今日8月29日のメモ
まったく、なんという当たり日だ。一階玄関の郵便受けへつぎつぎに書物がはいり、配達夫がつぎつぎぼくの住まいの玄関扉のむこうに立つ。寝て待った果報のなかに、過褒もあったりして、これはもうぼくの、めざましい幸福日といえるのじゃないか。
北川透さんからはいよいよ刊行が開始された『現代詩論集成』の第一巻がとどく。鮎川信夫を中心とした「荒地」論集で、目次をみると親炙した文章もならんでいる。『換喩詩学』著者の浅学に、叱咤激励をなさっているようで、もちろん大先達からのご厚意に緊張する。北川さんにふさわしい重厚な造本。
アマゾンに注文していた高塚謙太郎『ハポン絹莢』もとどく。彼の詩集題名にいつも「日本」がはいる理由を、そろそろ真剣にかんがえないと。むろん高校教師として古文にもつうじる高塚さんに、和語の豊富な蓄積のあるのは一目瞭然なのだが、日本浪漫派か四季派か塚本邦雄派かいうと、それ以上にやはり現代的な換喩派だ。ことばをモチベーションにどれだけ微妙な詩を書けるか、そのいとなみがじつに果敢なひとだが、「体験」もひそんでいるはず。チラリ紙面をみると、二行聯詩が連続している。「やってくれましたねー」の横位置判型もふくめ、おもわずこちらが破顔。
ぼくの女神、坂多瑩子さんからは第二詩集『スプーンと塩壺』(06)と、第三詩集『お母さんご飯が』(09)が。どちらも所持しておらず、古本ネットでも在庫なしだったので、突然の到来に欣喜雀躍した。換喩系かつ肩の張らない、しかもふくみの多い哲学的な詩を注意ぶかくつむぐ坂多さんは、もうその構えからして、明晰とわかるひと。ときどき思いがけないご褒美をくださる。最初がご自分の書棚を崩して、下村康臣のものでぼくのもっていない詩集を、率先して送ってくださったのだった。
安井浩司さんのオビ文の載る句集も送られてきた。吉村毬子『手毬唄』。「毬」の重畳に、うつくしい胸騒ぎがする。ご送付は安井さんのお計らいだろう。奥付対抗の著者略歴をみると、中村苑子に出会って作句活動にはいったとしるされている。付されている近影にどきり。すごい美人だった。オビ裏の著者自選十句からとりあえず二句引く。《金襴緞子解くやうに河からあがる》《口中の鱗を吐す花曇り》。
「現代詩手帖」9月号もとどく。小特集が「詩論集を読む」で、三つの詩論集にひかりが当てられている。たかとう匡子『私の女性詩人ノート』(書評執筆者=藤井貞和・陶原葵)。貞久秀紀『雲の行方』(書評執筆者=白井明大・ぼくすなわち阿部嘉昭)。拙著『換喩詩学』(書評執筆者=笠井嗣夫・神山睦美)。さすがに気になるので、その小特集部分だけ、拾い読みした。
たかとうさんの著作は未読なので、書評にたいしても論評をひかえるが、貞久秀紀『雲の行方』に寄せられた白井さんの文章は、対象への敬愛にみち、なおかつ適確で、しかもやわらかな滋味にとむ。未読者に対象のすばらしさをつうじさせようとする思いが、抑制的な筆致から着実につたわってくる。白井さんは『季節を知らせる花』でもそうだが、このところ「です・ます」調の名手の趣がある。ぼくの書評のほうは、その白井さんの書きものと論旨があまり重複せず、どちらかというと哲学的・言語学的なアプローチ。相互補完が幸福に成立したとおもうのは、じぶんにたいして楽観的だろうか。
で、拙著『換喩詩学』にたいする、畏敬すべき先達、笠井嗣夫さんと神山睦美さんの書評。こちらは「相互補完」の幅がもっとひろい。たとえばぼくの案件のひとつ吉本隆明にたいする書き手のポジションが対照的なのがおもしろかった。書き方も対照的。笠井さんがなるべくぼくの本の内容を具体的につたえながら肯定的な指摘をかさねられてゆくのにたいし、神山さんはいわばその名のとおりの神力を発動し、ぼくの本の地勢のうえに、学識を導入していわばひかりかがやく塔を打ち建ててゆく。しかもぼくの潜勢部分までを読みこんで、慈愛たっぷりの励起をおこなっているのだった。
●《換喩が詩にもたらすのは、流れと運動なのだということ。とすれば、これは詩にとって現在的であるとどうじに根源的なものであり、ここでの論理を「換喩詩学」と命名することで、詩の領域に原理的覇権をもたらしたように思う》(笠井嗣夫「詩学の今日的復権に向けて」)。
●《共苦とは「死んだ手紙」によって、希望をなくしたすべての他者とつながろうとすることなのである。「ないこと」があるというしかたとはそういうことなのであり、ここ〔※メルヴィルの『バートルビー』〕にはイエスのいう「善きサマリア人」の「利他行為」の本質が語られている。だからこそ、イエスの言葉は、すべて換喩表現とみなされるのである。/阿部嘉昭の「詩学」はこういう問題を思想的背景としていることにおいて、これまでのどのような批評からも区別されなければならない》(神山睦美「希望もなく死んだ人々に宛てられた希望の手紙とは何か」)。
笠井さんの穏当さを意図した文章にたいし、神山さんのほうはご覧のとおり、トレードマークの連接力によって着想の爆発状態にある(その連接力が換喩性とつながっていることを神山さんは意識しているだろう)。『換喩詩学』の著者は、じっさいは神山さんの文章から印象されるほど神山的な膂力にあふれていないとおもう。それを期せずして傍証するのが、ぼくの貞久さんの名著への、ほそぼそとした書評の書かれ方だろう。
いずれにせよ、今号の「現代詩手帖」には「阿部印」が満載。今日夕方、一部を院生室に進呈するので、気になった学生は拾い読み回覧をしてくだい。まあ買うのが一番だけど。
さて書物の爆発的な到着のまえに読んでいたのが、トリン・T・ミンハの久方ぶりの評論集、『ここのなかの何処かへ』(平凡社、14年1月刊、小林富久子訳)だった。フェミニズム論客の文章をぼくはかまえて読んでしまうことが多いが、トリンは別。「ベトナム人=アジア人」「女性」「亡命者」という三重の負荷が、いわば詩性によってやわらかく開放され、しかもやわらかく論評のなかに寓話がきらめき、なおかつやわらかい身の立て方により、文学作品と映像作品を区別しない彼女をとても敬愛している。ぼくは不勉強でその映像作品を未見だが、『月が赤く満ちる時』の「月」のアジア的な把握などに魅了されつくした。
その彼女のあたらしい評論集ではいわば「境界」についての考察が主流をなしている。神山さんのいう「共苦」の能力がすごくたかいと同時に、時事性についても意外といっていいほど本書は精密で、港千尋をすこしおもった。あるいは視野のひろがりかたにはスーザン・ソンタグとつうずるものもある。けれども彼女の思考の奥にあるのは、東洋的なものとデュラスだろう。今回はそれにくわえ、『恋の虜』のジャン・ジュネへの親炙が印象にのこる。魅惑的な細部に付箋をたくさん入れてしまったので、かえって読後感がうまくまとめられない。それで二箇所のみを抜き書きし、本の全体にあるものを換喩的に考察することにする。
未来というものがある限り、あらゆる真実は部分的だ。①
例えば、タンブーラ奏者は、タンブーラの音を調律しながら、自身の魂も調律すると言われる。この場合には、調律自体が演奏の一部となり、従って聴衆もまた奏者が調律するのを耳にしつつ、自らを調律しなければならない。②
掲げたふたつはともに神山さん的な「共苦」とかかわりがある。①はかつての藤井貞和さんの「しごとの中途性」についての小メモのような詩篇と共通している。ここでは「部分」の部分性にこそ時間が関与し、それで未来への方向性がひらける見識が伏在している。時間の部分性とはむろんそれじたいが「共苦」だ。その負荷を万人がかんじるから共苦が単純に生まれるのではなく、その未来方向性が付加要素としてさらに意識されて、共苦がかならず伝播力・反映力をともなって人-間にこそ現象するのではないか。むろん神山さんどうよう倫理のことをいっているのではない。思考はこうした限定性における作用力にしか宿らないといいたいのだ。
共苦がじっさいは人間が身体間になしうる「調律」だと示唆しているのが②だ。したがって共苦はそのものが音楽的とならざるをえない。だからそれはかならず身体(の対峙性)を基盤にする。むろんこの部分は、笠井さんのいわれる《詩の領域に原理的覇権をもたら》すことへと即座につながってゆく。トリンのこういう部分がぼくは好きなのだった。
――今朝、目覚めたときに見ていた夢は奇妙だった。今日の爆発を予言していたのかもしれない。一匹のおおきな犬とずっとぼくは話していたのだった。具体的にその犬を記述すると、おおきさはインド象に匹敵し、しろく毛むくじゃらなので、羊と牛とを併せたような「犬の形状」をしている。吉岡実の「苦力」ではないが、あるいている犬の腹にしがみついて、ぼくは犬のおもう場所に連れてゆかれながら、犬とずっと会話をつづけていたのだった。犬のことばひとつひとつが哲学的で、ぼくはなにかふかいところでの納得をつづけている。アジア的な湿気が行程には漂っていた。ふと首を反らせて進行方向に眼をむけると、森の手前の木橋へと巨犬がはいろうとしているところ。「ああ、橋」とぼくは当惑した。橋にはいると、ぼくか犬かどちらかが消えるはずだから。恐慌へいたった。そこで眼がさめた。