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大森立嗣・まほろ駅前狂騒曲 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

大森立嗣・まほろ駅前狂騒曲のページです。

大森立嗣・まほろ駅前狂騒曲

 
 
【大森立嗣監督『まほろ駅前狂騒曲』】
 
三浦しをんの小説「まほろ駅前多田便利軒」シリーズ。その標題にある「まほろ」のモデルが町田だとは知られているだろう。町田はJR横浜線と小田急線との交点で、明治初期は北関東で生産された生糸を横浜から輸出する「絹の道」、その街道中間点として交通の要衝にあった。
 
むろん近年は隣の相模原と併せてたぶん100万人の人口をかかえる大ベッドタウンながら、東京の中心地からは最速で30分ていどかかる微妙な位置にある。千葉、柏、大宮、立川などとともにそういった大規模の東京近郊地には何が共通しているのか。まずは日曜日の雑踏の混雑だろう。「地場」だけで生活と消費をのりきる地元民が急増しているのだ。そこには、古くからの老人居住者、若者層、さらには日本人ではない性産業従事者などが無秩序に混在していて、対・東京という方向性にたいし脱力的に距離をたもつ複雑な独立性がくりひろげられている。
 
三浦しをんの小説には、たぶんそんな町田のもつ精神性がなにかという見解が、伏流している。血道をあげない美徳があること。清濁併せのむ美学的な混淆があること。地元発信のちいさな流行に乗ってみせること。要点は、過干渉的でないクールな共生により、手軽に日々を愉しんでみせるチープな演劇性があるといったところだろうか。老若男女がやわらかくヤンキーな町。
 
となると、友人以上だか友人未満だかも知れない付き合いの表面性によって、たがいが複雑な相棒になるような関係が必然的にたっとばれることともなる。そういった精神性がひとつの映画ジャンルを召喚した。「バディ・ムービー」。しかも白・黒をはっきりつけない物語が、次への持続を予感させるふくみまでつくりあげる。映画のえがこうとしているものが、物語である以上に雰囲気なのだった。
 
町田の「ありものの」風景のなかで終始映画が徹底的に撮られ、そのなかで便利軒の代表・多田=瑛太、そこへの居候・行天=松田龍平のやりとりを、一種、微妙な中間性で提示してゆく、映画とTVドラマにわたる本『まほろ駅前』シリーズでは、この意味でバブル期以降の都市論が精緻な濃淡を肉付けされることになる。ここでは現在的な都市論が廃墟性の剔抉でない点に意味があるのだ。
 
たとえば映画としてのシリーズ第二作、この『まほろ駅前狂騒曲』での最初の案件は、地元の老人・麿赤児から舞い込んだものだった。いわく、バスの間引き運転疑惑が地元バス会社にあるから、それをバス停に詰めてチェックしてほしい、と。ボサーっと瑛太と松田龍平がバス停の椅子にならんで座っている。仕事をえらばない便利屋稼業だからその依頼に乗ったものの、なんともショボい=映画的感興に欠ける案件というしかない。
 
ところがバスの間引き運転には象徴性がある。それぞれのバスの運行が渋滞などで遅延してゆく。となると運行表どおりの運転が次第にうやむやになる。ガソリン代の節約、団子運転の無駄回避のために、バレなければ運行が間引かれるだろう。結果、眼に見えないかたちで地元民に保証されていたはずの生活の利便性が減殺される。
 
そういうことを町田の郊外性がゆるさない。田舎であればバスの本数がもともと少ないのでこういう問題が起こらない。都心部ならバスの代わりに地下鉄などの代替交通手段がある。つまりバスの間引き運転は、駅前ロータリーから分譲地などに複雑に路線が延びる町田的な場所にこそ特有に起こる不正なのだ。こういうものを放任すると、町田的な立脚に危機が生ずるというのが麿赤児の見解ではないだろうか。
 
あるいは、行天=松田龍平の不思議な個性。低体温のようにみえて義に厚い。冷静な視力をもつようで、ぼんやりとしている。キレると抜群の攻撃力を発揮しそう。子供ぎらいというが、子供に恐怖まで感じている趣もある。その彼は、同性愛者の本庄まなみに精子提供をしたうえで、本庄とは別れている。役に立ったようで立っていない人生の立ち位置がそうしてまず前提されたうえで、ドラマの背後に放浪癖を隠している。「まほろ」にいることが「見えて」、同時に「見えない」この松田によってこそ、白黒に振り分けられない奥行きが映画にもたらされている。
 
ところで本作で多田便利軒が預かる子供こそがじつは松田が精子提供をして生まれた「はるちゃん」だった。このことが松田に露見すると、松田がどうキレるかわからない。大森南朋などの「脅し」に瑛太がビビりまくるというのが、映画がまず繰り広げる微温ギャグだった。
 
映画のもたらす笑いは、本作とおなじく大森立嗣が撮った映画シリーズ前作や、大根仁が監督したTVシリーズ同様、瑛太のはっきりとした感情提示にたいし、オフビートの演技リズムをもつ松田龍平が感情不明のまま存在している、一種の不協和からもたらされる。「外し」によってドラマに「ゆれ」の生ずる異質が可笑しいのだ。
 
そうなると役得がいつも龍平のほうに流れそうなのに、サイトギャグまでふくめた表情の多彩さを実現する瑛太のほうにも「いい感じ」が反映されてゆくのが、大森立嗣監督の作劇術のすばらしさといえるだろう。瑛太のこの感触は、大ヒットドラマ『最高の離婚』とも共通している。それでも松田龍平の「受け」が低温だから、瑛太の感情振幅が相対的におおきくみえて、瑛太にも演技の効率性が確保されるのだった。
 
瑛太は案件とぶつかり、もがき、解決の道を探る。だから自転車で疾走するシーンなども用意される。たいして松田龍平には「いつの間にか」「そうなっている」美徳が付与される。どこかで存在の非連続性をたもつ松田龍平には、時間の間歇によって、次段階の表情を付与される魔術的な側面があるのだった。このふたりの偏差提示のために、「はるちゃん」に扮した名子役・岩崎未来が良い触媒となった。撮影時5歳でじつに可愛い。その「はるちゃん」に冷淡だった龍平が、便利軒事務所の長椅子に、いつの間にか一緒に寝ているのは、時間の間歇が龍平に幸福に作用するこの映画の法則を物語っている。
 
スロースターティングではじまったこの作品では、バスの間引き運転、龍平の出自、カルト宗教集団の教祖・永瀬正敏が表向き無農薬野菜の栽培集団を再組織したこと、その不正を、やくざから依頼を受けた瑛太・龍平が暴いたことなどが伏線としてちりばめられたのち、ついに伏流がすべてあつまるかたちで、手に汗を握らせながら、「しかも」ショボくて、そのショボさゆえに進展の読めない「事件」が見事に起こる。ここでも低温性と高温性の混淆が映画性のあたらしさをしめしていたのだった。
 
大森監督の演出はその場面で冴え返る(松尾スズキの扱いでそれを確信したあと、龍平と永瀬のぶつかりかた、さらには子役が意外な方向進展まで付与するにいたり、わくわく感がとまらなくなった)。とりわけ俳優たちの行動によって割られてゆくカットに遺漏がない。往年のプログラムピクチャー(メジャースタジオ製作のシリーズもの)にはありそうでなかった新機軸かもしれない。脱中心性があたらしいのだ。
 
町田=まほろが要約不能であるように、あれよあれよとディテールが積み重なってゆくこのクライマックスも、一筋縄では語れない。注意したいのが、この映画特有の低体温と高体温の混淆がこの場面に高次元で実現されている点だ。三浦しをんの仕掛けた「町田論」が映画のクライマックスの演出に見事に結実していて、だからこそ構成美をかんじる。
 
たとえばバディ・ムービーの古典、シャッツバーグの『スケアクロウ』に、刑期を終え、アル・パチーノの旅の相棒になったジーン・ハックマンに用意された名シーンがあった。粗暴犯の出自をもつハックマンが怒気を爆発させるのではと観客もアル・パチーノも心配したとき、ずっと厚着の謎を抱えていたハックマンが怒気を収めるため、自分の服を次々に脱ぎ出すのだが、異様な重ね着だから脱衣動作・行為が延々つづく。それが見事に観客の心をほどき、笑わせた。『まほろ駅前狂騒曲』のクライマックスシーンはそれとは逆の事態だった。ドラマ進展の不可逆性が、つぎつぎに「みえない運命」を「着衣」していって、その着衣過程がなかなか終わらないような印象をあたえるのだ。
 
ラストの処理もふくめ、とても気持ちのいい映画だった。10月18日より、全国公開される。
 
 

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2014年09月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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