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正方形 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

正方形のページです。

正方形

 
 
詩集というのは、なぜか通常の四六判などにすると、外見が詩集というかんじがしない。それを逆用する手も、このあいだの最果タヒさんの詩集のようにありえる。けれど実際に多いのは縦長変型だろう。判型の異質が、詩集という書物的異質を保証する恰好となっている。

ところが縦長判型で、一行字数のすくない改行詩を載せてゆくと、一頁行数のすくなさと下余白のおおきさが強調され、値頃感がひくくなる。下余白のおおきさには効率性の見地からどこか不器用な感じもある。この点、詩集造型のうまいのが、ふらんす堂かもしれない。判型を小型・瀟洒にすること――つまり「ちいささにすること」で、詩集的な異質をつつましく決定づけている。

ペイパーバック、見返しなし、扉トモガミ、オビなしの思潮社オンデマンド詩集は、当初A5縦長変型シリーズとしてスタートした。詩集それぞれ字のおおきさも一頁行数も詩篇タイトルのたてかたも同程度で、萩原健次郎さんからは、著者ごとに個性的であるべき詩集の外観が、みなおなじ鋳型に嵌められているのではないかという心配も出された。まあ当初はネット詩誌「四囲」のメンバーが中心だったので、それもいいかとはかんがえたが。

このあいだの三冊同時刊行の田中宏輔さんがおなじ判型ながら変化への先鞭をつけた。字をちいさくして、しかも散文形を駆使して実質的な版面を縦に拡大、文字数が多くても詩集となれるよう挑発をおこなったのだった。詩篇間空白の処理にさまざまな工夫があった。詩集ごとに先鋭なデザイン意識を発揮する宏輔さんらしい意気込みだった。

そのつぎが出たばかりの高塚謙太郎さん『ハポン絹莢』。こんどは判型が横長(横位置判型)となった。ブリングルさんの思潮社詩集の影響かもしれない。横位置判型で縦組になれば、とうぜん一頁あたりの収録可能行数がふえる。しかも高塚さんは字を小さくして、頁数のわりにおおきな量感の詩集をつくりあげた。それとなぜか、書肆山田方式を採用して、聯間空白を二行ドリにしてある。これは字をちいさくしたことから生じやすい目詰まり感を回避したかったためかもしれない。ともあれその形式で、二行聯連続詩が冒頭から果敢にならんだ。

ぼくが今度の思潮社オンデマンドで採用するのは正方形判型だ。いわば縦位置と横位置の中間体で、どちらの感覚もとりいれようということだったが、オンデマンド製本され、手にとってみて、その感触を最終判断するしかない。むろん正方形のものを手でささえると「落ち着く」。これはLPジャケットに愛着してきた往年からの身体感覚だろう。ぼくにとっての正方形詩集の理想が書肆山田刊、藤井貞和さんの『神の子犬』だが、あれは表紙カバーの紙質も特殊だった。暗色の、どことなく毛布のような手触りのある、それでも厚さのさほどないやわらかな紙。ちなみに松浦寿輝『冬の本』の、完全に毛布的な灰色のカバー紙は、とても高価な紙なのだそうだ。

亀岡さんのたくらみにのって、自分のオンデマンド詩集に正方形判型をえらんでみて、ゲラが出るまでの経緯にすこし試行錯誤があった。詩集は1行25字詰、1頁18行の版面だ。そうなると、余白が縦方向におおきく生ずるのではないかとかんがえられるだろうが、じつは字と行間がこれまでのぼくの詩集に較べ、相当におおきい。それで頁ぜんたいに、字が均等にみちている効果が出ている。後知恵的にわかったのだが、ぼくのばあいは1字1字、1行1行をゆっくり読んでもらいたいのぞみがあって、展開する文体や難易度や喩法や驚愕付与とともに、字のおおきさによって「ゆっくり読んでもらう」効果をつくりだせた気がする。ともあれ宏輔さんや高塚さんの対極をねらう立脚となった。

宏輔さんは自分にまつわる粒子のあらい写真(ケータイ写真だろう)で表紙をつくりあげた。高塚さん、それから高塚さんと同時に刊行された宮尾節子さんのオンデマンド詩集は、表紙に絵画が使用されている。ぼくのこれまでの思潮社オンデマンド詩集では、デザイナー中島浩さんが用意した「よくわからない図版」に、文字をつつましく載せる体裁だった。ぼくはどうも表紙の著者名の字がおおきいのをきらう傾向がある。そのうえで中島さんのつかう図版がオブスキュアなのだ。むろんオンデマンド出版で書店には置かれないとはいえ、ネット上や広告上には書影がでる。書影はまあ本の「顔」なのだが、その顔が輪郭もはっきりせずにボーッとしていて、顔貌判別性がひくいというのがこれまでのパターンだった。

アマゾンでのオンデマンド造本では、表紙に絵や写真を使用しても費用がかわらないはずで、それなら詩集に「はっきりした顔」をあたえるため、なにか表紙にふさわしい絵や写真をさがしたり、使用許可をねがってもいいはずなのだが、どうも、画柄によって詩集イメージのぜんたいを拘束されてしまうのを、きらうようだ。もともと詩集タイトルの字面にイメージ形成力があるのなら、ほぼ字とその字組の綾によって、「詩集の顔」ができないだろうか。どうしても図版的なものをからませざるをえないのなら、方形や線の抽象的な分布で充分という気もする。モンドリアン的なものというのは、デザインの抽象性のみならず具象性にもわたっていて、それでも「それ自体」を押しつけず、じつはとてもすぐれている。

詩集の本文校正はさっき終わった。中身がそれで確定するとして、表紙デザインの決定がまだのこっている。そこで中島さんとどんな折衝過程が生ずるのか、たのしみにしている。十月中の刊行、実現するかなあ。
 
 

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2014年09月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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