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高校時代は、ともだちとわかれ藤沢駅からひとり江ノ電に乗り、帰途についた。冬の夕陽があかあかとみだれているとたまらなくなって、鎌倉高校前で下車し、最寄りの稲村ヶ崎まで七里ヶ浜の波打ち際をゆっくりあるいた。風がつよく、波は牙をむいたが、
皺にくずれた詰襟の制服まではとどかなかった。
なぜあんな無駄をしたのか。きっと片頬だ。右頬だけがひかりに照らされることで、すでに捨て身のスリルをおぼえていた生きかたを、あやうくひかりへとつなぎとめていたのだとおもう。
横から引かれてあるくこと。右耳の奥が恥辱に炎えること。読む本にかすかに聖性のあっただけの日々とおもいだすが、耳孔からなされるあたまの分離には、礼拝時にみあげる円天井のもようをかんじた。「てらすな」と不機嫌になる、それがうつむいてあるく足もとの「すな」へかわった。
そういえばリーフェンシュタールは、跳躍者の瞬時の空中形が放つ、幻惑のコロナをみすえていた。ぐうぜんが幻惑をつくる。しかも記憶にしかのこらない。おなじようなすがたが、かさなる波のあいだをふくすう跳んでいた。傍若無人なそれらをじかに視ず、横とおくに予感しながら、
右頬がひかることで、耳孔奥へとひろがってゆく円天井をあかく閉じていた。
それでも糸の身をはこんでいた。奇異きわまりなく。