増村保造・夫が見た ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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増村保造・夫が見た

 
 
増村保造『「女の小箱」より・夫が見た』(64)とひさしぶりに再会した。予定調和の「黒い」破滅ストーリー。株の買い占め、会社乗っ取りの経緯が物語を推進させてゆくが、原作・黒岩重吾、脚本・高岩肇+野上龍雄は、池井戸潤のいる現在からみれば、ディテールの積み重ね、精度がとてもひくい。わらってしまうような、薄っぺらな科白も多い。「女性」は決めつけられ蔑視される。女優の役柄じたいがそれを推進しているのだ。それなのに、若尾文子、岸田今日子、江波杏子など女優陣の幻惑力に魅了されてしまう。
 
若尾が本作で恋に落ちるのは、課長の夫・川崎敬三が社命で株の買い占めを阻止しようとしている当の相手・田宮二郎=悪辣な青年実業家だが、恋愛にまつわる紋切型のやりとりのかわされるなかで、「恋におちてゆく」若尾文子の身体表情、その「段階化」だけが異様に微細でしかも飛躍すら織りあげてしまう妙な不均衡がある。このことじたいが悪夢に似ている。つづめていえば、恋愛表象が悪夢化する酩酊を映画が冷笑的にさしだしているのだ。そのなかに「二者択一」にまつわる哲学的な命題も伏在している。
 
展開を盛り込むようにみえて、そのじつ物語が平板なのだが、その安直さこそが罠にほかならない。観客はストーリーの蜘蛛の巣から前景化されてくる若尾のからだに、いわば銀の糸をみる。からだに物語のからむこの感触が、いわば「からだ=ものがたり」の複合体を形成するのだが、それがむろん「現実」から問えば、キメラなのだ。それでも若尾はからだの(みえない)糸をほんとうにうつくしく、ゆらす。
 
伏目、横顔、不倫にかかわって文字どおりよろめく姿勢、着物姿、頭頂のたかさを驚愕するほどうわまわって幻惑を盛り上げる六〇年代的な、やがて「サイケ」の命脈を掘り当てるだろう髪型、平板で和風な、それでも現在から規定すればしろいアニメ顔である若尾の顔の画布を活気づけている、少女性、憤怒、淫蕩、諦念など、通常は同列化できないものが慌ただしく点滅しあう動物的な眼差し、下から対象をみあげるその貌にもっとも聖性が発揮される、そのことじたいが目論んでいる、若尾に充填されたサディスム誘発…
 
それでも若尾に張り巡らされているのは、撮影所の伝統にもとづいた美化であると同時に、なにか得体のしれないミソジニーなのだった。若尾に魅了されながら、その魅了の刻々を黒い冷笑へとかえてゆくこの暗冥な相反感情の発信源は、むろん監督の増村だが、その気配を知りながら自分を刻々とカメラのまえに展覧させてゆく若尾も、共苦の本来的にもつ外延拡張力で「増村=監督の場所」を獰猛につつみこんでゆく。もしかすると、悪夢のほんとうの正体はそうした対立価値の無効化かもしれない。かんたんにいえば、映ることだけで若尾がただ増村に勝利しているのだ。
 
「嘘ばっかりの映画」――それは作中に若尾を「吹き替えた」裸身が氾濫している点からとくに生ずるのだが、「氾濫」そのものに発情してしまう形而上的な倒錯も起こる。なにしろ観客は、「罠に直面している」意識からずっと離れることができないで、吹き替えられた裸身の、肌のくずれながらもそれでも保持している「顔のない」石膏性と、からだじゅうが眼になって身体表情にすばやい変化を起こしている、「顔と二重化された」若尾の、吹き替えよりはずっと華奢なからだ――これらの対比性に、幸福に引き裂かれてゆくのみだ。こういう分裂は、映画以外では美学化できない。そして「血がほしい」とおもった好機に、「若尾ではなく田宮二郎から」流血が起こるのだった。映画が嗤っている。
 
川崎敬三の印象づける、人格のいやしさが逸品。けれども最もフリーキーなのは、田宮二郎の右耳のかたちだったりする。そういうもののつくりあげる不吉さで大映のスタジオシステムが形成されていた。カメラマンが村井博から小林節雄への移行期だったのか、そのどちらでもないカメラマンは増村映画がモノクロからカラーになるときには艶笑性が不随意的に付帯してしまうとつげる。
 
美術がごちゃごちゃしている。俳優の肉だけで画面が充満してしまうフランシス・ベーコン的な事態も、作品の終幕でしか起こらない。これらが増村調を減殺している。科白も早くない(かわりに時間進展が異様に速い--全体が数日の物語で、しかも俳優たちは「夜に活躍する」)。『妻は告白する』や『赤い天使』のような、モノクロ画面ならかんたんに成し遂げる「集中」もない。むろん物語の予定調和は、じつは作品是非の判断基準とならないだろう。それが増村で、この点だけがフィルム・ノワールとちがう。フィルム・ノワールではむしろ物語の予定不調和が最も価値化されるのだから(ただし増村には予定不調和の傑作『偽大学生』がある)。
 
それでも「からだであることの同意」、それを最もふかく憂鬱な水準でしめすのが、にんげんのうちの女優だ。彼女は非人間性ととうぜんに接触する。若尾文子は眼前にみえながら、井戸の底の捕囚でもある。このことはなんら予定調和的ではない。
 
 

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2014年09月06日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

ミクシィのコメント欄でいいやりとりがあったので、以下にペーストしておきます。

(アイカワ)

『夫が見た』は、若尾文子の「肉感エロス」以上に岸田今日子の「囁きタナトス」の方が決定的だと思っています。
夫に構われず官能と生命力を持て余す「専業主婦」若尾文子のエロシャワー映像(!)が冒頭から画面を彩る一方、夫の「男の夢」の資金稼ぎのために官能と生命力をすり減らした「夜の女王」岸田今日子の囁きボイスという、女どうしの対立関係があるわけで、血まみれのラストで自分なりの「女の夢」を演出する岸田今日子の「囁きタナトス」のほうが、最後の最後で田宮・岸田夫妻の「夫婦無理心中愛憎劇」の部外者にはじき出された若尾文子の「肉感エロス」に勝っているのではないか、と思います。
増村映画では最愛の一本です。



(阿部)

はい、岸田今日子のことはほとんど書きませんでしたが、まさにおっしゃるとおりです。岸田今日子はまなざしの妖しさが決定的ですが、裂けるような口のおおきさによって、ときたまその上顎・下顎が鰐に似てみえる。そこからおっしゃるような催眠的なささやきがでる。若尾の「声の良さ」には記号的なみだれがないですが(それはパールの表面のようにあかるく、くぐもった声といえる)、岸田の「声の良さ」は口もとから意外性をともなって生じるので、魔的なんですよね。

むかし録音技師の橋本文雄さんが、録音技師として録ってみたいのは岸田今日子の声だといっていました。しかも「録りにくいやろうなあ…」という予想的な慨嘆をともなって。

江波杏子もふくめ、『夫が見た』は女優間に生ずる「反映」も悪夢的な幻惑ですね。江波は現在のような妖怪顔になっていないし。ただしぼくはもう中学生時代から、徹底的な若尾フリークなんですね(笑)

そうそう、声にふくまれているのは、通常、息、声帯のふるえ、舌、くちびるなんだけど、岸田今日子はそれらにくわえ、「歯をふくんでいる」ような気がするんですよね。だから怖い。息には酒精もふくまれているのじゃないか

2014年09月07日 阿部嘉昭 URL 編集












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