米林宏昌・思い出のマーニー ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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米林宏昌・思い出のマーニー

 
 
【米林宏昌脚本・監督『思い出のマーニー』】
 
「幻想」が小説にとって取扱い注意なのはいうまでもないだろう。文体と時間と空間を「創造」し、物語とキャラクターを「想像」する小説にとって、幻想性が小説本体の付加価値にそのままなるかというと、事態はかなり微妙なのだ。最良の幻想を作用させるには、小説の基軸をくりかえし侵犯してゆくような「展開」がひつようだ。そこにこそ夾雑的なディテールも付帯してゆく。
 
逆にいうと、現実と幻想の二元性のなかで、幻想を現実離反装置、現実を幻想からの復帰点とするような、たんなる「往還」は、二元性のみを物語の進展装置として確保する一種の自己弁明にすぎなくなる。この手の「幻想」小説が、幻想が皆無なのに幻惑的な小説よりも数段ひくくみられることには、創造性の見地からそれなりの理由があるだろう。もっとはっきりいうなら、幻想は小説性そのものの逃避材料にまでなりうるということだ。だからこそポオやリラダンやボルヘスや泉鏡花や川端康成や押井守が奇貨となる。
 
ジョーン・G・ロビンソンの英国児童文学を原作に仰いだジブリ製作、米林宏昌脚本・監督の『思い出のマーニー』を昨日スカラ座で観た。荷物の到着時刻が遅れ、観たかった試写に行けなかったためなのだが、二学期に全学授業で宮崎駿を講ずるので、必要な鑑賞でもあった。無敵のジブリだからはっきりしるすが、正直いうと、感銘に乏しかった。想像性のひくさを補完する現実-幻想の二元主義に辟易してしまったのだ。
 
小学校六年のヒロイン(黒髪に、青い瞳、目許の表情に翳りが仕込まれている)の「杏奈」には育て親への不信、引っ込み思案、喘息罹患、その療養のための流謫といった「負」の徴候がちりばめられる。ヒロインの精神にはシニシズムが浸透していて、それが陽気で向日性のつよいヒロインを一貫して造形してきたジブリアニメからするとたしかに新機軸かもしれない。彼女は、根室近郊の湿原地、潮がみちると水の向こうに鎖されてしまう洋館に住み、しかも厳格なばあやと双子のねえやに幽閉されているようすの同齢のマーニー(金髪で、西洋人形めいた造形)と知り合う。このマーニーの出現する時刻がかならず夕刻から深夜までの水辺だし、出現と消滅にも不連続が仕込まれているしで、だれもがマーニーを「幻想」の存在として、ほぼ始めから了解するだろう。
 
「ふたりだけの秘密」「会う日ごとに三つしか質問しないこと」「舟を漕ぐこと」「月下」「手をつなぐこと」「瞬時の懐かしさ」「ハグ」「ともに泣くこと」といった吉屋信子的な精神性がこのアニメでは顕揚される。それでも清水宏『港の日本娘』前半や高野文子『春ノ波止場デウマレタ鳥ハ』のような幻惑が一切ない。すべてが清澄の記号で退屈に統一されているためだ。それでもふたりのハグの頻繁な繰り返しにより、「百合」趣味だけは、物語の要請以上に猖獗してゆく。宮崎のロリコン趣味にたいし、米林の百合趣味も相当に病的だという印象のみが増強されることになる。
 
公開後だいぶ経っているので種明かしにちかい物言いをすると、杏奈にとってマーニーは結果的には同属だった。つまりふたりのハグは「自分が自身を抱く」再帰的仕種に終始したといえる。そうして他者がいない世界が展開されたと結論づけられるこのアニメ映画で、幻想は美的な価値顕揚に「悪用」されたのみにすぎないとわかる。この構造が基本的に駄目だった。このアニメに感銘したひとには自己愛しか保証されない。そう、作品の位置は岩井俊二の『Love Letter』に似ている。共苦がないのだ。
 
種田陽平デザインによる湖畔の洋館、あるいは杏奈が療養のために仮寓する家も「それなり」でしかない。おなじことは洋館から見つけられ、杏奈とマーニーの日々の行動を裏付けする古い日記にもいえる。
 
「それなり」以下なのは、まずパーティ場面でのダンス音楽演奏の覇気のなさだろう。くわえてこのアニメの造形上の肝となる「水」の表象が無策だ。透過性、波紋、反映、あるいは表面がみえないことで水底が露出しているような距離感の幻惑もない。しかも潮の満ち引きに干渉されるのなら、そこに顕れている水は汽水ではないだろうか。そうすると、浮島のあるようにみえる植生がおかしいし、ましてや釧路付近の夏は濃霧におおわれ極端に寒い――したがって水が清冽さを超えた残酷な冷たさまで湛えるといった現実性もない。間歇的に挟まれる鳥の描写が稚拙なのと同様、「その地の水」の「その地」性がいちじるしく欠落していて、こういうことはジブリアニメにあったか思い出そうとしたほどだ。「緑のベタ化」なら、あきらかに『風立ちぬ』の衣鉢を継いでいる。
 
水に濡れる足は靴をぬぐ。それが水底をさぐりながら歩き、あるいは地上を裸足のまま歩く。このときの足音にのみ、繊細な感覚があった。それでも片方の靴の紛失というエピソードは、物語全体のなかで何の効果も発揮しないまま収束してしまう。それでいえば、手が何に触れ、どんな違和を察知し…といった「展開」も、サイロの場面や、「幽霊」マーニーに杏奈がふれる場面で創造的に加算されてゆかない。釧路近郊の夏の水が冷たいという触感が観客を打ってゆかないのと同様だ。触知の欠如。それと同列の、視覚の絵葉書的な平板。幽霊と自然の加算式で顕れる解答はアニミズムだとおもうが、それもない。ないから、作品トータルは現実と幻想間の単純な往還、しかもその世界観をことばによって事後説明することに終始してしまった。
 
なにが問題なのか。幻想をもちいても、「同一性」が打ち破れないということに尽きるのではないか。しかも前言のように作品は、作中で起こったハグが、自分が自身を抱く図式にまで陥落してゆく脱力まで決定づけてしまった(杏奈と養母のハグにしてもそれは変わらない)。物象の物質性に鈍感な感性が、自己愛のみを拾いだしてしまったとしかみえない――だからやりきれなくなるのだった。もっと行為を「展開」して、その深部で精霊とふれるひつようがあったのではないか。とりあえずはそれがジブリの商標だったのだから。しかし童心がわくわくしないジブリアニメがつづく。むろんこれは日本の「現在の問題」に属するだろう。
 
 

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2014年09月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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