最果タヒ・死んでしまう系のぼくらに
最果タヒさんの新詩集『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア刊)が、ながれくる彗星のひかりのようにすばらしい。「あたらしい感情」を発明するのが詩の使命のひとつだとおもうが、そうした使命をわかい世代むきに、かんぜんにおびている。ことし一、二の出来をあらそうというよりも、詩の使命という点で、時代を画する詩集というべきだ。たとえばそれは音楽の大森靖子やマヒトゥ・ザ・ピーポーなどとも効果をきそう位置にある。こんな詩集は詩壇からうまれてはこない。タヒさん、歌詞や作曲や歌唱もやったらいいのに。
「死んでしまう系」は流行語となるだろう。たとえば「好き」という感情にも、メメント・モリが疑義をかける。だからそれは内在的に微分されてゆき、鉤型のようにのこったかたちが、どの永遠へ架けられるかで、ほんとうの空間が現れてくる。あかい東京の夜景。あたらしい感情は嫌悪や疲弊や泣きたい気持ち、さらに自己透明性の認識が織りまざったもので、一様としてはかたりえない。それは相反物が縒りあわさったにすぎず、だから、もつれと線型との中間にやどる通過体のようなものかもしれない。いいかえれば、定位できないことが、あたらしさなのだった。わかりやすいアイスバケツチャレンジとはちがう。
1200円という廉価をあたえられたこの詩集のよさをつげるには、端的にどうすればいいか。資本主義的にいってみよう――《三冊買って、うちの二冊を、すきな男の子と女の子に、それぞれべつべつに手渡したい詩集》。このとき、どの季節、どの場所でかを、この詩集が夢想させる。けっきょく、セカイ・ガ・スキニナル。
横組と縦組の交錯するレイアウトがあたらしく、必然性もある。いずれはちゃんとした書評を書くかもしれないが、いまは巻頭の「望遠鏡の詩」(横組)のみ、抜き書きしてみよう。
死者は星になる。
だから、きみが死んだ時ほど、夜空は美しいのだろうし、
ぼくは、それを少しだけ、期待している。
きみが好きです。
死ぬこともあるのだという、その事実がとても好きです。
いつかただの白い骨に。
いつかただの白い灰に。白い星に。
ぼくのことをどうか、恨んでください。
いま情意と修辞のもんだいを、来年の国語表現法のためにかんがえている。この詩集、授業でつかおうかなあ。
さっぽろは完全に秋になってしまった。昼間でも半袖だとさむい。どうしよう。茫然としている。
じぶんの刊行予定詩集を、送られてきたPDFで校正した。ひとつだけ、はっきりとした特質がある。ゆっくりしか読めない、それでも疲れない、ということ。あたらしい感情が出現しているかどうかはじぶんでは判断しない。