女性の音韻
とどいたばかりの長嶋南子さんの詩集をいま読み了えて、感銘がずっとからだをただよっている。『はじめに闇があった』(思潮社刊)。家庭崩壊、死、悲嘆、眷属史などがつぎつぎ主題的にうたわれているのに、音韻があかるくて、絶望をたかめられた気がしない。つまり詩においては、音韻がたぶん意味より先行するのだ。そこに「あたらしい感情」をつくりあげるヒントがある。そういうものと直面して、うたわれているものが虚構か現実かの判断すらつかない。作者の感覚の、ゆきとどいた注意が、ユーモアとからまっていることだけわかるのだ。
一篇のみ、転記させてもらう。
【眠れ】
長嶋南子
眠りかけると
じゃまするものがいて
わたしの胸を針でつつく
ハッとして目が覚める
つついたのは
死んだ父のようでもあり母のようでもあり
暗い目をした息子のようでもあり
わたしには息子がいないようでも
いるようでもあり
おまえが息子のお面をかぶって
自分の胸をつついているのだろう
と声がする
母が眠れないのはかわいそうといって
針をひき抜き
わたしをほどいて縫い直している
母だと思っていたら
おまえは母のお面をかぶっているのだろう
なにも縫えないくせに
手元を見ればすぐにわかる
と別の声がする
これらのことは
本当は眠っているのに
眠れない夢を見ているのだと
自分にいい聞かせる
眠れよ
わたし
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悪夢的な詩なのに、ひめられている切実なひびきが、恐怖を解除してしまう逆転がある。これが哲学性だとすると、哲学性とはむしろ音韻なのだ。
おなじようなことは、このあいだ坂多瑩子さんからいただいた彼女の詩集でもかんじた。その第二詩集『スプーンと塩壺』(06年、詩学社刊)から、もう一篇、引く。うえとならべると、女性性こそが音韻の一形態なのだという気もしてくる。こちらも夢にかかわる。
【ぼうぼう生えて】
坂多瑩子
草っぱらだ
遠くにいると
芝生のように
静かだが
近づくと
背丈が
ぐんぐん伸びて
どうしてだか
きゅうりに似た
ちくちくする葉ばかりが
ぼうぼう生えて
花飾りを編んだ
あのクローバーの花
どこに咲いていたのか
夢まで
こんなに年よりになって
それにしても
なんて大きな声で
みんな
笑っていることだろう