井川耕一郎・色道四十八手・たからぶね ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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井川耕一郎・色道四十八手・たからぶね

 
 
【井川耕一郎脚本・監督『色道四十八手・たからぶね』】
 
ピンク映画五十周年記念作として、PGとぴんくりんくを製作母体に、井川耕一郎が『色道四十八手・たからぶね』を撮ったのは、もともとピンク映画の代名詞的存在のひとり渡辺護のために井川の書いた脚本を、その渡辺の死と、そのまえに渡辺がしめした遺志により、井川じしんが代理的に撮り手として継いだためだった。
 
もちろん大和屋竺にかかわる証言を採取したときから井川と渡辺のあいだにはつよい紐帯ができ、以来、渡辺の破天荒で磊落な活動屋精神とピンク映画の演出技法を後世につたえようと、井川が渡辺にインタビューを試みながら、十部作の映像論的ドキュメンタリーをつくりつつあった。私淑というには足りない熱烈な執着。だから渡辺監督作として予定された自らの台本を、撮り手として受け継ぐには、井川じしんに相当な寂寥と葛藤があったとみるべきだろう。
 
もともと脚本家=演出者の井川は、自主映画-映画美学校ラインでミニマルな怪奇映画をつくりあげてきたと、まず経歴的には要約できる(監督が大工原正樹の場合もある)。それぞれが見事に映画へ期待される怪奇性を更新しているが、井川的な怪奇映画の特徴は、怪奇演出をミニマル化しながら、「ひよめき」「ファントム」「赤猫」「蠱」など、通例性のよわい言語がつくりなすブレたひろがりを、そのまま映画の進展のゆらぎに転写することだった。その意味で特異な言語ゲームに俳優の身体が動員されることになるが、このことが俳優に独特の稀薄感をもたらし、これが怪奇と隣接する「美」を画面の刻々に滲ませたのだ。そのうえで光や「みえがたさ」にかかわる独特の感性も発揮された。
 
むろんいま書きつけた一連は、ピンク映画がまとうべき属性には、基本的に参入できない。だから井川の個性とピンク映画のジャンル法則が分裂するのではないか――そんな危惧も生ずるとおもう。結果的には、それは杞憂に終わり、『たからぶね』鑑賞後は、胸の透くような――それでも奇妙な快感が身体と頭脳に宿ることになる。
 
『色道四十八手・たからぶね』のミニマリスムは、画面に登場するあらゆる場所が「ありもの」で、同時に登場する俳優数にも厳密な縮減がかけられ、六人しかいないことによる。しかも渡辺護という「色道」探究者の興味に添って、江戸情緒の新内的な三味線の音のひびくなか、屏風と褌姿、着物と襦袢姿によって性交のヴァリエーションを繰りひろげてみせる、ほたる(葉月蛍)と野村貴浩がいる。四十八手をいわば図解的に披露する活人画の駒であって、芝居上の人物ではなく、この虚構的なふたりを減算すると、登場人物がさらに四人へと縮減する。しかもそれらが主人公夫婦と、その夫からみた叔父夫婦なのだから、設定される世界像が極限的に「狭い」。なのにそれは無限の内部を抱え込んで、世界同様にひろがってみえる。そのなかには「死」や消滅さえひろがって、渡辺護没後にふさわしい寂寥をたたえるのだった。見事としかいいようがない。
 
井川が渡辺護用に書いた脚本は、もともと分節が幾何学的にきりわけられ、清潔なほどに構成的だ。しかも驚くべきは、それ以前に井川が台本を書き、渡辺が監督した『喪服の未亡人・ほしいの…』(08)からのアクロバティックな転用すら盛り込んでいる。二組のカップルが描かれること。「ほ、ほ、ほーたるこい」の音声が聴覚的な幻影としてゆらめくこと。性と死の近接に気づいた者の喘ぎ「死なないでね」が性交中に発せられること。階段が芝居の重要な場所として召喚されること。骨壺が転がり、転がった骨の脇でなされる性交が、死に近似するおのれを、過程的であれ完成させること。
 
その清潔なほどに構成的な台本にも、とくに『たからぶね』のばあい井川の特有性が感知される。指摘した言語遊戯的な進展により、芝居の「現実世界」が怪奇的に併走させられてしまう機微が、井川のかかわった従前作どうよう出現するのだった。ふたつの事例を掲げる。
 
冒頭のほたる、野村貴浩による四十八手の活人画はその展覧過程に言語遊戯をほのめかす。「ほ、ほ、ほーたるこい」の声が性交渦中のほたるから妖しげにほとばしり、「こっち」の「甘い水」に接するように、野村の舌がほたるの秘所にのび、そこでの「ほたる」が「陰〔ホト〕」と頭韻関係をむすぶ。『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』(井川脚本、大工原正樹監督)の題名中にある「ホト」がそうして転位される。しかもそこに生身の女優としてほたるまで導入されているのだった。
 
夜這いを誘う符牒として、「柿の樹はありますか」も出てくる。これを誘いのことばと意識して「はい」と答えると夜這いが成立するというのは知識のない者には奇異だろうが、やがてこの作品における夫婦交換のクライマックスで、「柿の樹はありますか」「はい」「実を千切っていいですか」「千切って〔=契って〕、契って」と熱烈に女の声が連呼されると、この言語変転におうじて柿も「掻き」だったのかと合点されるようになる。いずれにせよ江戸的な暗示、縁語、洒落につうずるもので、だから芝居どころで見事に活かされる川柳《ばか夫婦春画をまねて筋ちがひ》も効果を発揮することになる。
 
浮世絵による体位の四十八手図解は嫁入り道具だったというが、起源は大アジア的だ。インドに教典『カーマストラ』があり、中国で養生〔養性〕術が蔓延した。「四十八」は相撲の決め手とおなじく(『たからぶね』には北野武『ソナチネ』どうよう「紙相撲」「人間-紙相撲」のディテールがある)、「2」の繰りひろげうる総数=無限数のことだ。「1」は極限ではないが、「1」足す「1」が無限となるという世界観は、楽観的でかつ微分的/積分的、ひいては世界構造的だといえるだろう。ところがナレーションのいうように、なかには「こんな体位、実現できるのか」というアクロバティックなものがあり(インドのヨガ的な風土と関連しているだろう)、無限のなかに不可能性まで点描されて、それがまたさらに世界構造を喚起する。
 
この四十八手のなかから体位「たからぶね」が特権的に選択される。ヒロイン千春=愛田奈々の決定的な体位としてそれが現実と幻想のあわいに召喚されるのだ。女の片脚をもちあげる体位なら通例的だろうが、たからぶねはその逆に、仰臥した男の片脚をもちあげ、その脚を上体が抱きかかえながら、女が斜めに男へ跨るものだ。その全体が帆掛け船=宝船に似ることから体位の命名があり、それは四十八手のうちで「ここ」から「ゆえしらぬところ」への航行性を最も印象させるものだろう。性交の時間性はそこで空間性へと転位される。
 
しかも女の上体が抱きかかえる男の腿から爪先までの片脚が画面に映されるとなにか仏像めいてみえ、体位の性交性には祈祷性も揺曳する。なおかつ、男の片脚を狂乱的に抱えながら腰をゆらす女は、それを実現するのがほたるであっても愛田奈々であっても奇態なチェロ奏者のようにみえ、そこから楽音がひびきわたる気にもなる。「たからぶね」の特権化はじつに映画的な着想だった。
 
千春=愛田の夫・一夫を演じるのは、情の外化に諦念=不作為と激情が交錯するさまが見事に不穏な岡田智宏。夫婦の和合において「うぶ」な妻にかえって夫が劣情をそそられるという前段がつづられたのち(愛田は「恥しい」を連呼し、掛布団におおわれてでなければ開脚せず、行為後には恨めしげに「灯りは消して」と懇願する)、あるとき妻が笑みをこぼしながら寝言で「たからぶね」と漏らしたのを遅く帰宅した夫・岡田が聴くのが、いわば井川的な怪奇性の起動点となる。現実のなかに、現実に離反するように浸潤している「夢」。その着眼に乗って、本作に導入される、いずれも「妻のたからぶね」にちなみながら達成感を得ない、二度のちがう夢のシーンが、井川的な蠱惑感にみちてくる。
 
井川の仕掛けた罠は、体位「たからぶね」が活人画としてほたると野村貴浩、あるいは愛田とその義理の叔父であるなかみつせいじのあいだで達成されても、愛田とのたからぶねを切望する岡田には実現されないことだ。しかも岡田のまえで実現されているほたる-野村のたからぶねの渦中で(岡田は夢の奇妙な要請により、体位の変転を映像に記録するようしいられている)、ほたるから愛田への「すりかえ」が夢幻的に起こり、そこで愛田のしるす絶頂の表情が、体位としての「たからぶね」の極上性をしるしづける。
 
たからぶねは終幕、岡田と叔母・佐々木麻由子のあいだでは実現されるがしっくりこない。たぶん膣口の配置や方向や分泌や収縮性といった個性がちがうのだ。そうなって、「四十八」の無限のなかには、消滅のみならず、踏破できない個性差もあったと言外にしるされる。提示されている世界像はこの意味で峻厳だった。
 
「たからぶね」の寝言を耳にした、と翌朝の食卓で、岡田が若妻・愛田にいい、「どんな愉しい夢をみていたの」と何げなく質問したときに、妻が驚愕し凍結する(感情としては赤面も隠されている)。妻のした言い訳は換喩的なずれをかたどる。妻は七福神の乗り物としての「宝船」をいい、その成員を「恵比寿・大黒・毘沙門・弁天・寿老・福禄・布袋さん」と、俗謡のように韻律的な調子で列挙してみせる。いずれもがインドや中国に起源をもちつつ日本化した神性だ。のちに夫が七福神の「福」とはなにか、と訊ねたさいには、妻は「みんななかよく、いつまでも」の意だと語る。その響きには予祝がこめられていて、その「みんな」に字義どおりの無限性があたえられ、「なかよく」に性的な逸脱までもが籠められるなら、それがピンク映画の精神的な基底となるだろう。しかもそこにフーリエ的なユートピアの具現のみならず、むなしさを加算するのがここでの井川のピンク映画観なのだ。ピンク映画五十周年を精確に見据えた井川の眼力を意識した。
 
むろんピンク映画監督としての井川は、早撮りを実現するため(撮影日数は四日だったという)、ピンク映画スタッフの手慣れたノウハウにおおむね従っている。たとえば会話シーンがふたりの俳優によるばあいは、撮影効率のため、カッティングなしで横位置から長回しがなされる(撮影・清水正二)。それで芝居に「間」や「ダレ」が出ないのは、演出現場の井川が、テンポよい台本にふさわしい演技テンポを、たとえば増村保造のように俳優へ仕掛けているためではないだろうか。
 
しかもカッティングのピンク映画的=効率的な規定律が前提となるから、井川がときたまみせる意外なカット処理が効果的に印象づけられる。水平方向から怒気を孕んだ佐々木麻由子が飛び出してきて金網を蹴るときの爽快さ。その身体が縦方向に正面化すると、彼女の仁王立ちが可笑しさにより愛おしく映る。むろんクルマのフロントガラス越し方向へ固定されたカメラが、車中の芝居を捉えるふたつのシークエンスも、見事に奇異で、かつエモーショナルな画面推移を形成する。
 
もともと人物がすくないから、世界配置が(いわば膣口のように)収縮的になりエモーションがうまれるのだ。ピンク映画とは最小の材料(つまり肉体)でエモーションを探究するいとなみというべきではないか。もうひとつ思想があるとすれば、「交歓」が「交換」を必然的に付帯させることだろう。これらが「2」に、ひいては「4」に無限性を付与する。これをさらに逆算すると、「1」にもともと無限性が胚胎していたことにもなる。その無限性は充実と虚無、それぞれがたがいを繰り込むようにしてなす運動から生まれる。最終的に、愛田=千春の「さみしさ」が岡田と佐々木のあいだで言及されるとき、そこにひそんでいたのは存在にまつわるそんな哲学だったのではないか。
 
これは性交論に転化できる。ひとつの性交は、べつの性交を視る。性交当事者どうしが、すこしはなれた場所でべつの性交を視、視線が交錯するのがスワッピング的な侵犯の本質だろう。「他」が現れて「自」がゆらぐ。それは性交の対象=「他」に、べつの「他」を視ることの発展なのだ。そうなって、ひとは眼前の対象とではなく、自らの夢想と性交しているという、おそろしい擬制もできあがる。これがユートピックなむなしさの本質だ――井川は渡辺護の訓えから、そんなことをかんがえたのではないか。
 
佐々木麻由子のしめす淫蕩がさみしさを抱え込む一瞬をみせることなら、多くのひとが認識しているかもしれない。井川はこの基底に見事な喜劇性を付加する。なかみつせいじと性交する佐々木が、片脚をたかく掲げたときに脚が攣〔つ〕る。このとき痛みに喘ぎながら、佐々木に漏らすことばに大笑いしてしまった。「ミネラル不足かしら――ヒジキを食べないと」。生の全価値をこうして食品に還元することが佐々木の住む世界の法則で、そこから重要な小道具「にんにく味噌」も出現する。
 
井川がピンク映画にえがいた抽象的・結晶的な理念はそれが映画であるかぎり具体性をからげてゆく。納豆の糸がその糸状を超えて画面に召喚されること。それは「驚異の糸」のようにみえる。あるいはホイップ状のものの変奏。来るべき日に肉欲を爆発させるため、ラブホテルでの剃毛儀式がえがかれるが、そこで剃毛クリームにつつまれてみえなくなった佐々木の陰毛は、なかみつの誕生日のショートケーキのうえにまたがって下した局部、それで付着したホイップ状の生クリームによって消された愛田の陰毛へと転位する。そうした図像性からはふたりの女優の個性差と、「どうしようもない」相同性が軋みあうことになる。
 
これから観るひとの興味を殺がないようストーリーについては間接的な表現にとどめているが、それでも注意ぶかく読まれれば、物語の全貌がどこかで露呈しているかもしれない。テンポよくはこぶ物語には、それじたいが皮肉な艶笑にみちた大人の感覚がある、とだけいっておこう。
 
俳優がいい。まだ具体的に綴ってこなかった愛田奈々は、最初にマンション住まいの居間で、夫と紙相撲に興じる表情がすごくノーブルだ。わらうと高貴さを発散する女優だとわかる。そのあとの含羞にみちた寝室での濡れ場では、横顔のラインのうつくしさが強調される。そうなって好色が画面にしるしづけられたときの物質的な悪意と抵抗性がつよく胸をうつ。おおきめでかたちのよい乳房のやわらかさも、局面局面で見事に濡れ場進展に活用されている。これらの経路があって、彼女の表情の恍惚が中心化されるとするなら、井川は女優の見え方そのものに、周到な位階性をともなわせているといっていい。それは井川脚本『喪服の未亡人・ほしいの…』の結城リナにたいして渡辺護がほどこした「見せ方」の演出を、井川じしんが踏襲したものではないだろうか。
 
俳優演出がピンク映画の通例性を拡大したものだったとすると、空間演出には井川の独創性がみられた。大体において現在のマンションの間取りに多い「田」の字構造は映画のもとめる空間性には不適格だが、井川はまず、玄関からリヴィングまで縦に貫通する廊下を、ここぞとばかりのタイミング(岡田智宏がナイフをもつ場面)で縦構図として活用する。リヴィングに隣接する和室の映画的な活用がさらに驚愕的だ。二面にある襖の開け閉めによって、それがはじめて映画的な空間に昇華することを「発明」しているのだった。この画面設計がクライマックスの緊張と直結している。しかもそこに「みていないこと」「みていること」の葛藤さえしるされるのだった。
 
井川の性交演出ではさらに気づくべき点がある。そこでは間近の男優によって擬制される接合局部よりも、性的な高揚によってあらわれを刻々変えてゆく女優の腕の表情のほうに眼目があるのだった。ベッドに縛られ、スカートをもちあげ、フェラチオのさいに男の腰にまわされ、「たからぶね」のときに高くかかげられた男の片脚に上体がすがりつきながら、それを撫でる女の手-腕。性愛を情化しているのはじつは局部ではなく手-腕だった。これが渡辺護のメソッドの継承なのかどうかは、渡辺映画を体系的にみておらず、しかも記憶力のわるい筆者にはよくわからない。いずれにせよ、ピンク映画のエモーションは肉体の唯物性がうごきをつくるとき純粋に生じる。
 
渡辺護のたましいに捧げられたこの驚異的なピンク映画の傑作は、今秋、公開のはこびとなる。それは「たからぶね」として現在のピンク映画の領海を航行するだろう。音にかかわる意欲的な表現も多いが、エンドクレジットにながれる、結城リナの唄う『尺八弁天地獄唄』主題歌が感動的だ。効果的な「特殊造形」をほどこしたアニメ作家・新谷尚之の仕事にも注目したい。
 
 

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2014年08月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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