収められない、空間の無限定性をかんじてしまう。錯覚だろうか。
日本語で詩を書くさいの「母語のゆたかさの実感」は、「てにをは」のむずかしさと表裏をなしている。とくに「換喩」――「ずらし」を意図して、一行に多元性の影をあたえたいなら、助詞のずらしがおおきく物をいう。きのう投稿した文章のなかで石原吉郎の詩篇「像を移す」を添えておいたが、もういちど確認していただければおわかりのように、そこでは「に」をもちいる通例のすべてで「へ」が代用され、そのずれが微妙な空間性を醸成しているのがわかるだろう。『換喩詩学』のどこかにも書いたが、助詞そのものが字義を離れた異物性をもつ日本語の詩なら、それじたいが換喩のあらわれをしるしているということだ。こうした微妙さが賞玩にあたいするとするなら、書き散らしの散文詩など、まったく別次元のものだろう。
あえて恥をしのび、例をだす。ぼくは『ふる雪のむこう』につづけて書いた詩篇群を封殺した。『ふる雪』の「二行聯×五」の定型を、「二行聯×n」に拡張したものを方法的につくりつづけたのだが、七二篇に集成してみると、どうも野心や功名心が多くの詩篇に透けていて、鼻白んで閉口したのだった。まあ直せば生き返る詩篇もあるだろうが、あたらしく詩篇を書くほうが気も楽、とそのまま打っちゃってある。そのうち忘却の彼方へ埋没するかもしれない。
前置きが長くなったが、そのなかに「に」の用法展覧を意図した、その名もずばり、「に」という詩篇があった。ペーストしてみる。
【に】
はじめにふみこんだ足が後悔にそまる
ろうかの端の春田のようなところに
まどがあるのは眼にはよいきざしで
足をいなむためにやなぎがゆれている
ずぶずぶとあることがゆれることになる
それがからだにひそむあまたの序曲で
こんなふうに「に」ばかりをいっていると
やがては「二」もじぶんにはっきりする
きみの方角になにをたてているのだろう
じぶんのからだをいまの窓辺において
たくわえる回路がたらなくなった弱電の
ひとみたいによわいしめりをつたえている
裁たれるまえに布がみな矩形であるのは
からだのほんしつにたがえていて恐ろしい
しかくがくずれてりったいにふくらむとして
きみの着た窓もそれで服になりやなぎがみえる
まあ、そんなにわるくないかな。ごらんのとおり、一行の例外があるだけで、すべての行に助詞「に」を組み込んである。それが反復のしつこさをもたらすか、自然化されるかで、賭けをしたようだ。
この詩を再読してみてわかる。「に」とは時空・行為にかかわらず、到着点をしめすための方向を予備するとき「に」、われがち「に」舞い込む符牒なのだった。それは差異性が不可能「に」なる同一性の蔓延が、にんげんの頭脳「に」あらかじめ脈打っているあかしのようなものなのか。このこと「に」諦念をもつか、石原吉郎のよう「に」、「へ」を代位して反逆「に」いたるか。
というわけで実験。詩中の「に」をべつの助詞に置き換えるとどうなるだろうか。予想はより換喩性がきわだつということだが。
【改作】
はじめをふみこんだ足が後悔へそまる
ろうかの端の春田のようなところで
まどがあるのは眼のよいきざし
足をいなむためやなぎがゆれている
ずぶずぶとあることがゆれることとなる
それがからだのひそめるあまた序曲で
かくのごとく「に」ばかりを回避すると
やがては「二」もじぶんからきえる
きみの方角へなにをたてているのだろう
じぶんのからだをいまの窓辺でかさね
たくわえる回路がたらなくなった弱電の
ひとよりも、よわいしめりをつたえている
裁たれるまえを布がみな矩形であるのは
からだのほんしつとたがえていて恐ろしい
しかくがくずれて、りったいが泣くとして
きみの着た窓もそれで服だ、やなぎがみえる
どうかな。
*
未明に井川耕一郎のすばらしいピンク映画『色道四十八手・たからぶね』を観た。それについてポストすると、昨日の今日で疲れるので、今日は「に」についてかるいエッセイを書いた。