木下こう歌集・体温と雨
【木下こう歌集『体温と雨』】
「未来」での大辻隆弘の選歌欄「夏韻集」で頭角をあらわしていった木下こうの第一歌集『体温と雨』が、今年五月に砂子屋書房より発刊された。みごとに清新ですばらしい。みずからの情をうたい、しかもそのことがみずからの才能を保証してゆく作歌のよろこびは、彼女自身の次の歌にもみえるだろう。
階段といふ定形をのぼりつめドアをひらくと風がひろがる
むろん階段そのものが定形だという発見が一首の中核なのだが、定形は短歌そのものをも二重化している。したがって建物内、屋上へいたる階段を昇り、屋上へのドアを開けはなって、開放されたその身体を風が吹き抜けてゆく爽快は、そのまま作歌の爽快とも比定されるはずだ。
岡井隆主宰の「未来」だが、女性歌人は盛田志保子など、葛原妙子を信奉する才能がままいる。木下こうもその例に漏れない。
誰かいま白い手紙を裂いてゐる 夜のカップのみづ揺れだして
初句が葛原《たれかいま眸を洗へる 夜の更に をとめごの黒き眸流れたり》と共通している。「たれか」という対象の曖昧=不安を前提として、その者の行為が理路を欠いてこの世の破れ目となっていることを予感する。この予感そのものが作者の幻想性を再帰的に保証する構造も、二首には共通している。葛原的な侵犯は、断言が事実ではなく幻想を転写する点にある。それで歌の感情が繚乱とゆらぐのだ。木下こうの「葛原調」をさらに『体温と雨』から列記してみよう。
路傍〔みちばた〕にしやがみて犬を撫づるとき秋をひとつの胡桃と思ふ
ダアリアを剪〔き〕りつつ邪悪ね、と言ひぬ けふこひびとに差し出すダアリア
こめかみの熱をうつして臥す夜に なにゆゑ人は布に眠るか
掲出一首めで、「犬を撫づる」感触を読者は自問するだろう。体表が総毛でやわらかくつややかにおおわれていても、その下の皮膚のうすさ、肋のちかさなど「くずれやすく」「不安な」犬の撫で心地が、ぼくなどには記憶されている。かるく撫でれば犬なのに、ふかく撫でると同定できないものに触れた恐怖が生ずるといってもいい。下句で「犬」から「秋」へと触覚対象のずれる破格の構文だが、その「ずれ」が秋特有の犬の撫で心地に、これまたズレをはらんで、なんと胡桃を召喚するのだ。
胡桃とは何か。触覚としては縦横する筋のある堅さと、それにまるさ、油の艶だろうが、とうぜん「胡桃の中の世界」=「壺中天」の聯想からミクロのなかにマクロの閉じ込められたコスモスもそこに現出する。同時に胡桃はそのまま脳と形状が似ている。胡桃と脳の親近は、脳出血で半身麻痺した患者が胡桃を握りかえしつづけるかつてのリハビリテーションの存在からも来る。したがって一首は、じつは触覚の同定不能性と突き当たっている。それで感慨がふかいのだ。
掲出二首め「ダアリア」は反復が葛原的だ。そのうえで新機軸がある。気儘さ、独断、言い捨てはいわば葛原短歌の「紋章」だが、女性終助詞を付された「邪悪ね」に統一性を砕く乱調があるほか、一首全体の意味結節が意図的に不全で、結果、「言いさし」にちかい破天荒がさらに加わっている。
掲出三首めでも破天荒さが変わらない。上句と下句のあいだの一字空白によって、上句の「言いさし」がわずかにただよい、ここでは助詞の斡旋がみだれている疑義がかすかに生ずる。そのうえで一首内の因果関係がいわば「間歇的に再帰する」。(熱)病者が《こめかみの熱をうつ》すのは、彼女のくるまる(毛)布であって、ひとは病を得て、おのれの熱にこそくるまって繭籠る、神秘的な自己閉塞へいたるのだ。ここでの布には、聖書世界の放浪者が寝具につかう粗布の感覚も揺曳している。同時に、下句《なにゆゑ人は布に眠るか》の箴言調に葛原短歌の余映もある。
ここまでの指摘であきらかになっただろう。木下こうの歌はうつくしいが、美のみへ回収されない、ちいさな破格を志向するときに威力を発揮するのだ。それは木下の精神にすでに内在されている価値ともよべる。たとえば次の口語短歌もどうか。
でたらめに砕けたものがなめらかな水に浮かんで昼がきれいだ
「きれいだ」の乱暴な断定に味がある。散乱を恋いねがう同様の価値観は以下の一首にもみえる。
ぽつぽつと小径を雨が濡らし初むかきみだされた配置のやうに
ここには「きれいだ」の見惚れは作者のからだのなかに呑みこまれている。それでも「でたらめ」と「かきみだされた配置」が、同等の「散乱」を志向している点がかんじられるだろう。「散らばり」は次の家事詠の一首にもある。
おそなつの昼のひかりは散らばりて、散らばるままに檸檬洗ふみづ
注意したいのは第五句(結句)だ。すでに「檸檬洗ふみづ」は八音だが、潜在的には助詞「を」が省略されているので九音の印象まで投げかける。「散らばり」にたいし音律の破調がこのように対応しながら、危うく一首が立つから、感銘をあたえるのだ。
木下こうのすばらしさは、破格へのあわい欲望のある一方で、自己身体の把握が敬虔でつつましく、それゆえに外界との「あいだ」に入れ子的な身熱世界のうかびあがる点だ。ルオー絵画の人物の輪郭線とも共通するが、それをことさらもろく組織する点に彼女の真骨頂がある。身体と世界の「あいだ」が顕れる点には、メルロ=ポンティ的な現象把握もかんじる。
昏れやすきあなたの部屋の絵の中にすこし下がるとわたしが映る
まだ結婚で子供をなさぬ男との恋人時代がうたわれているようすがある。「昏れやすき」部屋には、アパートの東向きの一室をかんじた。掛けられている絵画はもともと暗い。しかもそれが硝子でおおわれている。絵は暮色のこめはじめた時刻でも、まぢかには筆触など細部がみえる。ところがやや絵から離れると、硝子のしたの暗色と相俟って鏡面化し、「わたし」の像をぼんやりと映すのみだ。表象とは可変的に自己像を反映させる仮象にすぎない――そうなったとき、世界の意味は、「わたし」そのものではなく、むろん「仮象」そのものでもなく、それらの「あいだ」に曖昧にながれているといえないだろうか。
丘の樹がけふこぼしゆく百枚の葉よまひるまのわたしがずれる
ここでも「百枚の葉」を「こぼしゆく」「丘の樹」と「わたし」の「あいだ」のほうが、「わたし」そのものよりも幻惑的に意識される。歌は「まひるま」の定められない正体に迫ろうとしている。結句「わたしがずれる」がすばらしい。「われがくづれる」ではないということだ。わたしにきざす異変の幅はちいさく、他者からほぼ感知できない。むろん女性的な内観が、その表層とずれているのだが、このずれがわたしの周囲からそのまま映された(移された)ものだと察知すると、一種ぶきみなアニミズムの感覚もつたわってくる。
サルビアの咲きてあかるむところまで晩夏の微温き水をはこびぬ
さきの「おそなつ」につづき、ここでも「晩夏」。むろん葛原の「晩夏光の酢」に、木下のこころが灼かれているのだろう。ここではサルビアの赤い花群は「あかるみ」と捉えられる。それに水をやるためか作者はあかるみへあゆむ。ところがその水は「おそなつのぬるきみづ」と表記されず、「晩夏の微温き水」と堅く重くされる。このときサルビアと真逆の、水の暗さが逆照されてくる。だから作者が水を何に盛ってはこぶかがぶれてくる。第一観は如雨露だろうが、作者が水のくらさを間近に見下ろしているとすると、それは胸もとにかかえる盥なのではないか。となると、作者の歩行も「水やり」という実務性から何か象徴的なものへずれる。こうして、ずれにむけてひろがるのが、木下こうの短歌だった。むろんここでもサルビアの花群の位置と、あるくわたしの現在地、その「あいだ」の把握が主眼になっている。
祈りかたさがせぬままの朝の身は石つむことも重たかりけり
「祈りかた」を「さがせぬ」――こうした「信ある不敬」も葛原妙子に先例がある。「重たかりけり」の慨嘆はなんと哀しいのか。「石つむ」に三途の川の気色がたしかにあるが、句は「みずからのからだ」の形而上的な「持ち重り」にも届いていて、どこかでグノーシス的だった。川原に身を屈して石を拾うことにはシジフォス的な無限、その恐ろしさもある。
うろくづをみづに洗へばしんとたつ藻のごとき香はわが裡のもの
この家事詠では理路のずれがある。ほんらい「藻のごとき香」を発するのはみずからの洗う「うろくづ=魚類」のはずなのに、魚と同調して、みずからの奥処が「藻」の匂いを放つと自覚されているのだ。ところが結句の「もの」止めからは、女性的な含羞よりも、みずからの起源のふるい神秘性をおもう自恃の念がただよってこないか。いずれにせよ、「ずれ」をかたどりつづける木下的身体は不埒なまでに同定性を欠落させている。そのことが抒情性に転化する点があたらしいのだ。
檸檬を洗い、うろくづをあらう。とうぜんここらあたりで「水」が木下短歌の特権的な物質と気づくだろう。ところが木下的な水はかならず微細さと化合してしか、歌の主題とならない。大仰な水、塊の水は回避されるのだ。
食卓のトマトつめたくしたたりぬ軽羅にあはく蔓をひろげて
トマトの表皮を「軽羅」とおもいつつ、作者はそこに散らばるこまかい水滴を視ている。やがてその水滴が連絡しあって、蔓状にくだる、こまかい水路をつくりあげてゆく。それはたぶん、恍惚と恐怖のあいまざる、微細世界のみにある光景なのだろう。むろん木下こうのような視力がなければ、そうしたものを眼にすることができない。それが「わたし」の周囲におよび、「わたし」が茫然となるのが《糠雨はわが傘の上〔へ〕でみづたまとなりてしづかに手提げへと落つ》だ。この水は「水ではない水」へも昇華する。そうして木下の絶唱ともいえる次の忘れられない一首が出現する。
身にふれて濡るるからだを覚えたりこの薄絹は雨にあらねど
この一首を噛みしめてほしい。薄絹のような雨に濡れて、体表に薄絹のような模様をつくっている作者の女体が一読意識されるが、雨は雨じたいであることを結句で否定され、遡行する意味がゆきまよってしまう。着衣の感慨がうたわれているとおもいかえすが、よく見ると、上句の理路も「周到に」くずれているのだ。換喩性を機能させきった、前代未聞の秀歌とよぶべきだろう。
「散らばり」と「微細」は連絡する。あるいは「水」と「水に作用をうけるもの」も連絡する。それをあかす一首。
はなびらの踏まれてあればすきとほり昼ふる雨の柩と思ふよ
雨の昼に散らばりながら、地面にへばりつき、そのしたの地面を透かしている、大量のさくらの花弁。しかも花びらと地面の密着は「踏まれてあれば」より緊密なのだ。ところで「柩」の範囲はどこまでなのだろうか。ひとつひとつの花びらなのか。あるいは花びらの散らばりが絨毯化している「眼前の一帯」なのか。いずれにせよそれらは表面だ。となると木下のかんがえる柩そのものが、箱的な立体感ではなく、表面性をあたえられているとみるべきだ。それでも「からだは収まる」。なぜならからだがいつも、意味的に「うすい」ためだ。
「微細」は花びらといった、季節的な物象にのみ特権的に現れるのではない。世界にはひかりがみちている。ひかりは粒子で形成されている――となると、ほんとうは世界そのものが「微細であるにすぎない」。
こまかくてとどけられない音だけを鈍いひかりが硝子にわたす
気をつけよう。ここでは「硝子の透過作用」が主題になりながら、第一観的な「ひかり」と「音」の「あいだ」で、それらの分離が拒まれている。くわえて「こまかくてとどけられない」の限定により、音そのものの可聴性についても判断がくだせないのだ。硝子は透過媒質のはずだったのに、同定不能性を上映する極薄板に「ずれて」いる。一見おとなしい作歌にみえるが、現象を全局面で否定しながら美へ辿りついている点で、哲学的な驚異ともよべる一首なのだった。
月光は踏むとしづかな音をたてひかりはじめるふしぎなひかり
葛原妙子には《月光の中なるものら皆逃るさびしき燐寸をわが磨りしかば》という、途轍もない秀吟がある。「中なるもの」の「もの」は「魅〔もの〕」をふくんでいるだろう。それらは薄青の実質をもっているとみえながら、燐寸の焔ひとつで無に帰す。そう意味づけられたとき、逆に、そうなるまえの月光の、「悪」にもかよう気配が見消〔みせけち〕のように浮上してくるのだ。
たいする木下こうの「月光」吟は、まずは「踏めるもの」として定位される。それは葛原の歌のようには「のがれず」に、音を発し、ひかりを発する。というか、木下的な世界では、さきにみたように「ひかり」と「音」が分離不能なのだった。「たて」「はじめる」という動詞の斡旋によって、月光がここではまずは動物化されてみえる。ところがじつはそれは、「液体状の動物」なのではないか。動物的な痴愚がどこに現れているかといえば、意図的に用いられた「ひかりはじめる〔…〕ひかり」という冗語構造に、だろう。こういう瑕疵ともいえる逸脱を果敢にもちいられる木下の修辞能力は、換喩的で、かつひじょうに高度なものだった。
最後に「月光」否定の秀吟も歌集から付記しておこう。
自己愛〔エゴイズム〕かもしれなくて月光を隔つるためのカーテンを引く