実録・連合赤軍(アイカワさんへの応答)
mixi日記の書き込み欄で
「アイカワ」さんにした応答を
ここにアップしておきます。
簡単な映画評になっているとおもうので。
●
昨日女房とようやく『実録・連合赤軍』をみてきました。
違和物件を完全に映画のうえに定着させ、
あとは歴史的視線からの審判を待つ、
そのために演出力を少ない予算のなかで完全動員する--
そうした若松監督の気概に襟を正しました。
しかもこの映画、彼のテーマだった「密室」への
最終回答ともなっていた。
想像力と犯罪と転覆力の温床だった若松的密室が
瓦解してゆくとき、
その映画性に目頭が熱くなった。
辻「クローチェ」智彦のカメラワークが素晴らしい。
「連赤」の「総括」が新左翼フォビアを確定した、
という「俗説」には僕はずっと反対意見を表明してきました。
それ以前の左翼的言辞のほうに
すでに敗北の実質があったからです。
概念語を、口語の身体性を超えてこねくりまわす、
あのくだらない「語り方」はとうぜん崩壊へ向け自走する。
そして自らの行動の革命性が
何の実質を帯びていないことにも気づかせない。
茶番でしかない、稀薄で不毛な言葉遊び。
「堅さ」がしかしそれを錯覚させる。
日本人の抽象能力がどの程度かを
またも目の当たりにしました。
森恒夫が適用範囲の定かではない「総括」の語を初めて出して
成員相互が抽象的なリンチ装置として駆動してしまう--
そんな「集団磁場」の機微を
若松さんは見事に描いていた。
いやあ、すごかったなあ。
ただ、いまの俳優ではまだ当時の公的左翼言辞の空疎さが
完全には出せない面がある。
しかしこれは、
大島『東京戦争戦後秘話』の
竹早高校生たちの語りなどで補填できます。
坂井真紀は素晴らしい演技をした。
自らを殴り顔がどう変型したかを
永田洋子が差し出す鏡面から
ゆっくり露わにしていった辻さんのカメラの
場所をわきまえない「サスペンス」が
素晴らしい亀裂ともなっていた。
宮台はどうでもいい(笑)。
「場所のわきまえなさ」が俗っぽいだけだったので。
連赤時代の「集団」内言辞の閉塞性は現在では通用しません。
「リアル」が旗印になったからです。
それでも「似たような不可能性」が横行している。
それで「集団は本当は意思決定をおこなえない」
という事態がいまだにつづいている。
たぶん『実録・連合赤軍』を創造的に観る、
とはこの観点からですね。
もしどこかの「団塊」が
この映画をレトロの文脈で語りだしたら
それは明らかに「狂気」です。
僕は試写の段階でこの作品を観、
そうした動きに予防線を張るべきだったともおもいました。
しかしカフカは箴言に書いています--
《ほんとうに判断を下せるのは党派だけである。しかし党派である以上、党派は判断を下すことはできない。そのためにこの世には判断の可能性はない、あるのはそのほのかな照り返しだけである。》
●その後のアイカワさんの書き込みにたいする返答
僕は若松さん、自分に関わることだけに
誠実極まりない態度で
作品に臨んだとびっくりしましたよ。
「編集」を駆使した伴明『光の雨』を他山の石にして、
徹底的に時系列構成を貫いたのではないでしょうか。
山岳アジトに行き着くまでの
ドキュメンタリー映像を織り込んでの速歩調、
山岳アジトで遠山=坂井がリンチ死するまでの緩徐調、
その後の死者続発時の速歩調、
浅間山荘に入ってからの臨戦体制・・・
映画の進行は速度転換装置を内包していた。
坂井真紀が死者になって
映画は一旦「中心」を見失う。
「主体化」=「共産主義化」が目されている
人物たちの言説のなかにあって、
映画を推進させる主体が消えて
全員が幽霊になる。
そのあと、加藤末弟(少年A)
(このことで映画は「ありえた」長谷川和彦映画を夢想する)と
奥貫薫=牟田泰子さんを「主体」にしようと
映画の進行が軋みはじめる・・・
このとき「中立」の概念が現れて
映画は亀裂を開始する。
この「中立」による亀裂を中心化するために
物理的な亀裂発生装置、
例の鉄ボールが画面から消えたのではないか、
と僕は考えたのでした
(むろん予算不足を糊塗する演出でもありましたが)。
そこでは原田眞人『突撃せよ』の
心情を託す相手を間違えた醜悪なリアリズムへの
批判も開始されます。
原田のバカ映画では山荘に突入した機動隊は
まず、泰子さんを救出してみせた。
ウソでしょう。
機動隊は泰子さんに見向きもしなかった。
それを若松映画は着実に描いている。
篭城を解けとする呼びかけ人に親をもってきた
日本的な醜悪さは
「密室外部からの声」として着実に音声化される。
ここには若松プロが得意とした陰謀劇の感触がありました。
こうした積み重ねのなかでだからこそ
牟田泰子さんの「今後裁判があっても
あなたたちの前に証言者として立たない」という言葉が
逆説的な強度を帯びてきたのではないでしょうか。
もう一個、「墓碑銘」の生産を映画は繰り返してきた。
それは「字」(字幕)の問題ではない、とおもいます。
どれくらいキツい撮影だったろうと信じられない
猛吹雪のなかの連赤行進場面で
オーバーラップで死者たちの死に顔が
間歇的に短いあいだ、曖昧に画面定着される。
あそこが異化された墓碑銘生産場面でした。
しかしそれは恩寵なのです、
死者とともにあることは。
そうでないと連赤問題は解決しない。
映画は逆証の動きもした。
醜さの権化、森と永田は
旅館でのセックス後の姿は描かれても
逮捕の瞬間の描写をネグられたのです。
それは敗北死にすら値しない、ということだったのでしょう。
映画が死者たち・中立者たちの側にあることを
『実録・連合赤軍』は徹底していたとおもいます。
あと「誰でも知ってること」だけでは
僕にはありませんでしたよ。
安田講堂での逮捕者があれほど連赤に雪崩れこんできた点に
実は僕は無知だった。
つまり映画は連赤を「突出」ではなく
当時の事象の連続的必然として描こうとしていたとおもいます。
ともあれこの作品では異化の内在化が目論まれている。
それが若松の成熟した手つきです。
そしてこの「手つき」は彼にあっては新発明で、
足立『幽閉者』が到達できなかったものでした。
若松監督はアヴァンギャルド批判をしたのではないか。
むろん、「異議なし!」ではなく、同意の拒否こそが
牟田泰子さんを除く、
この映画のすべての登場人物に向けられるべきなのは
いうまでもないことですが・・・
その意味では「つらい映画」でした