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詩をかくことをおそれる、まよなかの蒼ぐろいからだからはじめる。
インスタントコーヒーなどをマグカップにつくると、身のまわりの筒状のほとんどが筒抜けていない。生活とは池に似た溜めを点在させ、ときに放置して蒸発にまかせ、ときに果敢をもってのみこむことだ。それがしだいに筒へなってゆく生だろうか。
まよなかにも窓辺があり、そのそばにあるぐうぜんをからだにする。身を立てることをしなかったのだから、片膝を折って、半身の、そのまた半分を建ててみる。からだを建築の中途にすれば、かんがえのためにのむコーヒーが旨くなる。ふと、じぶんにもポーズがあるのかとおもう。
いつからだろうか、筆舌につくしがたい個別、というものがしんじられなくなった。たとえばだれもが、つらいとふつうにかんじる。面倒をよける。万人が感情なら、じつは感情も万人だといいかえてみる。そうしてひとがきえる。万人ごとのうつくしさが、それら万人にちがうかたちで「おなじく」あふれている、これとおなじだ。
きのうの帰途、水から市電への経路が、あるいは水をたたえる市電の車中が、そのように宵闇をたぷたぷはしっていた。
かどをまがって、けれども路上にわずかな火花。
ひかったものをおもいだす脚が片膝を建てている。この感触だ。記憶の片々を、すきまだらけの空間にしながら、以降、二十週ほどの音がつくられてゆくだろう。